新田次郎が我孫子で過ごした4年間

千葉県我孫子市の“郷土歴史家"たちが毎月編集している会報「我孫子市史研究センター・会報250号(通算557号)」(発行日・令和5年3月28日)を、我孫子市の図書館で入手した。この中に、2月26日に行われた村上智雅子氏の報告会(参加人数・14人)の内容が掲載されていたので、全文紹介する。

新田次郎夫妻が我孫子で過ごした四年間ー

〈はじめに〉

我孫子では、大正時代に白樺派柳宗悦志賀直哉武者小路実篤が新婚生活を営み子を育て創作に励んだことは、多くの人が知っている。しかし昭和時代、山岳小説家として知られる新田次郎が、我孫子市布佐で新婚生活を営み子を育て、『ラジオゾンデ』という科学書を書いたことはあまり知られていない。今回、新田次郎我孫子で過ごした四年間に光をあて、その実像を探っていきたい。

〈藤原寛人とていの我孫子時代〉

新田次郎の本名は、藤原寛人。後年、新田次郎というペンネームを付ける前の我孫子時代は、全て藤原寛人の呼称である。昭和十三年春、寛人は気象庁の役人として富士山測候所から布佐気象出張所に赴任して来た。この出張所は岡田武松の尽力で創設されたもので、この赴任は岡田の一番弟子である伯父藤原咲平(岡田の次に第五代中央気象台長となる)からの任命であった。寛人は学生時代から伯父咲平の官舎に寄宿していたので、隣に住んでいた岡田は旧知の敬愛していた大先輩ということになる。思った以上に伯父咲平と岡田との絆が垣間見られる我孫子での藤原夫妻の四年間を、年度毎に見ていきたい。

ー昭和十三年ー

藤原寛人が我孫子市布佐にやって来た時、まだ布佐出張所は正式に開所しておらず、寛人は出張所開設の準備に携わりながらラジオゾンデという気象観測器を空に揚げ観測・研究し、余暇にテニスを励んでいた。「この出張所へ転勤してから結婚するまでの一年間が、私の人生で一番よく勉強した時期であった。」(『白い花が好きだ』)と後年エッセイに書いている。

慣れない土地で頑張りすぎたのか、この年の秋、疑似赤痢にかかり一カ月で回復するが、弱気になったところに見合い話が持ち上がる。母親同士が女学校の同級生であった両角ていが、見合い相手であった。藤原家の先祖は諏訪藩に仕える郷士であり、祖父は上諏訪町長をした家柄で、一方両角家は父が小学校の校長をしていたが別居の母は農業を営んでいた。両家の家柄には格差があるが、実直で努力家の寛人と我慢強く進歩的なていの見合いは周りからの勧めもあり、トントン拍子で進められた。

ー昭和十四年ー

布佐出張所は四月四日に正式に開所式を迎え、五月には寛人とていは結婚した。「二人の生活は始まったが、夫は帰宅しても『新婚の夢を語る』ようなことは殆どなく、夕食がすめば書斎に引き揚げてしまっていた。」(藤原てい『わが夫新田次郎』)妻ていは、ひたすら研究に励む夫を支える生活に耐えきれず、この頃たびたび夫妻喧嘩をしていたといわれる。

ー昭和十五年ー

夏には長男正広が生まれ、ていもやっと結婚生活の喜びを味わい、母としての決意を持つ。出張中の寛人も「一貫目の 男子うまれけり セミの声」の電報を届け、大いに喜び、親戚中も喜んだ。それ以来、ていは愚痴をいうこともなく子育てに専念し、寛人は出張と仕事に邁進し、二人にとって充実した日々であった。

ー昭和十六年ー

日支事変が拡大していく中で、同僚たちが出征していくのを見て焦るようにラジオゾンデの研究に励み、「天気と気候」誌上にラジオゾンデの原理と構造について一年間連載した。この年、布佐出張所は、東京に近い便利な気象出張所がいくつか出来たため高層気象観測の業務が廃止され、連絡用無線施設として布佐気象送信所と名前が変更された。

ー昭和十七年ー

布佐送信所ではラジオゾンデの観測ができなくなったため、伯父咲平の計らいで寛人は春に小笠原諸島の母島に建設工事担当者として赴任。四月十六日に、布佐送信所の人々に見送られて我孫子を去る。この年、九月二十五日に『ラジオゾンデ』が地人書館より刊行された。序文に岡田武松が「ラジオゾンデに就いて心得べきことは細大漏らすことなく、平明懇切に記されてあり、非常に有益な好著である」と書いている。

〈おわりに〉

昭和十七年春に我孫子市布佐を発った藤原夫妻は、昭和十八年には満州に赴き、そこでは豊かな生活から一気に過酷な引揚生活を余儀なくされ、帰国してからはその苦難をバネにして、夫妻ともどもペンを持つに至った。その勁さはどこから来たのであろうか。

それは我孫子市布佐での確かな生活があったからであろう。時代に翻弄されながらも自然豊かな布佐の地での地道で充実した生活があったからこそ、後の引き揚げの苦難を乗り越え、共に作家への道を拓いていったといえよう。

あの山岳小説家として人気があった新田次郎(1912〜80)が、若き時代に我孫子市に居住していたことを知っていましたか。吾輩は、近代気象学のパイオニアと言われ、大正12(1924)年から昭和16(1941)年まで18年間中央気象台長を務めた岡田武松(1874~1956)絡みで知ったが、それほど詳細には知らなかった。だが、我孫子市では気象送信所(平成11年3月閉鎖)の跡地に「気象台記念公園」が整備(平成14年)されるなど、地域の歴史を伝える努力はしている。

それにしても、満州に渡って僅か2年後の昭和20年8月、ソ連軍の満州侵攻で藤原一家は悲惨な状況に陥った。それでも、妻の藤原ていは5才、2才、そして生後まもない子供3人(長男・正広、次男・正彦、長女・咲子)を連れて、1年以上の過酷な引き揚げを体験して9月に帰国した。その後、藤原ていはその経験を著書「流れる星は生きている」という作品で描き、ベストセラーになったことは皆さんもご存知の通りである。

一方の新田次郎は、新京にてソ連軍の捕虜となり、延吉収容所で1年間抑留生活を送り、運よく10月に帰国している。そして、夫人の著書がベストセラーになると、「お前(妻)の作品が、これだけ売れるなら、俺が書けばもっと売れる」ということで書き、これが人気作家に至ったと“本人が言っていた"ことを覚えている。

長男・正広のことは知らないが、次男・正彦(お茶の水女子大名誉教授)は父親と同じように、鼻っぱしが強い感じで好きな人物である。そんなことよりも、月刊誌「文藝春秋」の最初のページは「巻頭随筆」と総称されるというが、そのトップに毎月正彦氏の文章が掲載されているので、今後もトップで掲載されることを願いたい。3月10日発売の「文藝春秋」では、新聞大好き人間の吾輩が納得する、見出し「自らの頭で考えないという病」という一文であったので転載する。

スマホやパソコンの行き渡った今、我々は当時よりさらに質の悪い情報空間にいる。情報の真偽や是非を判断するには読書から築いた健全な知識、教養、道徳、情緒、そして実体験を通した肌感覚などが必要だが、若い頃から情報空間にどっぷりつかっていてはこうした基盤は得難い。ますます自らの頭で考えないという病に陥る。ー

そういうことで、このトップ掲載は非常に名誉なことと考えているからで、過去には大好きな司馬遼太郎吉村昭立花隆が担っていたと思うが、間違っていればスミマセン。

なお、報告者の村上氏は、数少ない女性(75才前後)の“郷土歴史家"である。吾輩も過去に講演を聴いたことがあるが、確か中学校の国語教師を務めていたと記憶している。