小栗上野介の知られざる生き様

2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公は、日本初の遣米使節となって新時代の文明を体感し、新しい国のかたちをデザインした江戸時代末期の幕臣・小栗上野介忠順(1827~68)と決定しているので、昨年10月に宇都宮市在住の知人と小栗の墓がある曹洞宗東善寺(群馬県高崎市)を訪ねてきた。この際、同寺の村上泰賢住職にお目にかかったほか、小栗に関する書物5~6冊を購入して帰宅したが、このうちの1冊「小栗上野介ー殺された幕末改革の旗方」(著者=蜷川新〈1873~1959〉、2025年10月20日初版発行、発行所=河出書房新社)を最近読了して、いたく感激したので紹介することにした。

ー小栗上野介は、旗本にたいして、「賦兵の制」というのを開始した。これによって、数大隊の仏国式歩兵を組織したのである。~日本の洋式陸軍は、明治以降に至って、長州人の大村兵部〔益次郎〕や薩州人の西郷〔隆盛〕らによって、創始されたものではないということ、並びに、日本の海軍は、明治以降において、長州人や、薩州人たちによって、建設されたものでは、断じてないということは、日本の歴史のうえに、書きとどめておかなければならない。ところが多年にわたり、それが欠けていたのである。ー(62ページ)

ー(慶応4〔1868〕年の鳥羽伏見の戦い)には、開戦第三日目に、長州軍の陣頭に、遽かに錦旗が、かかげられた。これを、薩長方の偽造した天皇旗とはしらずに、徳川方の正直な侍どもは、錦旗と交戦する意思はないとして、全軍は、淀に向かって総退却したのである。敗軍ではなかった。

このことについて、私は、大正十一年に、田中義一氏(長州出身の有力な陸軍大将)と一緒に、講演のために、関西地方から山陽地方に旅し、京都に三泊したことがある。そのとき、田中大将は、長州軍から、突如として、かかげられた錦旗は天皇の御旗ではなくて、実は、長藩に出入りしていた京都の染物屋の岡という人が、遽かに考えついた奇略であって、同人の作った錦の旗を、棹の先につけただけのものであったことを、一席食事中に私に語ってくれたものである。私は、初耳の重大事実として、それに聴きいった。天皇の御旗を偽造したことは、天皇を侮辱した行為である。そして人民を欺いたことは、重大な詐欺であった。ー(98ページ)

ー長州藩は、はじめから、おわりまで、一本調子のところがあった。もちろん、その目的は、日本という国のためを考えていたのではない。ただ単に、「三百年前の仇敵」として怨んだ一徳川氏を、たおすという「一長州藩の仇打」のためであった。即ち私怨にもとづいたものである。長州藩の主張、その行動は、つねに反徳川であった。しつこい復仇心であった。勤王は偽わりである。ー(99ページ)

ー慶喜は、その生来の優柔性と小才にわざわいされ、自己の生命保存にのみ執着していた。そして勝(海舟)一派が取りつぐ敵方の諜報にさそわれ、迷いつづけた。午前に彼が決定したことはその午後には、くつがえしてしまうというありさまであった。正月十八日、すでに夜もふけた会議の席上で、小栗上野介は、非常な決意をもって自己の席を立ち、ずかずかと、慶喜のそばに近づいた。そしてその袖を、しっかりとらえて、

「徳川方には、反逆の名を帰せられる理由は御座いませぬ。非はすべて、朝廷派に御座います……」

「なにゆえに、すみやかに、正義の一戦を決し給わないのですか……」

語気するどく、その決心を慶喜に迫ったのであった。

慶喜の顔色は蒼白となった。慶喜はうろたえた。その袖を、力を込めてふりもぎり、からくも、奥に、にげ去った。満座の列席者は、声をのみ、会議は、そのままにおわりをつげた。これは、その会議に列席した朝比奈甲斐守が、後年、私に語った事実である。ー(102ページ)

ー小栗上野介は、天皇権力主義に強く反対した人である。最後には、官軍の主力を掃滅し得ることを確信し、且つ江戸城会議で、慶喜の袖を捉えて、群臣の目前で力説したほどの大胆な人である。西郷の率いた天皇の軍などは、日本の秩序を紊し、正義を破壊する暴徒と、小栗上野介は判断していた人である。鳥羽伏見において、暴動し、平和の人間を殺傷し、戊辰の一代戦乱を勃発せしめた暴動団があって、それが天皇の軍であったのが、当時の事実である。小栗が、天皇の軍主力を討滅し、日本に、平和と秩序を建てようと、主張したのは、日本人として、正しい考え方であった。小栗は、日本民族本位の主張者であったのだ。けっして幕府の維持論者ではなかった。ー(222ページ)

ー開戦して西から東上する薩長の兵をして、箱根を越えしめ、然る後に、海陸両軍よりして、これを要撃し、一挙全軍を掃滅せんとして固くこれを江戸城会議に主張したが、その言は、慶喜に容れられず、慶応四年三月三日、最早江戸に用なしとして、上州権田村の旧領に退き、平和に日を送っていた。越えて閏四月七日、岩倉貝定が率い、板垣(退助)が参謀をしていた官軍の配下に、なんらの罪なく、無残に殺戮せられ、梟首せられた。時に年四十二。その首は、何者かに盗まれ、その遺骸は、同村東善寺に葬られた。ー(188ページ)

取り上げた本書は、1953年8月に刊行された「開国の先覚者 小栗上野介」(千代田書院)を改題して文庫にしたもので、著者・蜷川新(東大法学部卒、戦後は同志社・駒澤両大学教授の国際法学者)の母親は小栗上野介の妻・道子(播州林田藩〔姫路市林田町〕藩主建部政醇の長女)の妹・蜷川はつ子である。ということで著者は、小栗が斬首された場所に立つ「顕彰慰霊碑」に刻まれた「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬られる 岳南蜷川新」という碑文を書いているほか、戦前から明治以来の「朝廷派のみが独り正しく、旧幕府方は不義背徳の存在であったかのように迷信せしめられていた」という虚戯に充ちた維新史を変えるために、「維新前後の政争と小栗上野介の死」(日本書院、1928年9月)、及び「続維新前後の政争と小栗上野」(日本書院出版部、1931年2月)と題した著書を出版している。その2冊のダイジェスト版ないし補遣版が、本書と言えるようだ。

さらに本書では、小栗が的確な5つの官軍掃滅作戦を立てたが、この方策を維新後に聞いた大村益次郎は、江藤新平たちに、

「幕府で、もしも、この小栗の献策を用いて、実地にやったならば、われわれの首は、つながっていなかったであろう」(105ページ)

と言っていたようだ。

このほか著者は、小栗をその手で斬った原保太郎(大津事件当時の滋賀県知事、89歳で死去)と面談し、その際に「何故に、小栗を斬殺したのか」と理由を訊ねている。これに対して原は、

「板垣参謀から、厳重に処分せよと命じられ、その命令に従って、斬ったのである」(135ページ)

と答えたという。

ところで、吾輩が「明治維新」に疑問を感じ始めた時期は、2016年5月21日付けで「明治維新を否定する本がなぜ売れる」を書いた頃で、それは書名「明治維新という過ちー日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」(著者=原田伊織)を読了したことにある。その中で著者が「江戸幕府が、慶喜が想定したようなイギリス型公議政体を作り上げ、小栗上野介が実施しようとした郡県制を採り、これらの優秀な官僚群がそれぞれの分を果たしていけば、我が国が長州・薩摩の創った軍国主義国家ではなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家に変貌した可能性は十分にあり、決して空論ではないのだ」という見解を示していたからだ。今読み返してみると、スイスや北欧諸国と比較するのは無理としても、戦没者310万人と樺太及び千島列島を失うことはなかった、という風に考える自分がいることは確かである。