我が国の根強い「平和主義」を考える

我が国の根強い「平和主義」を考える意味で、5月1日付け「産経新聞」の“新聞に渇!"を転載する。書いたのは、日本大教授・小谷賢で、タイトルは「どのような『平和』が必要か考察を」である。

ロシアがウクライナに侵攻してはや2カ月。この間、新聞のニュースや論説、コラムには、判で押したように「一刻も早い平和を」とある。ここでいう「平和」とはどういう意味だろう。

辞書で調べてみると平和とは「戦争のない状態」とある。それなら話は簡単だ。一部の識者が主張しているように、さっさとウクライナ政府がロシアに降伏すれば平和は達成される。しかしこれはフランスの思想家ジャンジャック・ルソーのいうところの「奴隷の平和」というもので、とりあえず命の危険はないが、個人の権利や自由は認められない平和ということになる。さすがにこれでよいという意見は少数派だろう。

かつてはこの「とりあえずの平和」を求める時代もあったが、これに一石を投じたのがノルウェー社会学者、ヨハン・ガルトゥングだ。ガルトゥングは平和という概念を進めて、戦争がなく、国内社会にも暴力や貧困、格差が存在しないような状態を「積極的平和」と呼んだ。最近はこの考えからさらに個々人の安寧を保障すべきであるという「人間の安全保障」という概念も普及している。つまり戦争がないだけの平和は「消極的な平和」であり、個人の権利や自由が保障されてこそ、平和を実現する意味があるということだ。

他方、古代ローマの格言に、「汝平和を欲するなら戦争に備えよ」というものがあり、この言葉は欧米でよく引用される。平和を望む気持ちは万人に共通するところではあるが、それだけで世界の平和が達成されないのは、ウクライナ情勢を指摘するまでもないだろう。そうなるとまずは戦争や安全保障問題について考え、なぜ戦争が起こるのか、どのような条件で停戦合意がなされるのか、といった思考が必要になる。

しかし戦後の日本においては、戦争を感情的に忌避し、平和こそすべてだ、という考えで長らくやってきた。大学などの教育研究機関においても「平和学」は許容されるが、「戦争学」は駄目だ、といった具合だ。医学が悲惨な病気やけがと向き合うことで、格段に進歩してきたのとは対照的ではないだろうか。そうなると今回のウクライナ情勢は、われわれに再考を求めているようにも思える。

新聞が「一刻も早い平和を」と唱えるのは一見、正論のようだが、おざなりな「平和」を求めることは、ロシア・ウクライナ双方に不満を残し、将来の火種を燻らせることにもなりかねない。どのような「平和」が実現されるべきなのかについては、やはり外交・安全保障的な視点から現実的に突き詰めていくしかないだろう。

吾輩が、この文章を読んで一番驚いたのは、

ー大学などの教育研究機関においても「平和学」は許容されるが、「戦争学」は駄目だ、といった具合だ。ー

という部分だ。なぜなら、もう35年前か、テレビの討論番組「朝まで生テレビ」に出演した若き国際政治学者、東大助教授・舛添要一(前東京都知事)が「国際政治を学ぶために、フランスに留学したが、その際に軍事学も一緒に勉強した。欧米では、国際政治を学ぶことは、軍事学を学ぶことと一緒だからだ。これには驚いた」と発言したのだ。

しかし考えてみれば、国際政治を勉強する中で「軍事学」が含まれることは、当然のことと思う。そういう現実を知っていたので、未だに日本の大学で「平和学」は良いが「戦争学」は駄目という現実に驚いたのだ。つまり現在、政府の防衛計画に対して、全国の国立大学の中に「学問研究が戦争に協力してはならない」という理屈で、左翼勢力というべきか、絶対「平和主義者」というべきか、このような学者連中が反対しているのだ。

それにしても、戦後の激動の中で生まれた「日本国憲法9条」という基本法によってもたらされた「平和主義」は、ウクライナ戦争を通して根本的に問題があることが明らかになった。それでも左翼勢力によってリードされる根強い「平和主義」は、日夜、国防という崇高な任務につき、命を懸けて祖国を守る自衛隊員たちが「こんな左翼勢力のために、なぜ我々が死ななければならないのか」と疑問を持たないか、と心配になってくる。それくらい、今の日本人は¨いびつ¨な「平和主義」の影響を受けて、今日に至っているのだ。