樺太アイヌ最後の伝承者・藤山ハル

6月21日付「北海道新聞オホーツク版」に、見出し「『樺太アイヌ常呂』深い関わり 文庫39号発行 言語や舞踊伝承の歴史解説」という記事が掲載された。

北見市常呂町郷土研究同好会(熊木俊朗会長)は、ところ文庫第39号「樺太アイヌ常呂」を発行した。樺太(サハリン)に住んでいたアイヌ民族の歴史や文化と、常呂町との関わりを解説している。

樺太にはアイヌ民族が暮らしていたが、1945年の旧ソ連による南樺太の占領によって、日本本土へ移住を余儀なくされた。その後の同化政策樺太アイヌ民族が各地へ移ったことで、古式舞踊や風俗習慣が存亡の危機を迎えた。

文庫では、55年に常呂町樺太アイヌ民族藤山ハルさんと言語学者服部四郎さん(いずれも故人)が出会い、その後樺太アイヌ語や舞踊の伝承などにつながった経緯を紹介している。

著者で、84年の常呂町樺太アイヌ文化保存会設立にも携わった、ところ埋蔵文化財センター元館長の武田修さん(69)は「樺太アイヌの人は少なくなった。常呂町で古式舞踊などの保存活動が行われた歴史を広く知ってほしい」と話している。

ところ文庫は常呂町の歴史や自然をテーマに毎年1冊発刊。新書判44ページ。送料込みで700円。ー

というわけで、すぐさま遠軽高校の後輩にお願いして、この文庫本を送付してもらった。そこで、本書の中から樺太アイヌ最後の伝承者として言語、口承文芸、芸能など多くを伝え残した藤山ハルさんの業績などを紹介する。

藤山ハルさんと服部四郎先生

両者の氏名、業績を知らない方々もいるし、過去の人として忘れ去られようとしている。

人と人の出会いは「物」を凌駕する出来事。思いもよらない出会いはその人の人生を左右することもある。常呂町における二人の出会いは言語学上も画期的であった。出会いはどの様な方にもあるが、お二人はやや異なっていた。消滅しようとする文化の伝承に生涯をかける人間性が結びついた出会いであったと思う。

藤山ハルさん〉

藤山ハルさんは1900(明治33)年樺太西海岸の恵須取マサラマンマ湖畔に生まれる。樺太アイヌ名はエソホランケマハと称する。父は原サダユキ、母はエソホランマ。恵須取地域の部落長(尊長)の家柄にあり、周囲は幼少の頃から類まれな才能を見抜き大切に育成したようである。巫術者(トスクル)でもあった。樺太アイヌ語・文化の伝承者で知られている。

しかし、その生涯は苦難の連続であったことが文献資料から明らかである。

18歳で山田万次郎と結婚、ライチシカに移住するものの万次郎氏は1942年(昭和17)年死去。1944(昭和19)年に藤山伯太郎氏と再婚し、真岡の多蘭泊に移住。二度の結婚と移住は悲しみを捨て去ると共に新たな人生を目指すためだったのだろう。巫術者としての誇りを感じる。反面、北海道アイヌカシオマンテ(死人が出ると家を焼く風習)に通じるかもしれない。

1945(昭和20)年に終戦を迎え、1948(昭和23)年に千歳丸で函館引き揚げを果たすものの1949(昭和24)年に伯太郎氏も死去する。

ソ連軍の突然の樺太侵攻は樺太在住の邦人や先住民に多大な精神的苦痛、肉体的苦痛を与えた。その結果、1952(昭和27)年に長女のフサさんが居住する常呂町に移住する。住宅は常呂町北進町番外地の柳川助太郎氏の借家である。柳川氏はハルさんの従兄にあたる。

後述するが1955(昭和30)年の言語学者服部四郎先生との運命的な出合いが転換点となり、才能を開花させることが重要である。それまで誰も知らなかった事柄の多くを長女の金谷ハルさんご主人の栄二郎氏、次女の白川八重子さんご家族や樺太由来の友人等に伝承していることである。これが本保存会活動の大きな出発点となっている。

言語調査協力以外の主な業績は次のとおりである。

1960(昭和35)年常呂町ラジオ共同聴取放送所の「この人をたずねて」ではムックリトンコリを演奏する。

1961(昭和36)年には樺太アイヌ民族調査。

1962(昭和37)年NHK「アイヌ伝統音楽1」演奏収録。

1963(昭和38)年常呂町開基八十周年記念の「イソヤンケまつり」を企画し町民に初めて舞踊を披露した。

1967(昭和42)年北海文化研究常呂資料陳列館(東京大学文学部常呂研究資料館)の落成式に参加。

1971(昭和46)年国立劇場第11回民族芸能公演。同年常呂町文化功労章を受賞する。

1974(昭和49)年3月19日に長女の金谷フサ、次女の白川八重子さんと服部四郎先生が看取るなか73歳で死去する。葬儀は22日に行われ服部先生が追悼の意を捧げた。埋葬は土葬を希望するハルさんと服部先生の意をくんで当時の上杉町長が特例で許可したものである。

藤山ハルさん逝去後の、同年5月14日には国から死亡叙勲が授与され、木杯は長女の(故)金谷フサさんに伝達された。死亡叙勲に至る資料は残されていないが、服部四郎先生の推薦により実現されたと思われる。

木杯と台には菊紋が鮮やかであり、ところ埋蔵文化財センターにおいて保存・保管されている。

藤山ハルさんは常呂霊園に埋葬されたが、2008(平成20)年11月2日に服部四郎先生の長男で大妻女子大学名誉教授の服部旦氏とハルさんの次女の白川八重子さんの発案により石碑が建立された。石碑の長さは1・20㍍。碑文は「樺太アイヌ語話者 藤山ハル 此処に眠る」と記され、出身地の樺太方向に向けて設置された。

当日は秋晴れで、20名が出席した。

そういえば、藤山ハルさんに関しては、今年8月7日で生誕100年を迎える歴史小説の巨人・司馬遼太郎(1923~96)も、作品「オホーツク街道」(発行所=朝日新聞社)の中で取り上げている。

結局、服部博士は町はずれの浜にむかい、そこで掘立小屋をたててひとりでくらしている藤山ハルさん(当時山田姓)をたずねた。

聡明な老女で、後日わかったことだが、彼女はこの日、所用で町に出かけ、服部博士らが路傍でなにか意見の食いちがいがあるらしく足をとめて話しあっているのを遠くからみて、いっさいの事情がわかったという。

それだけでなく、

(あの人が、私の家を訪ねるように)

と、祈りつづけた。ハルさんは、巫女だったのである。

ハルさんの言語量はおどろくべきゆたかさで、その音声はたしかだった。彼女は樺太西海岸北部のライチシカの出身である。

彼女の父は彼女を小学校に入れなかった。「日本の風習は神様に悪い」という理由だった。このことが、彼女の言語の純粋性を守ったのかもしれない。さらには、彼女は一人っ子で、年寄りに可愛がられて育ったということもあったろう。むろん抜群の記憶力が、彼女を稀有の話し手にしていたことはいうまでもない。

服部博士は、以後十九年、平均年に一度は常呂にきて、彼女を訪ね、その言葉を調査した。

「藤山さんは、国宝的存在です」

と、常呂の有力者たちにも言い、大切にしてもらうように頼んだ。定宿の常呂館のあるじの上杉武雄さんが町長になったこともあって、藤山さんは道営の住宅に住めるようになった。

昭和四十八年の暮、藤山さんが常呂の国民保険病院に入院したことを、服部博士は翌年、正月になって知った。すぐさまかけつけると、彼女はもう「僅かに目を見開くだけで声はほとんど出なかった。翌日の早朝、手厚い治療を受けた院長と主治医に見守られながら安らかに息を引きとった。七十四歳であった」(村崎恭子著『カラフトアイヌ語』における服部四郎序文)。

 

彼女の遺骸は、遺言に従って、常呂の町から西へ数キロ離れた原生防風林を北へ抜けて、オホーツク海岸に出た所にあるお花畑の砂丘の上の、海を見下ろす小さい墓地に、枕をカラフトに向けて葬られた。(同書)

 

彼女の死は、荘厳だった。なぜならその死とともに、樺太アイヌ語は死語になったのである。

が、学問としてのこった。

以上、藤山ハルさんの人物像などを紹介したが、多くの人はどうして今頃、樺太アイヌを取り上げたのかと考えたかと思う。そこには、ロシアによるウクライナ侵略が関連しており、いずれ樺太を巡ってロシア、もしかしたら今の中国共産党(中共)政権と対立する時代がくるかもしれないからだ。

皆さんの中には、ロシアではなく、なぜ中共政権と対立するのかと疑問に感じる人もいると思うが、中共政権は昔から朝貢していた地域は「中国の領土」と宣言しているからだ。つまりモンゴル族が統治した元朝以後、樺太少数民族(ニブヒやウリチ)が朝貢していたことで、樺太は「自国が支配するべきだ」という考えを持っている。

最近の動きを紹介すると、今年6月8日付「産経新聞」に見出し「ロシアの極東地域を狙う中国」という記事がある。

ー中国の自然資源部(省)は、今年2月14日に「公開地図内容表示規範」を改訂し、第14条規定でロシア領極東地域の8カ所の地名に対し、清朝時代の旧名を中国名として地図上で併記するよう義務付けている。具体的には以下の8カ所である。ー

として、「サハリン=庫貢島」を紹介している。

そういうことで、少しでも国民が樺太に関心を持ってもらうために、樺太アイヌの話題を取り上げた。そして樺太に関しては、おそらく外務省の中国課やロシア課、官邸の一部、ロシア専門家も、吾輩と同じ認識を持っていると思う。であるからこの文章を読んで、国民の一人でも樺太の理解者が増えてくれれば、吾輩としては望外の喜びである。

※後記ーNHKBSプレミアムでは8月10日午前零時50分から49分間、司馬遼太郎の探訪記「NHKスペシャル オホーツク街道」(1999年1月2日放送)を再放送したが、その中で故藤山ハルさんを取り上げていた。