千葉・茨城の県境橋ものがたり

我孫子市史研究センターの友好団体「流山市立博物館友の会」(昭和53年創立)が、「東葛流山研究」の第39号として「東葛の橋めぐり辞典」(2022年6月10日第1刷発行、134ページ、1600円)を発刊したので、さっそく寄贈された辞典を我孫子市図書館で閲覧した。読んでみると、吾輩が以前から興味を持ち、そして取り上げてきた利根川流域の我孫子市茨城県取手市我孫子市茨城県利根町の間の道路橋を丹念に調査しているので紹介することにした。

大利根橋ー我孫子と取手を結ぶー

〈竣工記念の歌〉

横瀬夜雨作詞・弘田龍太郎作曲の「大利根音頭」は、次のような歌詞ではじまる。

♪ 橋がかかった大利根橋が

かかった かかった利根川

東は茨城相馬の取手

西は葛飾我孫子町

あらそか そかね

この歌詞からもわかる通り、大利根音頭は大利根橋の竣工を記念してつくられた。時に昭和5年(1930)9月21日、取手町民のみならず茨城県民の悲願ともいえた大利根橋は竣工し、盛大なる開通式が取手町で挙行された。しかし、ここに至るまでには多くの紆余曲折を経たのである。

架橋までに、取手町と我孫子町の間は渡船によって連絡されていた。大正7年(1918)取手町民有志は、知事に取手-我孫子間の利根川に架橋の請願書を帝国議会貴族院衆議院に提出した。

〈竣工まで13年〉

このような運動にもかかわらず、利根川橋粱の起工式は、昭和3年(1928)まで待たされた。大正7年から昭和5年の竣工まで、実に13年の長き年月が経過した。

この周辺は地盤が弱いこともあり、深く掘り下げた橋脚は、水面下30mに達した。

取手、我孫子の地区では、新四国相馬霊場の八十八ケ所詣でが江戸時代の中ごろから盛んに行われた。これは現在も引き継がれている。

各札所は関東鉄道常総線の周辺に点在しているが、各駅から必ずしも近くはない。むしろ昔から歩いて周る順路コースがあり、各札所や市の施設などに尋ねるのがよい。

一番札所は取手市の長禅寺。JR常磐線取手駅東口から東南200mほどのところにある。高台の静かな森の中に取手八景のひとつに風光明媚な「長禅寺の晩鐘」の地点がある。

歌人斎藤茂吉が来た〉

大利根橋が出来てしばらくして、昭和8年(1933)3月19日に珍しい人がこの地に来た。歌壇を代表する斎藤茂吉である。

『茂吉日記』によると、

「山口茂吉、佐藤佐太郎ニ君と我孫子、柴崎沼、利根川あたりを散歩し、富勢村にて鴈の群がりて落つるを見る去々。」とある。

柴崎沼は当時、我孫子町柴崎と富勢村(現柏市)に跨り、かつては水鳥のよき網猟の地であったが、現在は耕地化されて沼はない。

春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき

真菰に鴈しずまぬ

殊にこの歌は感懐深いが、創作時の昭和8年の頃は作者自身、『作歌四十年』にこれを含む三首を引き合いにして、「このあたりで自分の歌が進歩しているのではないかと思われる」とも言っている。この歌は平成6年に歌碑が沼辺跡地に建立された。

2020年11月6日に、題名「杉村楚人冠の随筆集『湖畔吟』が復刊」という文章を作成して、大利根橋が竣工する前は、如何に都内から茨城県取手市に赴くことが大変であったかを取り上げた。つまり、利根川に橋が架かったのが昭和5年であったので、それ以前に茨城県を取材する場合、相当な時間を要したというのだ。

現代を生きる人から見ると、都内から水戸市に至る国道6号線は、旧水戸街道(佐竹街道)であったし、交通量や重要性を知っているので、利根川に架かる橋が「昭和5年完成」という事実を知ると誰でも驚く。吾輩も知って驚いたわけであるが、そういう重要な国道の橋であっても、その当時は技術的、予算的、重要度から竣工が昭和5年になったのであろう。

次は、古代から中世にかけて重要な街道であった地点のお話しである。

栄橋ー布佐も布川も栄える橋ー

栄橋は、国道6号の大利根橋から5㎞ほど下流利根川で、小貝川との合流点近くに架かっている。この橋は2代目で全長273m、50年前の昭和46年(1971)10月21日、我孫子市布佐と茨城県利根町布川を結ぶ県道に架け替えられ、今日に至っている。

〈当初は吊り橋、有料だった〉

最初の橋は、昭和5年(1930)3月21日、布佐や対岸の布川(現利根町)住民による賃取組合の主導のもと、関東一の吊り橋として竣工した。しかし、半年後の9月21日に、現在の取手-我孫子間に無料の大利根橋ができた。当然のことながら、開通時こそ賑わった有料の栄橋は一気に交通量が減じ、賃取組合は窮地に陥ってしまった。栄橋よりも早く動いていた大利根橋の架橋計画を同組合は当然周知していたが、長年の願いに後戻りできず、賃取橋の早期完成を強行せざるを得なかった。そうして、国や千葉・茨城両県からの援助なし19万3千5百円の借款を、渡橋料で償還することで竣工させたのだった。

開通前日の昭和5年3月20日茨城新聞は、

「布川と布佐を繋ぐ 大利根の吊橋

いよいよ甘一日開通」

と報じ、次のような野口雨情作詞 藤井清水作曲の『大利根小唄』が発表された。

♪春の三月大利根川に 橋はかかった さあ渡れ

開橋 開橋だ 栄橋開橋だ

鉄の吊橋布川も布佐も ともに栄える さあ渡れ

開橋 開橋だ 栄橋開橋だ

御代も輝く昭和の春に ともに輝く さあ渡れ

開橋 開橋だ 栄橋開橋だ

だが、賃取料からの償還は、開通5年7か月を経過しても9千400円ほどしかならなかった。その間、国や県に地元代議士等を通じて懇願を続け、紆余曲折はあったが、昭和19年4月1日に、それまで橋を管理していた茨城県に移管され、賃取組合は解散できた。

〈栄橋と柳田國男

栄橋の名称は、民俗学者柳田國男(1875-1962)が著書『故郷七○年』で、茨城・千葉の県境の橋から「境橋」とされていたが、当地域の方言(イとエの混同)もあって、サカエ(栄)に訛ったと述べている。

柳田國男は、利根町布川に医院を開業した長兄松岡鼎(1860-1934)のもとで、少年時代2年間をこの地で過ごしている。幼少時に栄橋の北詰、徳満寺にある「間引き絵馬」を見て、農村の飢餓実態を知り驚愕した。また、長兄は後に対岸の布佐町(現我孫子市)に移転し、凌雲堂医院を開いた。ここへも國男は何度も訪れ、朋友の田山花袋島崎藤村などを連れてきている。

架け替えられた現在の橋は幅員が狭い。片側1車線の幅では、新利根町にできた利根ニュータウンなどから、JR成田線布佐駅で都心に通う人の往来で常に停滞。風の強い朝など、自転車で難儀しながら橋を渡っている高校生を見かける。利根町地区の住民は渋滞の少ない新たな橋への架け替えを願っている。

この利根川流域については、これまで何回も取り上げてきたことを覚えていますか。そうです、江戸幕府による「利根川東遷」事業以前は、この地点には小さな「常陸川」が流れ、古代の東海道(8世紀後半以後から)という街道が通っていたからだ。それが今では、開削によって地形が変わり人工河川「利根川」が流れ、そこに「栄橋」が架かっている。

というわけで、昭和初期に到っても、大利根川には満足な橋が架かっていなかったのだ。それを考えると、日本の公共事業の歴史はまだまだ日が浅いと言える。