読売新聞が大きく取り上げた吉村昭

3月2日付「読売新聞」に、吾輩が大好きな大作家・吉村昭(1927~2006)に関する記事が掲載された。書いたのは、同紙特別編集委員橋本五郎で、見出しは「胸のくぼみで眠る安息」(五郎ワールド)である。

吉村昭は一度として裏切られたことのない作家である。文体に限りなく魅せられている。大仰な表現を排し、淡々すぎるとさえ思われる筆致で事実が積み上げられいく。『抑制された端正さ』ともいうべきものが、どんな劇的、激烈な言葉よりも心に染みてくるのである」

25年前に書いた吉村昭アメリカ彦蔵』の私の書評の書き出しである。吉村の作品は何冊も書評した。『敵討』『破獄』『死顔』『ポーツマスの旗』……。嚙めば噛むほど味わいがある。

吉村とのおしどり夫婦で知られる津村節子の作品も何冊か書評した。『土恋』『ふたり旅』『遍路みち』『紅梅』……。おしどり夫婦の持つ牧歌的な響きとは無縁な緊張感が二人の間にあったことは知っていた。

しかし、最近出版された谷口桂子『吉村昭津村節子ー波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)を読んで驚きを新たにした。おしどり夫婦の実相、内実が詳細に描かれているのである。

吉村27歳、津村26歳。結婚した翌年、新婚旅行ならぬ行商の旅に出た。吉村が始めた仕事で、不渡り手形の代わりに山形から送ってきた厚手のセーターを捌くために北海道根室まで足を延ばした。雪降る海岸でゴザを敷いて売る。夫はほっつき歩いている。膀胱炎にもなってしまう。

お腹に新たな生命が宿っているのにお金も尽きた。絶望の末、津村は吉村のコートの袖にしがみついて言うのだった。

 「ここで死にましょうか」

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夫婦喧嘩は「おそらく数千回には達するだろう。多くは舌戦である」と吉村は言うが、長男の司によると、親父に殴られおふくろが気絶したこともあった。勤めから帰って深夜2時までが吉村の貴重な執筆時間だった。赤子だった司が夜泣きをすると、「おい、なんとかしろ」と怒声が飛ぶ。津村は赤子をおぶって夜の町を歩き回った。

癇癪の吉村は突然爆発、モノが飛んでくる。たまりかねて津村は家を飛び出す。行き先は実家のような練馬の姉夫婦の家である。ところが、電車に乗って着いてみると、なんと吉村が姉と談笑している。タクシーで先回りして来ていたのである。

津村にとって想定外の連続だった。破綻しないのが不思議なくらいだが、津村自身が「吉村は文学者として百点だけど、夫としては五十点くらいかしら」と言うように、作家としての吉村に深い尊敬の念を持っていた。それ以上に大きかったのは吉村の津村への思いが並々でなかったからだろう。なにしろ「女房に惚れ過ぎるぐらい惚れちゃっていっしょになりました」と公言しているほどだ。

吉村にはすぐれた小説を書き一家を養うだけの収入を得なければいけないという「家長意識」が人一倍強かった。その大もとをたどれば、ベタ惚れで結婚した女を、どうにかして幸せにしなければという重圧があったからだ。だから絶対書かないと言っていた『戦艦武蔵』も書いた。一途なまでに好いてくれる男をどうして女は袖にできよう。

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吉村昭は今や死語と化している「亭主関白」そのものに見える。一見へりくつのようでも同感できるところも少なくない。例えば自分が忘れ魔であることへの弁明である。「男は常に重要なことで頭が占められているから、忘れ物をするのが当然であり、むしろ忘れ物をしないような男は大成しない」

吉村昭は生涯で371の作品を手がけた。しかし取材相手と揉めたことは一度もなかった。相手がこれだけは知られたくないということは書かなかった。多くの実在人物を作品にしながら一度もモデル問題を起こさなかった。稀有のことである。

「父は書くことに対して、二十四時間戦闘態勢でした」と司は言う。吉村に「一つのことのみに」という随筆がある。吉村昭もまた現場主義に徹し、書くことに専念した一生だった。

津村が自作で一番好きだという「さい果て」の中に、とても印象深い場面がある。行商の旅で最初に泊まった宮城県石巻の旅館での夜のこと。

 〈私の頭を、志郎はぐいと自分の胸のくぼみの中に押し込んだ。私は、寝藁の具合を確かめる仔犬のように、一番安定する角度に頭をおさめてから満足の溜息をついた。

 志郎の胸は、胸郭成形手術によって五本の肋骨が切りとられ、皮膚がたるんでちょうどハンモックのようなくぼみが出来ている。怯えやすい動物が物陰に隠れるように、それは私の一番心の安まる巣なのであった〉

この記事で取り上げている書物「吉村昭津村節子ー波瀾万丈おしどり夫婦」(著者=作家、俳人・谷口桂子、発行=2023年10月20日)を既に読んでいるので、この中から男女の違いの一文を紹介する(42ページ)。

ーそのあたりのことを吉村が書いている。

〈男と女が全く違った種属であることに漸く気づいたのは、最近になってからである。同じ人類には違いないが、霊長目オトコ科、霊長目オンナ科とわけられるべきであろう。

結婚してから十二年間、私たち夫婦はよく飽きもせずケンカをしてきた。私の方からいえば、一プラス一は二というような当然すぎるほど当然なことを口にしているのに、妻の方は一かける一は一じゃないの、などとおよそ見当ちがいなことを口にして反撃してくる。つまり、お互に全く会話が通じあわないのである。男と女が、犬猫の差ぐらいに異なった種属であるからなのであろう。〉(『月夜の記憶』講談社文庫)

だから意見が合わななくて当然だった。意見が一致することはない相手と、ケンカすることがばかばかしくなったというのだ。

吉村の随筆集に『蟹の縦ばい』という作品がある。そのタイトルは、男の目が現在、過去、未来と縦の線に向けられるのに対し、女性の目は現在のみで、それも自分の現在位置から横へと向けられているという吉村の観察による。蟹のように横ばいする女性の視点に対して、男は「蟹ばい」なのだ。これも男と女の違いで、夫と妻というのは永遠に理解し合えないものだという。その諦観の上に立てば、

〈喧嘩しても、いつかは仲直りするのだから、ここらでいい加減にやめようということになる〉。お互いに長所短所を認め合い、暮らしていこうとなる。ー

やはり、吉村昭の視点は素晴らしい。吾輩もスポーツ好きということで、以前から男女間の肉体や能力の違いを随分と書いてきたが、学力も現に東京大学の一般選抜の全合格者に占める女性の割合は長年2割(23年度21・8%、24年度19・4%)を下回っている。それにも関わらず、昨今の風潮は何でも「男女平等」ということで、そこには「平等」に対する「差別」、さらに「区別」が〝ごちゃごちゃ″になっている感じを受ける。そんなことでは、男性の優しさや配慮が失われ、そして理解されない場面が多くなると考えているが、あまり男女間の違いを書くと、吾輩と考え方が違う人から〝ごちゃごちゃ″言われそうなので、この辺で終わりにする。

それにしても、読書家の橋本氏は、いつも素晴らしい書物を紹介してくれる。例えば、13年前の読売新聞で名著「黒船前夜ーロシア・アイヌ・日本の三国志」(著者=思想史家・渡辺京二、初版発行=2010年2月17日、第37回大佛次郎賞)を取り上げてくれたので、若い時分からソ連問題や日露関係に関心を持ってきたことから、当然のごとく購入した。さっそく読んでみると、著者の渡辺氏はロシア専門家でもないのに日露関係が深層に迫り、どこで勉強してきたのかと考えてしまった。なぜなら、経歴を調べてみると、別段ロシアのことを研究した形跡もないし、さらに長年熊本市に在住しているので、どこでこれだけロシアの歴史を勉強してきたのかと驚いたのだ。

読了後は渡辺氏のファンになり、それなりに同氏の著書や新聞の連載記事(2018年8月「産経新聞」5回、同年12月「朝日新聞」14回)を読んできたので、ネットでも数回、渡辺氏の思想を取り上げてきた。しかしながら、渡辺氏は一昨年の2022年12月25日、老衰のために92歳で天に召されましたが、本当に残念な逝去であった。

 

※後記ー「吉村昭研究会」の桑原文明会長に対して、「読売新聞」記事に対する批評をお願いしたところ、3月5日に次のようなメールが送付されてきた。

ーこの随筆は、谷口桂子の単行本『吉村昭津村節子ー波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)を軸に展開されている。

結核を病み、肋骨を五本も切除され、大学中退の無職という、いくつものハンディを吉村は背負っていた。そんな男に惚れられ、執拗に付きまとわれて逃げ場を失った津村は、「吉村と結婚してあげた」らしい。

そんな津村だが、本人も吉村も口にしなかった荷物が、あるにはあったのである。その一つは年齢であった。今は死語となった結婚適齢期、当時の女性は二十代前半であった。二十五歳を過ぎれば晩婚であり、三十歳を超えての独り身は、行かず後家とまで言われた。

その辺の事情・空気感は、私には良く理解できる。私が家内の顔を初めて見たのは、十一月二十二日であった。一ヵ月後にはアパートで同棲生活をはじめ、二月十九日に平塚市内の神社で神前結婚式を挙げた。翌月の三月は、家内の二十六回目の誕生日であった。辛うじて「二十五歳までの結婚」の壁を、ぶち破ったのであった。更にその年の六月には、家内の生れた時からの大親友の女性の結婚式が控えていた。最後の最後で大逆転、式には先輩夫婦づらして出席する優位性を勝ち取った。満足げな家内の顔を、私は覚えている。

もう一つは、所謂「結婚適齢期」の男性人口が少なかった点である。戦争で兵士や民間人男性の多くが死亡し、「男一人に、女トラック一杯」とまで言われた。どちらも吉村・津村両氏には何の責任も無い社会現象である。

吉村の強さは、生涯に渡って津村の小説執筆を認め、それを援助して来たことである。確かに結婚前は、結婚後も小説を書いていいよ、とは言った。世の大多数の男は、私を含めて、そんな口約束は守らない。吉村は、「戦艦武蔵」以前、つまり職業としての作家が成立する前から、家事手伝いの女性を雇い入れている。自分たち家族を養うのが精一杯の時期に、津村の負担を軽くする為にだが、誰にでも出来る事ではない。二人が作家として自立できると、お手伝いさんは常時二人とした。どちらかが休日でも、もう一人に動いてもらえるようにである。

吉村が亡くなられた年の七月、病院を出て自宅療養に切り替えた時も、津村の執筆状況を気にしていた。津村は、自宅に編集者がいるようで、と書いている。鬱陶しく思ったこともあるのだろう。

こんな姿勢で吉村は生涯に三百七十一編の創作をものにした。三百七十一とは、私が調査集計した数で、冒頭の谷口氏に提示した。三枚半の掌編小説「聖歌」から、二千三百枚の長編「ふぉん・しいほるとの娘」までの全数である。ただし、速水敬吾との筆名で発表した少年読物は含まれていない。「ふぉん・しいほるとの娘」の枚数について、二千五百枚と言ったり、三千枚と言ったりしている。創作の中の数字については、厳しく吟味するが、自分自身の数字には大雑把な所がある。あまり関心が無いのかも知れない。

「志郎の胸は、胸郭成形手術によって五本の肋骨が切りとれら」(津村節子「さい果て」)と、橋本氏は引用する。学習院文芸部時代からの親友、荘司賢太郎氏は、同じ手術で肋骨を六本取られている。學習院文藝第二号に掲載された荘司の創作「山百合」は、同じ二号の吉村の小説「雪」よりも作品の質は高い。「山百合」の出来に感嘆した吉村は、原稿の文字に癖があるので誤植を心配した。入院してしまった荘司に代わって、「山百合」を清書してから印刷に回した。他人の原稿を清書し、なおかつ、赤い糸で和綴じした十五枚の作品は、「吉村昭文学資料館」に保管されている。その辺の事情を説明した荘司の手紙と共にある。このような貴重な資料は、おそらく全国のどこの施設にも無いであろう。

荘司は、文壇とは無関係でしかも文学を話せる友人として最後まで吉村の親友であった。私が、「吉村先生が五本で、荘司さんが六本だから、これは荘司さんの勝ちですね」と言うと笑っておられた。「吉村さんの年齢を超えてしまいました」と言われた翌年、旅立たれた。ー