書籍「樺太一九四五年夏」の腰帯は作家吉村昭

9月29日、「吉村昭研究会」(会長・桑原文明)から定期購読者(2018年頃から)である吾輩宅に、季刊会報誌「吉村昭研究第78号」(70ページ)が郵送されてきた。その中で注目した読物は、桑原会長の「周辺の人々(吉村昭論)➉最終回/様々な人々(下)映画人・画家・他」と題した本稿で、そこでは加藤大介(俳優)、緒形拳(俳優)、金子俊男(北海タイムス記者)、山崎達郎(「バー やまざき」店主)など10人との関係を紹介していた。

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ー金子俊男(北海タイムス記者)ー

『樺太一九四五年夏ー樺太終戦記録』(講談社)の著者、金子俊男は樺太生れの引揚者で、北海タイムスの新聞記者であった。北海タイムスでは、各地の戦争記録の連載を沖縄から始め(北海道出身者も多い)た。千島戦闘、ノモンハン事件に続き、樺太戦は金子が担当し、後に単行本になった。四百ページを超える大部な本である。吉村の「烏の浜」の題材となった、終戦後の引揚船三船が、ソ連潜水艦の攻撃で沈没、千七百余名が犠牲となった事件も入っている。

吉村は『樺太一九四五年夏ー樺太終戦記録』(講談社、昭和四十七年)のコシオビに次のように書いている。

 

「昭和二十年八月、参戦したソ連軍は樺太に侵攻した。樺太戦の記録は皆無に近く、第二次世界大戦の重大な空白部分であった。樺太生れの新聞記者である筆者は、望郷の念と鎮魂のため異常な熱意をこめて多数の関係者の証言を集め、樺太戦の全容をとらえる難事業を成しとげた。この作品はすぐれた戦史であると同時に生々しい人間記録でもある。私は、感動した」

 

この単行本の中に、「看護婦の集団自決」という項目がある。樺太の病院に勤務する二十三人の看護婦は、毒物・睡眠薬・手首への傷等で自決を図る。六人が死亡し、十七人は生き残る。生と死のプロである。看護婦が生き残ってしまった、として大きな後悔がある。この事件を吉村が書くと、「手首の記憶」(小説新潮、昭和四十七年一月)となる。「生き残ってしまった看護婦」の一人を訪ねると、

 

「寿美の家を訪れた金子は、その家のあまりのひどさに呆然とした。それは人家と呼ぶには程遠い三畳間ほどの広さしかない板張りの小舎であった」

『私は、あの時死んだ方がよかったのだと今でも思っています』

『死のうと思っていながら死にそびれると、もう死ぬことはできないんですね。それが私には情けなくて……』

『私は、生きているのが恥ずかしいのです。私が幸せになったら、死んだ人に申し訳ありませんから……』

 

ここで金子は新聞社の社会部次長と書かれている。看護婦たちも、本名で書かれている。あまりにも「圧倒的な事実」を前に、「仮名」に逃げ込むのは許されない事情が良く分かる。

金子の単行本には別項目として、「殉職九人の乙女」がある。樺太で最後の最後まで職務を全うした九人の電話交換手が、青酸カリで集団自殺をした。看護婦と同様、悲惨な出来事である。樺太に限らず、沖縄でも集団自殺は数多い。あるいは家族の自決、親が子を殺し、自決する。それが戦争なのである。

おまけ、この単行本を原作として、電話交換手の集団自決を描いた映画「樺太一九四五年夏 氷雪の門」が、昭和四十九年製作された。出演者を列記してみよう。二木てるみ、鳥居惠子、岡田可愛、藤田弓子、栗田ひろみ、木内みどり、北原早苗、若林豪、黒沢年男、南田洋子、千秋実、藤岡重慶、浜田光夫、丹波哲郎、田村高廣と、これだけ見ても力の入れ方が判る。ところがソ連大使館の抗議・圧力により公開が中止された。封印された映画が陽の目を見るまでには、三十六年間の時間が必要であった(平成二十二年、公開)

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吾輩がこの本稿に注目したのは、書籍「樺太一九四五年夏ー樺太終戦記録」と、劇場映画「樺太一九四五年夏 氷雪の門」を、ともに20代前半に読み、観ていたからだ。だから、この書籍の広報・宣伝を兼ねる腰帯(書籍及び箱に巻き付けた印刷物)に、45歳の大作家・吉村昭(1927年~2006年)が関わっていることを知って驚いたのである。なぜなら、吾輩は初めて読んだ著書「羆嵐」が初期の作品と考えていたからだ。

そこで、吉村昭の著書歴を調べてみると、昭和41年「星への旅」で太宰治賞を受賞、同時に建造から沈没までを感傷を混えぬ硬質の筆致で書いた「戦艦武蔵」を「新潮」9月号に発表して一躍注目される。その後、「高熱隧道」(昭42)、心臓移植手術を扱った「神々の沈黙」(昭44)、「陸奥爆沈」(昭45)、「関東大震災」(昭47~48)、「北天の星」(上下、昭50刊)、「羆嵐」(昭52刊)、「赤い人」(同)、「ふぉん・しいほるとの娘」(上下、昭53刊)などを続々と発表し、それを知ると別段「樺太」の腰帯を書いていても不思議ではないと納得したのである。つまり、吾輩が初めて読んだ「羆嵐」は、昭和52年刊行であるから、既に吉村昭は「記録文学」の第一人者というよりも、ノンフィクション作家としてその名を成していたというわけである。

それでも、今でもそれほど知られていない吉村昭が、今でも歴史的に貴重な書籍と劇場映画である作品に関わっていたことを知ると、当時から「見る人は見ていた」と感じるのである。

 

ついでにもう一つ、本稿を取り上げます。

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ー山崎達郎(「バー やまざき」店主)ー

「札幌に行くと必ず山崎さんのバーによります。(中略)旅先で夜、酒を飲むのを楽しみにしている私は、札幌へ行くことは山崎さんのバーに行くことでもあります」(「バーに行く」『すすきのバーテンダー物語』北海道新聞社)

 

日本屈指のバーテンダーとして、国際大会にも度々優勝するなど、業界では有名人である。絵を描いて個展を開いたりする余技もある。それが単なる余技と言えないのは、荒川区の「吉村昭記念文学館」が発行している「万年筆の旅」という館報を見ると判る。この表題の下の吉村昭の横顔の切り絵が山崎の作品である。実にうまく出来ていて、ひと目で吉村昭だと判る。切り絵であるから当然色は付いていないし陰影もない。白と黒の曲線だけで吉村の横顔を表現している。サービスの一つとして、バーに来るお客さんの顔を切り絵にして渡していたらしいが、その数は万を超すという。全く持って見事な腕前だが、それをひけらかさないのが、山崎の持ち味である。

私は二度、手紙のやり取りをして、北海道に行ったら必ず寄りますからと約束していた。その前に亡くなられてしまったが、九十歳を過ぎでもカウンターに立たれていたのは見事である。

その後、念願かなって「バー やまざき」に行くと、「これが先生のボトルです」と、八割がた中身の入っているウイスキー「山崎」を見せてもらえた。私はお金を払うなり、後で吉村家にお許しを請うなりして、どうしても一杯だけ、あるいは、ほんの一口だけでも飲ませてもらおうとした。その場で吉村家に電話して許可を得ても良いと考えた。ところがそのボトルは、口が幾重にもぐるぐると封がされており、開封はおろか、蒸発もされないように密封されていた。ゆらゆらする「山崎」の液面を眺め、諦めるしかなかった。

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桑原会長が「バー やまざき」に赴いたのは、吾輩と一緒に北海道旅行した22年5月のことである。この際、桑原会長が図々しくも「一口だけでも飲ませて下さい」と店の人にお願いしたものの、ボトルの口がテープなどでぐるぐる巻きされていたので、諦めてしまった。おそらく、店にとって「吉村昭のボトル」として、末永く保存していたかったのだ。それにしても、桑原会長の横で店側とのやりとりを見ていたが、その残念な顔を思い出すと笑ってしまうが、その心境はこの文書を読むと良く分かる。やはり、相当悔しかったのだろう。