杉村楚人冠の随筆集「湖畔吟」が復刊

我孫子市教育委員会が、近代日本のジャーナリズムの発展に多大な貢献をした国際的ジャーナリスト・杉村楚人冠(そじんかん、1872〈明治5〉〜1945年)の随筆集「続々湖畔吟」を復刊させ、これで「湖畔吟」シリーズ3冊の現代表記版が出そろったので、3冊(各600円)とも購入した。楚人冠は1911年(明治44年)、カモ猟の取材で訪れた手賀沼の風景に魅了され、翌年に我孫子に別荘を構えたが、関東大震災で息子二人(次男と三男)を亡くすと翌年(大正13年)、失意の中で家族とともに東京から移り住んだ。その際に、湖畔での暮らしをつづった随筆が雑誌「アサヒグラフ」(朝日新聞社)などで読者に伝え、それを随筆集として出版したのが「湖畔吟」である。

随筆期間は、大正末期から昭和初期であることから、吾輩のような部外者には、当時の手賀沼周辺の雰囲気がわかり非常に勉強になった。そこで、現在から見て参考になる3本の随筆を紹介することにした(※は註解)。

1・沼のうなぎ(大正15年10月)

ここの湖水の鰻が東京の台場沖のと並べて、日本一だとは、かねてより聞いていた。

それが水質によるか、食料によるか、今までたれも科学的に研究した者はない。ただ昔から広く日本一と伝えられて、東京の鰻屋では、どこのよりもこの湖水のを珍重する。今度県で淡水魚養殖試験場(※楚人冠や嘉納治五郎手賀沼干拓阻止のため、誘致に尽力、都部新田〈当時湖北村〉に開設された。戦後、干拓のため閉鎖)でも開いて、これを調査して見ようかという話が出た時、一番に大賛成を表したのは、地元の者よりも、東京の鰻屋であった。

「湖北村誌」という書物の中にも、ここの鰻は火にあぶるも決して縮小せず、味の美なること他のおよぶところに非ず、されば東都において江戸前と称する最上品なり、など書いてある。何でも仙台や上総辺から仕入れたものを、十日ばかり笊のままで湖水の水に浸しおくと、土地の鰻とごまかせる位だそうな。

(以後省略)

2・早合点(昭和6年1月27日)

千葉県と茨城県とは、利根川を界にして相対していることとばかり思っていたら、ここから見て、川の彼方にも千葉県があり、川の此方にも茨城県がある(※香取市十二橋付近、野田市柳耕地、取手市小堀が該当。柳耕地、小堀はいずれも利根川の流路変更により、県境と利根川がずれた。取手市では、このため渡船を運行して小堀と取手市中心部を結んでいる)。まことにややこしい。

昔は隅田川を界にして、武蔵と下総とが相対していたので、この川にかかった橋を両国橋と名づけた。その下総国が江戸川の彼岸まで引き下ってしまって、いまでは隅田川の彼岸も武蔵になっている。ところで、一方は平将門で聞えた相馬地方が、もともと下総国の一部であったことは、人の知る所であるが、この下総が又いつのまにか利根川から此方へ引き下って、相馬は茨城県に属することとなった(※現在の我孫子市域ももとは相馬郡に属し、古代には相馬郡衙で税として集められたコメを蓄える正倉が置かれていた〈日秀西遺跡〉。しかし、明治時代には東葛飾郡に属し、千葉県になっている)。下総という国は、よくよく退嬰(しりごみし、引きこもること、進んで新しいことに取り組もうとしないこと)主義の国と見える。

この下総や常陸は武蔵の東北に当っていて、上野駅からここに通ずる鉄道を常磐線と称えて、東京駅から出る東海道線と区別してあるが、この下総も常陸も、海道からいえば、やはり東海道の中だから笑わせる(※古代律令時代の五畿七道の区分では、下総も常陸東海道に含まれる。一方、江戸時代に整備された五街道では、東海道の起点は江戸日本橋となる)。上野から汽車に乗って、東海道常陸まで下るといってもいいわけである。

(以後省略)

3・鉄橋と鉄道橋(昭和6年9月13日)

近頃布佐と布川との間、我孫子と取手との間に、おのおの一つ宛鉄橋がかかって、初めて千葉県と茨城県との間を流るる利根川が、徒歩で渡って行けることになった(※布佐布川間は栄橋。当時の布佐町長で柳田国男の長兄松岡鼎の命名。現在はニ代目の橋を県道千葉竜ヶ崎線使用。我孫子取手間は大利根橋。こちらも現在は二代目で国道六号が使用。ともに昭和5年開通)。

この重要な国道に橋がなかった為、今迄は一々旧式な渡船に依らなければならなかった。その間両県の民の被った不便がどんなであったかは、一々くどくどしく説くまでもない。現にわれらは前年ツエッペリン飛行船が霞ヶ浦に着いた時(※ツエッペリンは硬式飛行船の通称。ここでは昭和4年に世界一周飛行に挑戦したグラーフ・ツエッペリン号を指す。太平洋無着陸飛行前の寄港地として霞ヶ浦航空隊に寄留、多くの見物客を集めた)、東京から自動車を飛ばして、数寄屋橋(※現在の千代田区有楽町で外堀にかかっていた橋。外堀の埋め立てで現存せず。当時の東京朝日新聞社の所在地)から利根川べりまでの二十余マイル(※約32㌔余り)は1時間足らずですんだが、利根川の渡船がこみ合ったばかりに、この川一つ越すのに2時間半かかったことを記憶している。

そんなら利根川には鉄橋が一つもなかったのかというと、常磐線我孫子取手間にも、東北本線の栗橋古河間にも何十年という前から、鉄道用の鉄橋はかかっていた。若しこれがニューヨークのブルックリン橋(※マンハッタンとブルックリンを結ぶ吊り橋。1944年まで鉄道共用であった)か、義州、安東間の鴨緑江橋(※朝鮮戦争空爆により破壊された。現在は遺構が中朝国境に残る)かのように、鉄道と同時に人馬の通行も出来るような橋になっていたから、今頃になって利根川の鉄橋がどうのけうのという必要もなく、年を隔てて二個の橋を作るより、同時に一つの橋で間に合せるようにしていた方が、経費も遥に少額ですんだに相違ない。しかし鉄道が内務省の管轄でないかぎり(※当時は鉄道省の管轄)、権限争いのやかましい日本において、そんな重宝な事は思いもよらないのである。

(以後省略)

我孫子市周辺に居住していないと、なかなか1世紀近い前の光景を理解出来ないと思う。吾輩も、これまで江戸時代の手賀沼のうなぎ、利根川沿いの飛地平将門下総国水戸街道(国道6号)の歴史、我孫子・取手間の渡しなどを紹介してきたが、楚人冠も同じような題材を取り上げている。言うなれば、我孫子市周辺に居住すると、同じような事柄に関心を持つということだ。

特に、現在の鰻重に繋がる手賀沼のうなぎの話しは、なかなか興味深い。また、国道6号の利根川に架かる「大利根橋」(全長1209㍍)に関しては、既に明治時代には開通していたと考えていたので驚いた。つまり、初代の橋が昭和5年に完成するまで、渡し船によって渡っていたというのだ。

ところで、楚人冠の随筆の中で面白い文面を見つけた。

ー自分は元来土地国有論者である。土地などいうものは、一私人の私有すべきものでないと思っている。他年若しヘンリー・ジョージの単税主義(※ヘンリー・ジョージは土地は本来共有であるべきと考え、土地を私有してそこから生まれる利益を独占する資本家から地価税のみを徴収することを主張した。楚人冠の土地国有論や単税主義の主張はヘンリー・ジョージの影響による)でも行わるるような時期が来たら、自分の土地は国家に返上すべきものと自分も信じ、わが相続者たるべき子供にもいい聞かせてある。この意味からいっても、田地なんか持って地主顔しているには、愚の至りと考えついた。ー

この文面を読んで、作家・司馬遼太郎に対する保守派の評論家・渡部昇一(上智大学名誉教授)の批判を思い出した。それは、20世紀末のバブル崩壊後、司馬は日本の国のかたちを一番ゆがめているのは土地の所有制度だと、楚人冠と同じような考え方を示したことに対し、渡部教授が「司馬の限界を示している」と言ったのだ。ちなみに吾輩は、司馬や楚人冠の思考と同じである。

その理由は、日本では土地の所有権が強く、土地がいったん欲たかりの人や企業のものになると、道路工事や公共施設建設を進めていく上で、大きな障害となる事例が多いからだ。例えば、一昨年6月2日に「東京外環状道路」の千葉区間(三郷〜高谷)が開通したが、この用地買収では土地所有者2戸が最後まで明け渡しに応じず、最後は千葉県が土地収用法に基づく強制収用することにした。反対者は、どこまで抵抗するのかと興味を持って見ていたが、強制収用の当日早朝に逃げ出したという。つまり、あまりにも地主の権利を強くすると、このような不届き者によって、公共工事にブレーキが掛かるのである。