利根川沿いの布佐と布川及び柳田國男

最近、幕末の安政5年(1858)に出版された「利根川図志」(著者=医師・赤松宗旦〈本名・義知、1806〜62〉)を辿る、新刊書「利根川民俗誌 日本の原風景を歩く」(著者=元共同通信社記者・筒井功〈1944年高知市生まれ、上京後、松戸市柏市流山市野田市で生活〉、河出書房新社)を読了した。以前から人工河川・利根川の成り立ちに関心を持っていたので、川沿いの歴史や風物についても面白く読むことができた。そこで、どの地域を取り上げるかで悩んだが、やはり吾輩の居住地の布佐(千葉県我孫子市)と布川(茨城県利根町)に関連する部分にした。

我孫子市布佐

1 凌雲堂医院

本書の利根川流域探訪は、これまで茨城県利根町布川から、おおむね左岸沿いに取手市街まで10キロほどさかのぼってきた。ここで対岸へ移り、布川の向かいの千葉県我孫子市布佐から、しばらく右岸を上流へ歩いていくことにしたい。

布佐の川港としての繁栄は、布川より少し遅れて始まったらしい。しかし、水運の衰えによる影響は、やや小さくてすんだ。利根川を渡らずに東京方面へ往復できたからである。とくに明治34年(1901)、東京の上野と千葉の成田とが鉄道で結ばれると、その途中の布佐は、布川にくらべて著しく便利になった。

柳田國男(柳田は養子先の姓)の15歳年上の長兄、松岡鼎(1860〜1934)が布川の済衆医院をたたんで、布佐へ転居し、ここに凌雲堂医院を開いたのは、明治26年(1893)2月であった。この移住は、町の将来性うんぬんを考えてのことではなかったろう。鼎は、ただ広い家を切実に必要としていたのである。

鼎は布川では、医家である小川家(代々、医を業としていたが、当主・東作が若くして死去)にもとからあった診察室を、そのまま医院として使うかたわら、敷地内の「三間ばかりの長屋風の細長い家」(『故郷七十年』)を借りて住まいとしていた。そこは明治維新後、江戸でも著名だった田村江村という学者を寄寓させるため、小川家の当主が建てた家であった。

満で12歳になって間もない國男少年が、ここへあずけられたのは同20年9月のことである。兄弟二人なら三間の家でも別に困らなかったろうが、翌年早々、鼎は現茨城県境町若林の鈴木家からひさを妻として迎える。ひさは、その年のうちに長女を出産し、長屋風の家に4人が同居することになった。

ところが、國男からちょうど2年遅れて父の操(1832〜96)、母たけ、國男より3歳若年の弟静雄、6歳下の弟輝夫の4人が布川にやってくる。一家は、鼎の経済的支えがなければ、暮らせなくなっていたのである。

といっても、小川家の離れでは、どうみても8人は寝起きできない。そこで、鼎は利根川べりに新たに家を借りて、両親と國男を含めた3人の弟をそちらへ移したのだった。これが明治22年秋のことである。そのころから鼎は、もっと広い家を構えることを計画していたに違いない。4年後に、ようやく準備がととのい、適当な地所も見つかって転居となったのだと思われる。

操もたけも、純然たる播州(兵庫県南西部)の人間である。それが、当時の年齢感覚では老境といってよい50代になって、父祖伝来の土地を離れ、一家をあげて遠い関東の、おそらく以前なら名さえ耳にしたこともなかった布川を終の棲家とする決心をしたのには、深刻な理由があった。だが、その話へ移る前に、凌雲堂医院のその後について簡単に記しておきたい。

鼎が布佐で取得した土地は、いまの国道356号に面していた。現行の住居表示では、布佐3069になる。敷地の裏は利根川の土手に接しており、明治のころにはまだ低かった土手の向こうを白帆の川舟が行きかう様子が近々と望めたようである。

鼎は昭和9年(1934)、75歳で死去するまで、ここで凌雲堂医院の経営をつづけた。その間に、千葉県医師会の会長や布佐町長などを歴任している。医院は二男の文雄氏(1901〜98年)が受け継ぎ、平成の初めごろまで診察をしていたという。

令和2年の春、わたしは医院がどうなっているのか知りたくて訪ねていった。しかし、かつて表に掲げられていた、

「内科・小児科 凌雲堂医院」

の看板は、すでになかった。門柱には表札も出ていない。人が住んでいる気配もとぼしいように、わたしは感じられた。

無住なのだろうと思いながら、無断で門から10メートルほども中へ入っていった。すると、高齢の男性が庭木の影からすっと姿を現したのだった。どうも庭の草木の手入れをしていたらしい。わたしは慌てて非礼をわびた。

男性は文雄氏の、ご子息であった。昭和6年(1931)の生まれだというから、このとき数えの90歳だったはずである。わたしは勝手なふるまいついでに、10分ばかり男性と立ち話をさせていただいた。

鼎は、写真によるかぎり柳田國男に似ているという印象は、少なくともわたしにはなかった。ところが、孫の男性は晩年の柳田にそっくりだった。

男性も、やはり医師であった。ただ、父の医院は継がずに、ずっと勤務医として過ごしてきたという。わたしは、いろいろ訊いてみたかったが、おかしな出会い方だったので、ためらいを覚えた。

柳田國男は背が高かったと記した資料がある。写真によっては、いかにもそう見えるものも、そんな感じは受けないものもある。それで柳田の体格についてたずねてみた。

「そんなに高くはありませんでしたよ。わたしは165センチですが、同じくらいだったと思いさすねえ。痩せていたから、高く見えたんじゃありませんか」

ということだった。それでも、明治初めの生まれにしては、かなり長身の部類に入ることは間違いない。

祖父の鼎には、6人の子がいたことも教えてくれた。話しぶりは、驚くほどしっかりしていた。

わずかな時間、当たり障りのない話をしただけであったが、もの静かで、ごく気さくな人のように思われた。

以上、柳田國男の家族関係を巡る話であるが、実は最近になって、我孫子市教育委員会が平成2年に発行した「あびこ版 新編 利根川図志」(原著=赤松宗旦)を古本屋で購入した。この本も、「利根川図志」を辿る探訪記で、如何にこの地域に定住した人たちが、利根川流域の風土や歴史に関心を持ったかを示している。そして、この本の中では本書の中に出てきた文雄氏が前書きを書いている。

緒言ー赤松宗旦愛蔵『利根川図志』について…松岡文雄

柳田國男は、未だ松岡姓で両親と共に茨城県布川(現利根町布川)に住んでいた13、4歳の頃、大いなる好奇心をもって読み、強い印象を受け、幼い心に壮大な夢を抱き、同じ郷土の空気を呼吸した先達の忘れ得ぬ好著として、胸深く温めていた版本「利根川図志」を、昭和13年岩波書店の頼みで校訂覆刻し、広く世に広めました。これが岩波文庫利根川図志で、昭和47年に後刷されています。

彼は、その解題で著者赤松宗旦を偲び、自身の布川時代を回想し、利根川図志成立の過程を詳細に説き尽していますから、最早蛇足するものは何もありませんが、今回、我孫子市教育委員会の協力要請にもとづいて、我孫子市史研究センターの会員諸氏が挙って、変貌に変貌を重ねている利根川沿岸の風物を実地踏査し、赤松宗旦の往時の足跡を辿る企画をしていると聞いて、密かに驚き且つ興味を覚えたので、二、三の事柄を述べておこうと思います。

それは、市史研が参加する「新編利根川図志」の底本に私の所蔵する宗旦翁が直筆で書入れをし、赤松蔵書の印を押した初版原本を使用したいと言うからである。

かゝる稀覯の書が私の手元にある事情については聊か説明を要します。

先の岩波文庫利根川図志解題にもある通り、赤松家の三代目宗旦(宗伯)は医師として布川宿に住んでいました。私の父松岡鼎がたまたまこの地に移り住み、同業の誼で付き合う内、共に播磨の出身と判り、一層親密となり以来長く交際するようになりました。そして何時しか、赤松と松岡は手を携えて播州から移って来たという伝説が生れ語りつがれて、後にも述べますが、利根川図志口訳書のなかにはその儘取入れといるのがあります。このような間柄で、四代目資次郎氏、五代目恵氏、六代目磐氏と続いて懇意にしていたのです。ある時、磐氏が突然尋ねて見えました。彼は長らく教育畑で職に就いていましたが、昭和30年代後半に病を得て休職の止むなきに至り自宅療養を続けていたのです。

彼曰く「先祖から代々受継いで来た利根川図志原本の事だが、自分には嗣子もなく今後の保管が心許ない。国や県の図書館に寄附するのは気が進まない。赤松と松岡とは因縁が深く、柳田國男とのゆかりもあること故、長く松岡家書庫の蔵本にして欲しい」と。これは大変重大な事なので、色々励ましもし、赤松家の縁故者の話もしましたが、病身の磐氏の心境も推し量れるので、ともかく私が引取ることにした訳です。

従って、この全巻は①赤松家六世当主自らが持参したものであること②二世宗旦義知の蔵書印のあること③自筆で誤字訂正してあること④版本の振り仮名と異った墨色で丹念な振り仮名を施してあり筆跡が全く同じであることなどから、正に翁が机上に愛蔵した手沢の本であると信じて疑いません。

ところで、吾輩が最も関心を持っている、徳川家康の発案で始められた「利根の東遷工事」(20年2月2日付けの「江戸幕府の『利根川東遷』に関連する歴史」参照)以前の布川と布佐間の地形も紹介したい。最初は筒井氏が本の中で、

野田市桐ヶ作の香取神社にも碑が建っていて、

「永正五年(一五〇八)当時、前の川幅はおよそ六〇間であった」

などと書かれている。1間は1・8メートル強だから110メートルくらいになる。

そのころ利根川は現在よりずっと西を流れていた。「前の川」は常陸川といい、水が動いているかどうかはっきりしない、細長い沼のような河川であったろう。対岸は広大な湿地帯で、アシやスゲが密生していたのではないか。ー

一方の「あびこ」の本では、

ー昔、布佐と布川が陸つづきであったせいでも無いだろうが、〜ー

と記している。

古代から江戸時代初期までの常磐道は、布川と布佐間を通っていたが、当時の地形が詳細に判明していない。昔の地図ではその間を「常陸川」が流れているが、現在の地形などから想像して、どの程度の流れの河川であったのかが非常に興味があるのだ。その意味から、ほとんど流れのない河川と断定しても良いのではないか、と考えている次第である。