オホーツク地域のアイヌコタンが崩壊した背景

吾輩は以前から、少年時代に生活したオホーツク管内の市町村で、一人も周りにアイヌ民族がいなかったのが不思議であった。と同時に、オホーツク地域には斜里川常呂川湧別川渚滑川という大きな川があるので、アイヌ民族が一番多い時分には、河口や川の合流点などに何人居住していたのか、ということに関心を持っていた。そういうことで、ネットでアイヌ民族の項目を見ていたら、自費出版アイヌ民族の戦いー知られざるアイヌ民族の戦いの真相」(著者=元中学校教諭・駒井正一〈住所=滋賀県高島市〉、2019年2月4日初版第1刷発行、千円)という本を発見したので、さっそく電話連絡して本書を取り寄せた。

読んでみると、近江商人・藤野喜兵衛家の二代目、藤野四郎兵衛良久(1815〜59)による、アイヌの人びとに対する強制労働の悪行が、最終的にオホーツク地域のアイヌコタン(集落)を破滅、崩壊させる一因になったことを知った。それでは、まずはその凄まじい強制労働の実態から紹介する。

藤野家では、この頃より漁業労働者の需要が高まり多くのアイヌ民族を雇用して悪行の数々を重ねている。

その悪行がアイヌ人の強制連行であったり、雇用者の遠隔地操作であったりしてアイヌコタンの破滅、崩壊状況を二代目の藤野四郎兵衛良久は作り出している。

そのことは、幕末に蝦夷地を見学した松浦武四郎の『廻浦日記』(安政3年・1856)に実態を詳細に記している。ここではその概略を筆者の注解も入れて述べることにしたい。

時は安政3年ごろのこと。場所は、蝦夷地で藤野四郎兵衛良久の漁業請負場所である利尻場所、ソウヤ場所、ソウヤ場所モンベツ領、クナシリ場所(注解:これらの地域は、日本海沿岸の北端部から根室半島に至るオホーツク海沿岸地域の全域とクナシリ島を含む広大な地域で、この地域を藤野四郎兵衛良久〈二代目〉が一手に請け負っていた)内の各コタンに松浦は居住し、藤野に雇用されていたアイヌ人が他場所への移動をよぎなくされたという実態を暴き出している。

モンベツ領の「オン子ノトロ」のアイヌ戸口は安政3年の時点で31世帯、120人で、このうちソウヤ場所に取られたアイヌ人は26世帯、100人である。しかもソウヤ場所等に取られたアイヌ人の年齢がわかる者のみを見ても、その年齢分布が18歳から57歳までの男女で世帯主が20人にも達している。つまり、これだけの世帯主が近江商人、藤野家に漁業労働者として取られているのである。(注釈:この強制連行は、「オン子ノトロ」のコタンの崩壊である。)

こうしたオン子ノトロのアイヌの惨状を見た松浦は、「此所は、鮭・鱒・鰊供に多く有て、其手配さへ能致し備へなば、相応の漁事も有る処なるに、足腰の立稼働るる丈の者は皆ソウヤへ連行、リイシリへ遣し、2年3年は稀疎他」と記している。(注釈:藤野家で経営する漁業請負場所のソウヤ場所とリシリ場所の労働者が不足しているため、人権を無視して足腰が立って働けるアイヌ人を強制連行して働かせているのである。)

さらに強制連行は続き、斜里場所や斜里場所アバシリ領のアイヌ人の場合は、海を渡ってクナシリ場所へ連れて行かれたのである。

その結果、これらの地域では、子どもと老人のみが残り、働き盛りの青壮年男女が村(コタン)にいない状況となったのである。

二代目の喜兵衛である四郎兵衛良久は、安政6年(1859)に死亡しアイヌ虐待がこれで終了するかのようであったが、良久の長男、四郎兵衛美挙(藤野家三代目)の時代になってもアイヌ虐待はひどかった。

そして、特に悲惨な状態に陥ったのがシャリ場所であった。この悲惨な有様も松浦武四郎の『知床日誌』(文久3年・1863)に記録されているので、その概略を述べよう。

彼(武四郎のこと)がシャリ場所の“ウナベツ"に到着すると爺婆や病人や男女の子どもがみんな寄って来た。そして働き盛りの青壮年男女がいないので、その訳を聞くと、「シャリ・アバシリ場所の両所では、女性が16〜7歳になると、クナシリ島へ送られて諸国から漁業労働者として来る漁師や船方のために身をもて遊ばれてしまう。また男性は、昼夜の差別(区別)なく、強制労働をさせられる。そして、働き盛りの頃になると百里を越える離島で過す者もいて生涯妻なしで暮す者も多い」と。

次に注解も加えて『知床日誌』の概略を述べたい。

「さらに夫婦で雇用された時は、その夫は遠隔地操作によりシャリ場所からクナシリ場所へというように遠い漁場に回され、残された妻は、会所や番屋・稼方(和人の男性)の慰み者として持て遊ばれるのである。

妻たちは、和人男性の性的欲望をこばめば暴力を受けるので、ただ泣々、日々を送っていたのである。」(松浦武四郎著『知床日誌』の概略)

これによると、斜里場所のアイヌ人がいかに悲惨に状況に置かれていたのかを理解することができるであろう。

(中略)

海保嶺夫著の『近世の北海道』によると、文政年間と安政年間を比較するとアイヌ社会は、この30年間に20%から30%の人口が減ったことを記録している。

網走市史』によると、「天保年間(1830年〜44年)の藤野家の蝦夷地の資産は3万両から4万両ぐらいあって群を抜いていた」とあり、「(松前藩への)運上金も5千4百両を超え全道総額の4分の1を占めていた」とあるが、こうした巨万の富は、まさにアイヌ民族の犠牲の上に成り立っていたのである。

アイヌの人口数に関しては、本書でも文化4年(1804年)は26800人、安政元年(1854年)は18428人という記録を記している。そして、別の書物には「18世紀後半の斜里近辺には約1500人のアイヌ人口があり、全蝦夷地の6%のアイヌが居住していた」(「文化4年慟哭の斜里場所」より)と記されており、それなりに大きなアイヌコタンがオホーツク地域にもあったことが解る。しかしその後、近江商人・藤野家のアイヌ民族に対する強制労働の結果、人口が極端に減少することなり、アイヌコタンは消滅、崩壊した。そのため、先祖が近江商人であった著者は、藤野家二代目と三代目の時代に行った強制連行や強制労働は断じて許すことはできないということで、近江商人の「三方よし」の吹聴を自重してほしい記述している。

著者によると、近江商人(江戸時代のみに出現し商権を獲得した商人群で、近江の国の広範囲に渡って誕生したものである)について、

近江商人は、「三方よし」の精神で知られるように「売り手よし、買い手よし、世間よし」で儲けたお金を橋、寺院、道路、灯籠、防波堤などの建設、建築や学校の設立、それに窮民の救済(天明天保の飢餓時の救済は有名)のための費用に使用し社会貢献活動に尽力した商人群であり、この点が企業商人(飛騨屋〈1789年クナシリメナシアイヌ蜂起の元凶、死者は双方で計108名〉、阿部屋、栖原屋など)と大きく違う点であった。ー

近江商人の社会貢献を評価しているので、なおさら近江商人・藤野家の行為が悔しいようだ。

ところで、著者は約25年前から滋賀県立高校でアイヌ民族の講演活動に励んでいると記述しているが、本書を読むと非常に研究しており、誠に勉強になった。自費出版ということであるが、要点といい、わかりやすさといい、商業ベースで出版されてもおかしくないことを最後に書き加えておく。