松浦武四郎の「渚滑川」探訪記が現代語訳に

5月13日の朝方、同日付けの「北海道新聞」オホーツク版が、遠軽町の後輩からFAXで送付されてきた。見てみると、見出し「武四郎の渚滑探索現代語訳にー子どもにも読みやすく」というもので、まずはその記事から紹介する。

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【滝上】江戸末期に道内を探索した松浦武四郎が、渚滑川流域の様子を記した「西部志与古都誌」を、町内と紋別の住民グループ「しょこつがわ連携研究会」の高橋浩徳さん=町内滝下=が現代語訳し、一冊にまとめた。高橋さんは「子どもたちや周りの大人に読んでもらい、武四郎の思いを知ってもらいたい」と話している。

志与古都誌は、武四郎が探索の成果を幕府に報告した「東西蝦夷山川地理取調日誌」の第28巻にあたる。1858年(安政5年)、地元アイヌ民族の案内で渚滑川を船などで上った際の様子について、翌年書かれた。

高橋さんは、中学校の教員だった約30年前、教材を探していた際に志与古都誌に出合った。崩し字や異体字で書かれた文章を、遠軽町在住で武四郎研究の第一人者だった故・秋葉実さんが解読しているのを知り、これを子どもたちにも読めるように現代語訳を続けてきた。

例えば武四郎が集落の畑を見た際の「是等にぞ種を遺したるは、子供に筆墨を与えしも同じ事なれども、其作り方を教えず世話致さざるは、手習本を遺はさず師匠にもかけず捨置と同じ」とした秋葉さんによる解読文を、「アイヌたちに種を与えるのは、子どもに筆や墨を与えるのと同じだが、その作り方を教えず世話をしないのは、教本を与えず先生もつけず放っておくのと同じ」などと、わかりやすく訳している。

本はA5判84㌻で、しょこつがわ連携研究会が自費出版した。松浦武四郎記念館(三重県松阪市)の高瀬秀雄元館長が監修。紋別について記した「再航蝦夷日誌」の訳なども併せて収録した。

300部印刷し、すでに町内と紋別市の図書館に寄贈した。希望者には実費500円で分ける。問い合わせは研究会の山中さん(090・7514・4233)へ。

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ということで、さっそく地元・滝上町の友人に連絡して、現物を郵送してもらった。本の注目点は、やはり武四郎の渚滑川踏査最深地の描写と、当時のアイヌ世帯数と人口である。

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この辺りに来るといよいよ急流になり、倒れた木も多く、舟が進みづらい。

川はこの辺りより南から東南東に向かい、およそ7・8丁でタツシ(紋別市上渚滑町奥東、立牛川)。左に小川があり、山の上には樺の木が多い。よってこの名がついた。「タツ」は樺。シは「ウシ」の略である。

ここより上には舟で行けないので上陸し、ここに2人を残し泊まる用意をさせることにした。

イホレサン、イカシレコロの2人を連れてここよりオシラン子フ川口(滝上町濁川)まで見ようと陸行するが、もう4時も過ぎたかと思う。

草も深くてはなはだ困る。

そこより3・4丁も丘を上ると、茅野になっていてとても見晴らしのよい所があった。よってこの道をまっすぐに南の方に進み、およそ10丁も進むと川端に出た。そこがオシラン子(ね)フ(オシラネップ川)。

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ということで、渚滑川オシラネップ川との合流点まで遡ったが、残念ながら滝上町の中心部には到達していない。但し、町中心部は、案内役のアイヌから聞き書きしている。

アイヌの世帯数と人口は、本来は17世帯数・72人であるが、和人が38人のアイヌを漁労に使役するため、主に宗谷地方(一部斜里、利尻)へと連れ去っていたので、34人しか居住していない。そのため、この地に居住していたアイヌは、老人や子供たちだけで、生活に困窮していたようだ。

冊子のおわりに、訳注の高橋氏は、

ー武四郎の健脚には驚かされます。安政5年(1858年)に滝上に来たときには、タツシ(立牛川合流点)に午後4時頃着き、そこから直線距離で9㎞もあるオシラネップ川合流点まで、道なき道を夜までに往復しているのです。ー

と記しているが、吾輩も昨年5月末にこの地を訪れているので、非常に納得する部分だ。

ところで、武四郎の原著は武四郎独特の「くずし字」で、解読が非常に難しいとされ、さらにアイヌ語を当て字で漢字にしているために、なおさら我々が読むことは難しい。そのため、武四郎研究の第一人者で、丸瀬布町(現在の遠軽町丸瀬布町)の郷土史研究家・故秋葉実氏は、多くの解読書を出版した。だが、その解読書でも、我々にはなかなか難しい文面になっている。その意味で、渚滑川の現代語版ができたことは、非常に喜ばしい限りである。

最後は、武四郎研究で大きな功績を残した故秋葉実(1926〜2015)の経歴を掲載するが、内容は同人が死亡した際の北海道新聞である。

ー東京の陸軍少年通信兵学校を修了。日大法学部を中退して丸瀬布に戻り、48年に町広報紙を兼ねる週刊新聞「山脈(やまなみ)」創刊に参加。53年から89年まで編集長を務め、郷土史研究に打ち込んだ。その過程で出会った武四郎の研究に没頭。武四郎の多くの著作、探検中のメモ帳などを解読して現代語訳したほか、研究書を数多く発表した。ー