書名「でんすけ・3」の“はじめに"

いよいよ3冊目の「でんすけ・3」の自費出版が、追い込みに入ってきた。そこで、「まえがき」が完成し、編集者に送付したので、皆さんにも紹介します。

早いもので、今般の書名「でんすけ・3」は、3冊目の刊行の運びとなります。上梓した文章は、昨年1年(56本)と本年前半(39本)に書かれたもので、既にネットに掲載しています。

振り返れば、昨年は「北海道命名150年」ということで、その名付け親で幕末の探検家・松浦武四郎(1818〜88)の話題がかなり多かった。そうした中で、北海道(179市町村)には、武四郎の「記念碑」が48市町村に60碑も分布し、北海道音威子府村の筬島(おさしま)には「北海道命名之地」碑が存在することを知った。そこで、この“命名碑"を表紙にすることにした。

音威子府村が作成した「村勢要覧」から、「北海道命名」に至った経緯を説明すると、

松浦武四郎 安政4年(1857年)幕末の探検家・松浦武四郎は天塩から石狩川上流への道路開さく調査をした際、これを「天塩日誌」に記録していますが、この記事の中で重要とされているのは当時の天塩川の状況、そして何よりも武四郎が筬島で野営した時、アイヌの古老(エカシ)より「カイナー」という言葉を教えられ、これが「この地に生まれたもの」という意味を持つことから、「北カイナー道」を発想し後にカイナーを海にあて「北海道」としたとされています。/北海道命名の地として音威子府村は永久に記されるものです。ー

ということだ。

現在の碑は3代目で、2011(平成23)年7月8日に建てられたが、初代は1990(同2)年、2代目は95(同7)年に建てられたと聞く。3代目の碑は、上方右側に小さく「松浦武四郎」と、中央に大きく「北海道命名之地」と、下方左側に小さく「北海道知事/高橋はるみ 書」と書かれている。その右側には「北海道命名の発想」板と、「『天塩日誌』を訪ねて 天塩川」と題する説明板が建てられている。

裏表紙は、北海道滝上町の「芝ざくら」(例年5月末が見頃)を採用した。滝上町は、吾輩が中学時代を過ごした街で、今年は滝上公園に「芝ざくら」が本格的に植栽されてから61年目という。風景写真としては、公園一面がピンクのじゅうたんで敷き詰められ、遠くに見える山の残雪と抜けるような青空のコントラストはまさに“絶景"、といきたかったが、今年は残雪が少なかったようだ。滝上町の「芝ざくら」を紹介でき、少しは町に“恩返し"ができたか、とも考えている。

さて、本文の方であるが、自費出版の3冊目も先見性や注意喚起を重視して書いたが、やはり“遠軽高校遠軽町"に関したものが6本と最も多かった。これも当然のことで、当初から友人たちに全国大会に出場している“遠軽高校"の吹奏楽ラグビーを紹介してきたからだ。しかし、定員数が現在の200人から160人、120人と減少すると、もう“自慢話"が書けなくなる。なぜなら、2つの部活は大人数で行われることから、生徒数の減少は致命的で、その意味で少子高齢化という時代背景があるものの、首長や自治体に対する期待は自ずと大きくなる。

次いで“武四郎・アイヌ"に関するものが5本で、本文の中身は武四郎本人の著書を取り上げたのが多かった。その中で、自然とアイヌに関する書物を読むことが多くなり、「アイヌは北海道縄文人の末裔」「本土では渡来系の遺伝要素が強く、北海道や琉球列島の両端では、縄文系の遺伝要素が強く残った」ということを知った。

このほか、JR北海道に関しても5本あるが、その背景にはJRの経営は国の支援なしでは成り立たないので、取り上げざるを得なかった。要は、現時点では北海道新幹線札幌開業は2030年度末とされるので、今後10年余りにわたって、どう路線を維持するのか、ということである。

以上、多方面の話題を取り上げたが、そのために吾輩もそれなりに勉強してきた。例えば、新聞3紙(朝日、読売、産経)を購読したり、図書館で週刊誌と月刊誌を観たり、さらに毎晩ネットで、北見市の日刊紙「経済の伝書鳩」、下野新聞日本経済新聞北海道版、日刊スポーツ、北海道新聞朝日新聞北海道版、栃木テレビ、北海道放送北海道文化放送遠軽町役場、遠軽高校などをチェックしてきた。

最後は、西郷隆盛にも影響を与えたとされる人物、江戸時代の儒学者佐藤一斎の「老いて学べば、即ち死して朽ちず」(意味→老年になって学んでおけば、ますます見識も高くなり社会に役立つこととなり、死んでからもその名は残る)という名言を紹介して「まえがき」とします。

(七月十五日記)

という内容です。完成は、9月初旬と思うので、楽しみにして下さい。