北海道と高知県との深い繋がり

ネットで、北見市の日刊紙「経済の伝書鳩」(4月5日付け)を見たところ、北見市の「ピアソン記念館」を管理するNPO法人ピアソン会が、「ピアソン夫妻伝道旅行日誌」(千円、82ページ)を発行した。本の中身は、アメリカ人宣教師・ピアソンが、1909(明治42年)〜18年(大正7年)にわたって、オホーツク地方をはじめ道内各地で伝道に明け暮れた布教活動を、在日宣教師向けの雑誌に寄稿したもので、同法人会員が翻訳した。そこで吾輩は、ピアソン夫妻の北海道各地、特にオホーツク管内市町村の様子が多少判明すると考え、同会から本を郵送してもらった。

ところが期待はずれの内容で、北海道での布教活動を通しての市町村の様子が全く寄稿されていない。しかし、ピアソンの高知県を訪問した時の心情を通して、高知に対する思い入れがよく理解できる寄稿があった。ピアソンは1918年1月15日、北見市を出発して、帯広、釧路、旭川、札幌、小樽、函館、青森、仙台、東京、神戸を訪れ、神戸港(2月)から船で高知県に向かった。

神戸からの夜の船旅で、長崎港よりいっそう魅力的な高知の優美な港に着きました。23年間活動してきた北海道では、移住者のうち、最も古くからの、最も忠実である長老派教会信徒の多くは偉大な高知教会出身ですし、また8年間居住した旭川では、盟友の坂本[直寛]牧師とともに活動していたこともあり、高知を訪れることは、長年抱いていた夢でした。高知に関しては、じつに偉大な方々の名が思い出されます:片岡健吉(衆議院の議長を4回務めた人。彼のささやかな自宅を見学し、高知城の公園で彼の実物大のブロンズ像を見ました。)、板垣[退助]伯爵、坂本直寛(この三人はみな偉大な自由民権運動の指導者たちで勇敢にも投獄を経験している。田川大吉郎は現在も入獄している。)、武市安哉(北海道に初の高知の入植地を築いた人。現在は3人のたくましい娘を持つ母親代わりでもある。ーそして忘れてはいけないのは、30年前に初めてこの地を訪れた宣教師、フルベッキ博士、ノックス博士、タムソン博士です。

私たちが目にした、高知の立派で古い教会堂は、日本基督教会の中でも二番目に大きな建物ですが、残念なことに、この教会をすみずみまで満たしているのは決して大きな集団でありませんので、ミス・ダウドの歴史ある聖書講釈クラスは、25年前に高知教会の女性たち向けに創世記から始まり、それが今はその同じ女性たちが白髪交じりの「おばさん」となり、40名ほどの「年寄り組」となってエレミア書まで進んでいます。私たちが感じ取ったのは、ここの土地柄が陽気で進取の気性に富むことで、「高知デパートメントストア」にはテニスラケットが陳列してあったり、自動車や路面電車が、飼い主を人力車に乗せてひいている闘犬用の土佐犬を追い立てて走っています。

ピアソンが、高知県に思い入れがある背景には、盟友・坂本牧師との関係もあるが、さらに自由民権運動の指導者を多く輩出していることも影響していると考えた。これほど、高知県に対する思い入れがあることは、非常に勉強になった。

高知県というと、別段北海道とは関係ないと考えるが、実はオホーツク管内ではそれなりに深い関係がある。例えば、吾輩が小学6年生から3年半居住した滝上町は、高知県越知町と平成13年7月に友好交流調印を行った。交流10周年を超えた25年からは、夏は滝上町の、翌年冬は越知町の、それぞれの小学5年生が相手側を訪問するという交流事業を行っている。この下地は、滝上町に開拓の鍬が下ろされたのは1905年(明治38年)で、その後、高知県人・西森亦吾ら高知県出身者が入地したのが滝上町の農耕創始とされているからだ。さらに、滝上町には越知町からの入植者が多く、平成9年5月には「高知県人会」が発足したという。

いずれにしても、北海道開拓には、アメリカ人宣教師の果たした役割は、非常に大きい。その一端がピアソンであるし、日本人宣教師である。ピアソンは、1888年(明治21年)に来日し、40年間の日本滞在中、35年間は北海道滞在で、うち15年間は北見市である。そうした意味で、現在でも北見市では“精神や文化に貢献した人物"として尊敬されている。