12月26日付「産経新聞」を読むと、月刊誌「正論」(2月号)の新聞広告が掲載され、その中に「北海道・遠軽町 自衛隊に支えられて」(本誌編集部)という見出しがあった。そこで、さっそく書店で購入すると、6ページの記事であった。
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【特集日本の防衛/本誌編集部】
北海道北東部、紋別郡遠軽町。町の中心部にあるJR遠軽駅を出ると道道244号に滑り込む。通称「連隊通り」だ。1・5㌔ほどの通りの先には陸上自衛隊遠軽駐屯地がある。その途中には、遠軽商工会議所が建てた、高さ約15㍍のひまわりの形のオブジェがこう呼びかける(写真=遠軽町提供)。
遠軽町は総面積約1332平方㌔㍍。全国の町村で2番目、香川県の面積の約7割に匹敵する。人口は約1万8500人ほどだが、ひまわりのかけ声のように、自衛隊を大切にする思いはどこの自治体より熱く、北の守りを担っているとの自負は強い。
陸上自衛隊第25普通科連隊の隊員とその家族は、人口の1割ほど。迷彩服を着た隊員の通勤姿も日常の風景になっているという。
連隊通りでは2年に一度、市中パレードが開催される。通りの両側では町民が日の丸を持ち、通りのど真ん中を隊員が行進し、戦闘車両が走る。隊員にとっても町民にとっても誇らしいイベントだ。一時は中断されていたが、佐々木修一町長(64、写真)のかけ声で、平成24年に再開された。
遠軽町が雪に包まれる前の令和4年10月上旬に遠軽町を訪れた。同年8月には、総工費約60億円をかけて建設された遠軽町芸術文化交流プラザ「メトロプラザ」がオープンしたばかりで町は活気づいていた。
自他ともに認める自衛隊の゛熱狂応援団長″、佐々木町長に年季の入った町長室で話を聞くと開口一番、こう言った。
「遠軽にもともと基地があったわけではなく、町の人たちが誘致してもってきてくれた自衛隊の駐屯地。町を挙げてしっかり応援していかなければならないと思っています」
ここで、駐屯地が遠軽町に置かれた経緯を短く振り返っておく。
終戦後、朝鮮戦争の勃発を受け、日本への共産党の浸透を強く警戒した連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥が、吉田茂首相に自衛隊の前身である警察予備隊の創設を要求し、昭和25(1950)年8月に発足する。この時、遠軽町は町を挙げて誘致運動を展開した。警察予備隊第1期生だった坂東政道氏(ムサシ電子株式会社代表取締役会長)の回想録『浮世悠々たり』(宇都宮尚志著、産経新聞出版)に当時の状況が詳しい。
「林業や酪農・畜産のほかに、これといった産業がない町にとって、国家機関である警察予備隊の誘致は、発展の足掛かりになると期待が大きかった」ことから、昭和25年11月に誘致実現のために町議会議長、商工会議所会頭の3人が上京し、紋別出身の松田鉄蔵代議士の協力を得て、GHQから誘致の承諾を取り付けた。「物事があまりにトントン拍子で進んで行くので、一行は『背筋に冷たいものを感じた』ほどだったという」。その翌年1月には、町民の代表200人が設置を決議するが、45日間で設置された遠軽駐屯地の隊舎は、軍馬を育成するための種馬所を改造したものだった。「隊舎は1階が厩舎、2階が馬の飼料をおく倉庫になっていた。建物中には至る所に馬の尻尾の毛がついていて、隊員からは『馬小屋隊舎』と呼ばれていた」と坂東氏は回想している。
ー地元を支える医療と教育ー
昭和26年3月から始動した遠軽駐屯地は、70年以上の時を経て、遠軽町だけでなく紋別市を含む遠紋地域の住民にとって不可欠な存在になった。遠軽町職員を経て、平成21年から町長を務める佐々木氏は、「確かに遠軽町に駐屯地があることの恩恵は計り知れないものがあります」と述べ、自衛隊とその家族が支える「医療と教育」を挙げる。
遠軽町には許可病床337床の遠軽厚生病院があり、医師・看護師及び遠軽高校の生徒のそれぞれ1割は自衛隊員の家族だという。佐々木町長は「医療と教育というこの2つがないと、日本の食料安全保障を支える一次産業(農業・酪農畜産業・林業・漁業)を支えることもできない。そして、この2つを支えるのが自衛隊駐屯地なんです。これが地域のみなさんが一番ありがたいと思っていることです」と語る。
遠軽高校には、令和4年の全日本吹奏楽コンクールに4年ぶり10回目の出場を果たして銀賞を受賞するなど実力を誇る吹奏楽部があるほか、ラグビー部は全国高校ラグビー大会出場経験を持つ。自衛隊員の子供がいるから、これらの実績もあるというのが佐々木町長の弁だ。
ただ、町長はこう強調することを誰に対しても決して忘れない。
「自衛隊に対しては様々なことをやってきました。ただ、我々が経済的な恩恵を受けるだけではだめです。自衛隊はやはり国防のためにあるのだから、国防を担っているいる意識を遠軽町として持たなければならないというのが私の考え方です。何のために遠軽に自衛隊がいるのかといえば、日本を守るためなんですから。この考えに対して、渡邊博行遠軽商工会議所会頭など町の人たちが賛同して応援してくれているということなんです」
まして、北方領土は目と鼻の先。かつてソ連の最高指導者、スターリンの目的は北海道の北半分の占領だった。スターリンの思惑は第五方面軍司令官だった樋口季一郎の徹底抗戦によってくじかれたものの、樋口の決断がなければ、遠軽も今頃はロシアの占領地だったかもしれない。大国ロシア復活の野望を抱くロシアのプーチン大統領が2022年2月にウクライナに侵略したことをみても、ロシアの脅威は現存する。
佐々木町長は、ウクライナの市長が頭から袋をかぶせられてロシア軍に拉致されたとの報道をみて、「自分も覚悟を持たなければいけないと思いました」と語る。以来、有事を想定して町民をどこに退避させるべきかなどを今まで以上に意識するようになったという。「自衛隊にも十分な訓練をしてもらわねばならない。町としてもできる限りの協力はさせていただく」と強調した。
自衛隊の訓練環境の充実にも町は全面的に協力してきた。だが、それでも、政府の判断で駐屯地が廃止される可能性はある、ということがわかったのが平成7年だった。
冷戦終結後、北部方面隊の体制見直しで、旭川駐屯地の第9普通科連隊か第25普通科連隊のどちらかが廃止対象にあがった。遠軽は町を挙げて反対運動を展開するなどした結果、第9普通科連隊が廃止された。これがきっかけとなって、北海道では遠軽町が中心となって道内212市町村が加盟して「北海道自衛隊駐屯地等連絡協議会」が発足。現在も179市町村が北海道における自衛隊の体制強化を求める活動を続けている。
さらに、遠軽町はこの年の10月、「陸上自衛隊遠軽駐屯地存置期成会」を立ち上げた。町長を会長に、町議会、商工会議所のほか、「遠軽太鼓育成保存会」「戦技競争大会を支援する会」「遠軽自衛隊音楽隊後援会」などの代表も構成団体として名前を並べる。町を挙げての自衛隊応援団だ。
何をするかといえば、例えば、戦技競技大会を支援する会は、部隊のスキー訓練に必要なスキーのワックス購入代や、富士登山駅伝(自衛隊の部)出場に際して必要な備品を提供したり、音楽隊後援会は、周辺の市町村から協力を得て楽器を新調したりするという。
とりわけ、存置期成会の中でも佐々木町長が「これがなければ」と話す団体は、「遠軽自衛隊退職者雇用協議会」と「遠軽地区自衛隊志願推進協議会」だ。
遠軽町は自衛隊OBの雇用に積極的に取り組んでおり、近隣自治体に先んじてOBを危機管理監として正職員しかも管理職で採用。今までに町の関係機関を含め40人以上を採用している。佐々木町長の方針は「増やすのはウエルカムだけど減らすのはダメ」。ところが最近は、「企業の人手不足で、自衛隊OBが引く手あまた」(町幹部)という。
自衛隊募集についても力を入れている。例えば、遠軽高校のラグビー場を活用した取り組みはユニークだ。ラグビー場は全天候型が2面あるため、多くの大学などから合宿に使用させてほしいとの要望があるという。そこで、佐々木町長が出した条件は、「3日間、遠軽駐屯地で訓練を受けること」。この条件を受け入れて合宿した拓殖大学からは、実際に卒業生数人が自衛隊に入隊しており、実績は積み上げられつつある。
ー自衛隊に学ぶ組織運営ー
遠軽町が自衛隊から学ぶことも多い。日米共同方面隊指揮所演習(演習名・ヤマサクラ)を視察する機会を得た佐々木町長は、視察を重ねた末、防災訓練の認識を改めたという。防災対策とは、日曜日に自治体が集まって炊き出しをやるようなことではなく、関係機関が集まって、災害を想定して具体的にどう連携をとるのかを確認・協議することだと確信。以来、従来の防災訓練は2年に一度とし、自衛隊や警察、消防など関係機関が集まって図上訓練を毎年実施するようにした。「自衛隊は組織として完璧。小さい町のトップながら学ぶことがたくさんあり、いろいろと参考にさせてもらっている」と町長は話す。
佐々木町長の自衛隊を応援する思いは、国内だけでなく、海外に派遣された地元部隊にも及ぶ。平成24年4月には国連平和維持活動(PKO)のために遠軽駐屯地の第25普通科連隊長がハイチ派遣国際救援隊長として派遣された。隊員たちの激励のため、町長は渡邊商工会議所会頭らと現地を訪問。隊員のために乾燥させた貝柱など地元の食材をいくつものスーツケ北部ースいっぱいにして届けた。隊員たちと同じコンテナ内で一泊した後、大勢の隊員たちが敬礼して見送ってくれた。その後立ち寄ったニューヨークでの食事の際、町長たちを見送る隊員の中に涙を流していた隊員がいたことがわかり、「大の大人が泣きながら飯を食いました」と苦笑する。
遠軽町について、北部方面総監を務め、いまも遠軽町の人たちとのつきあいのある岡部俊哉元陸上幕僚長は、「遠軽の人たちは、自分たちが自衛隊を誘致し来てもらったという意識が強いこともあって自衛隊を盛り上げようという気持ちがとても強い。そして、部隊も町の支援に応えようとしてがんばり、すると町がもっと応援するという良い流れがある」と話す。「日頃から町と部隊で顔の見える関係があるのが良い」とも言う。非常時に問われるのが平時からの関係が重要であるのは論を俟たない。
佐々木町長も飲食店で隊員に声をかけたり、かけられたりするという。岡部氏は「うらやましい、良い関係なんですよね」と語る。
町長室に入ると正面の壁に、額装されたヤモリの金属工芸品が掛けられている。ハイチ派遣国際救援隊長を務めた野村吾一等陸佐から佐々木町長に贈られたものだが、作成したのは当時の第2師団長、平野治征陸将だったという。ヤモリはハイチだけでなく、海外では"家守り“として重用されている。平野陸将から「自衛隊は国を守る。町長は町を守ってくれ」と託された佐々木町長は表情を引き締める。
自衛隊に対して世の中の空気は確実に肯定的になってきた。だが、国を守る自衛隊を積極的に支える自治体がもっと増えていい。自衛隊員も地元の人たちに支えられることによって、地元を守ろうと思う。ひいてはそれが国家をあげての国防意識の高まりにつながる。遠軽町のような好循環がほかの自治体にも広がってもらいたいものだ。
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9月初旬、遠軽高校の後輩から「9月10日(土)に遠軽町芸術文化交流プラザの開館(8月26日)を記念して、ジャーナリスト・櫻井よしこ氏の特別講演会(遠軽商工会議所などが主催)があるが、同氏には月刊誌「正論」編集長・田北真樹子氏が同行する」という話があった。さらに、遠軽町のホームページを見ると、「10月9日に遠軽町で、産経新聞論説委員・湯浅博氏と田北真樹子氏が講演」という記事が掲載されていた。ということで、田北氏は人気を集めていたユーチューブ(米国の企業が行う動画共有サービスで、自由に投稿し閲覧も可能)のDHCテレビ「虎ノ門ニュース」(11月18日打ち切り)にレギュラー出演していたので、何らかの形で遠軽町に触れるのではないかと微かに期待していた。しかしながら、何も触れてくれなかったが、今回、このような形で遠軽町を取り上げてくれて感謝しかない。
もう5、6年前か、遠軽町のシンボル・瞰望岩を登っていたところ、後方から若者10人くらいが吾輩を追い抜いて行ったので、時刻的に遠軽高校の生徒かなぁ、と考えながら頂きに向かった。頂きに到着して、休憩していた若者たちを見ると、多少老けていたので「抜かれた時、高校生かと思った」と声を掛けたところ、若者たちのリーダーらしき人物が「自衛隊です」と応えた。
その後、色々と対話したが、その中で吾輩が「ネットで遠軽町や遠軽高校のことを発信して、それを書籍化している」旨述べたところ、その中の一人が「我々、自衛隊のことも書いて下さいよ」というではないか。さらに、引き上げる際にも「絶対に書いて下さいね」と、振り返りながら念を押すので、いつかは何らかの形で取り上げてみたいと考えていた。そういう経緯から、今回の文面で多少なりとも、遠軽自衛隊員の期待に応えられたのではないか、と感じている次第です。
どうですか、遠軽町にとって自衛隊がいかに重要な機関であることが理解できましたか。そして町は今年度、遠軽駐屯地の存置活動のための「自衛隊関連事業」予算額として398万円の予算を組んでいる。そういう意味で、遠軽高校も地元にとっては非常に重要な機関であるのだ。