栃木県で佐呂間町栃木地区の企画展を開催予定

ネットで「北海道新聞」を見ていたら、見出し「佐呂間入植の苦難、栃木の美術館で紹介ー来年1月に版画家・小口一郎展」という記事を発見したので、オホーツク管内の友人から同紙「オホーツク版」(5月21日付け)をファックスで送付してもらった。

〈県学芸員、町内を視察ー町長「つながり強めたい〉

【佐呂間】明治期の足尾鉱毒事件を題材とする連作版画を制作し、栃木県から佐呂間町に移り住んだ人々の苦難を描いた同県出身の版画家、小口(こぐち)一郎(1914〜79)の企画展が来年1月から栃木県立美術館(宇都宮市)で開かれる。町内には入植者らが開墾した土地が今も「栃木」の名で残り、佐呂間を語る上で欠かせない歴史といえる。展示会場には町の特産品などが置かれる予定で、町は「歴史的なつながりを通して関係人口を呼び込みたい」と期待する。

4月中旬、企画展を担当する同美術館学芸員の木村理恵子さんが佐呂間町内を視察した。小口一郎研究会の篠崎清次代表(栃木県在住)と、鉱毒事件の被害者救済に尽力した田中正造の研究者赤上剛さん(埼玉県在住)が同行し、武田温友町長が案内役を務めた。武田町長は以前から入植にまつわる資料を独自に収集し、町と栃木県の関係に高い関心を持っていた。

視察では、入植者の心のよりどころとして開かれた「栃木神社」とその境内に建てられた記念碑、栃木県日光から移転した多聞寺、小口が入植者の子孫らを取材しに訪れた際の寄宿先などを回った。木村さんは「(入植者らは)栃木を追われ、寒空にさらされ、大変な苦労をして開拓に励んだのだと想像する。小口が作品に込めた思いを感じ取ることができた」と語った。

小口の企画展「『二つの栃木』の架け橋 足尾鉱毒事件を描く」では、佐呂間町民センターにも展示されている版画集「鉱毒に追われて」と、「野に叫ぶ人々」「盤圧に耐えて」の連作版画3部作の全160点がそろう。佐呂間の風景などを描いた油彩画や資料も展示される。

町と町教委は特別後援として協力する。武田町長が初日の記念式典に出席し、佐呂間の特産品などを会場内に並べることも検討中だ。武田町長は町企画財政課長だった2013年、田中正造の地元・栃木県佐野市を訪問しており、「その時から『もう一つの栃木』としての交流が深まっている。民衆史を後世に伝えることも自分たちの使命。今後も関係を発展させたい」と話す。

企画展の会期は来年1月21日から3月26日まで。

正直に言うと、故小口一郎氏のことは知らないが、2018年7月18日に題名「北海道佐呂間町に存在した『栃木歌舞伎』」という文章を作成した。この中では、昭和46年当時、栃木県庁に勤めていた遠軽高校の先輩(昭和9年生)が、佐呂間町栃木地区の住民一行が帰郷請願運動で栃木県を訪れた際、県庁幹部の命で一行を宇都宮駅で出迎えたことなどを書いた。

その後、ご無沙汰していたところ、2カ月前に突然電話があり「栃木県庁のOBから『佐呂間町栃木地区の住民の帰郷請願者を宇都宮駅に出迎えた状況を書いてほしい』と言われるとともに、関連する資料を持参してきた。その中に、君が書いたとしか考えられない資料があったが、君が書いたのか」と尋ねたので、吾輩は認めた。そこで、すぐに吾輩が書いた著書4冊を送付したところ、先輩から「瀬戸瀬温泉のことを書いてくれてありがとう」とのお礼の電話があったので、「文章が完成したら送って下さい」とお願いした。

また、栃木県では元国会議員などを中心にして、足尾鉱毒事件を取り上げたドキュメンタリー映画を制作・上映している。この背景には、今でも明治時代の悲惨な足尾鉱毒事件を忘れないために、地道な活動が行われていることがある。

一方の佐呂間町では、1911年(明治44年)に栃木県のあっせんを受けて66世帯約240人が移住したが、生活は苦しかった。このため、早くも翌年の5月には旧谷中村(現栃木市)が所在した栃木県下都賀郡に、移住した元住民8人が「救済願い書」を提出している。

いずれにしても、来年1月の企画展を見学しなければ、と考えている次第である。