遠軽町郷土館が“解説資料" を作成

12月14日の遠軽町のホームページを見ると、見出し「解説資料で理解を深めて〜遠軽町郷土館で解説資料を作成」という文章が掲載されていた。そこで、すぐに地元の後輩に入手依頼したが、同館有料入館者の希望者先着100名に資料集を差し上げます、というのだから地元の後輩に頼むしかなかった。

さらに、以前から地方の「郷土館」には、展示品を解説する「ガイドブック」等が置かれていないと批判してきた以上、どうしても入手したい資料であった。遠軽町の「郷土館」も、ご多分に漏れず同じような状態であったが、元遠軽高校教諭・杉山俊明(既に約400ページの著書を5冊発刊済み)が同館の“社会教育指導者"というポジションを得たので、密かに期待していた。

ということで、21日に郵送されてきた解説資料を見ると、表題は「遠軽町郷土館」(106ページ)で、その下に解説シートで①遠軽地方の歴史②展示品の説明③郷土のお話ーなどと記されていた。それでは、読んでもらいたい文面を5つピックアップしたので紹介する。

1・中央道路(囚人道路)と「山神」の碑

1890年(明治23年)に、札幌と網走間の北海道中央横断道路の開削を受刑者の手で作ろうと、収容所を作った。それが網走刑務所である。

その道路は現在のJR石北本線沿いの国道とほぼ同じ経路で、網走から北見峠まで約163㌔の原生林を倒伐しながら三間幅の道路を僅か8ヶ月で作り上げた。

1891年(明治24年)に開削された国道333号線中央道路旭川ー網走間は別名「囚人道路」とも呼ばれる。北辺警備を急ぐ明治政府は大量の囚人を投入し超突貫工事を行った。劣悪な労働条件下で犠牲者も多く、1894年(明治27年)駅逓責任者としてこの地に入った佐藤多七が旧囚人官舎を住居にあてた際には、裏に67本の墓標が立ち並んでいた。また毎夜「助けてくれ」との声やうめき声が聞こえたので、慰霊に努めたが1898年(明治31年)大洪水で墓標が流失した。

雪の深い2月のある日、佐藤多七は野ウサギを追って薬師山に入り、ふと目に入った雪に隠れた見事な岩を見つけ、息子鶴松と近所の農民と力を合わせ巨石を運び出し石碑を建てた。そして死後も囚人と呼ばれるのは気の毒と考え「山の神」と刻入した。婦人達は雨や風にあたらぬよう石碑に屋根をかけた。1905年(明治38年)のことである。

※1891年(明治24年)、空知集治監の教誨師となった留岡幸助(28歳)、北海道一周の旅に出かける。10月21日から23日、彼はセトセ・丸瀬布・白滝で囚人たちの過酷な労働の現場に出会った。(留岡幸助日記「たづな旅漫録」)

2・名勝ピリカノカ  瞰望岩(インカルシ)

ピリカノカとはアイヌ語で、「美しい・形」を意味しアイヌの物語や伝承、祈りの場、言語に彩られた優秀な景勝地群を総称するものです。

瞰望岩は、約730万年前に噴出した火山の各種礫によって形成された比高78㍍の岩塊(標高160・8㍍)で、湧別アイヌと十勝アイヌなどとの間に壮絶な戦いを繰り広げた古戦場として、また神祭りが行われた厳粛な場であったと伝えられています。

アイヌの人々がこの瞰望岩を「見張りをするところ」、「眺望するところ」という意味の「インカルシ」と呼んでいたことから、アイヌ語の「インカルシ」は遠軽の地名の起源となりました。この瞰望岩を中心とした周辺一帯は、国指定名勝ピリカノカの5番目の構成資産として追加指定されました。その指定地面積は約1・9㌶です。

北海道自然遺産百選にも選定されている瞰望岩周辺は、風致保安林及び都市公園として保護されていますので、市街地でありながらも自然度が高く、稀少な植物を観察することができます。

瞰望岩はよく、地面が盛り上がってできたと言われますが、実際は違います。およそ1000万年前に噴火した溶岩が、水中でバラバラになった後、火山灰と一緒に再び固まってできた地層が瞰望岩です。大昔、ここには火山と湖(もしくは海)があったのです。

瞰望岩は水冷破砕岩(ハイアロクラスタイト)と呼ばれる海でできた岩石です。湧別川に浸食されずに残った部分が今の瞰望岩です。

※水冷破砕岩とは、水中に噴火した溶岩が急に冷やされることで粉々になってできた溶岩です。瞰望岩の岩石をじっくり観察すると、「縁取り」のある礫があります。これは溶岩が急に冷やされたことでできたガラスの殻です。

3・遠軽松浦武四郎

幕藩時代における湧別川流域の和人の足跡としては、今から120年前の1858年(安政5年)5月2、3日にモンベツ詰同心細野五佐衛門が今の上湧別まで(モンベツ御用所文書)、次いで同5月22日から24日にかけ、箱館奉行所御雇松浦武四郎が踏査(武四郎自伝)したことが、知られていた。

ところが、1976年(昭和51年)、東京の松浦家に秘蔵されていた紀行文『由宇辺津日誌』が初めて明らかにされ、武四郎が今の遠軽自動車学校付近まで足跡を印していたことが判明した。

この日誌は400字詰原稿用紙で34枚に及び、遠軽から上流のことは案内の乙名ハウカアイノ等からの聞き取りによって、その地況のあらましの外、アイヌの居住地点や家族構成、ソウヤ等への強制出稼ぎの状況並びに流域の地名解などが詳細に記録され、幕藩時代における湧別流域の唯一の地誌であった。地名はこれまでの52から、この日誌では82挙げられ、新しく分かった地名の外、語源不明とされていた地名の解明にも役立った。

この年の探検記録は、江戸帰府早々に執筆し、翌1859年(安政6年)全62巻を一挙に書き上げている。しかし、その中には悲惨なアイヌに対するれんびんの情と、それをもたらせた場所請負人達に対する怒り、更にはアイヌ政策に対する批判的表現も随所に見られることから、発禁処分若しくは自ら公刊をはばかったものらしい。それが明治になってからも、アイヌ政策は好転されなかったため、秘蔵するよう遺言したものといわれている。

※『宇辺津日誌部』の詳細については「遠軽町史(昭和52年発行)213P〜218P」に詳しく記載されています。

4・遠軽学田の話しー浦臼の聖園・北見の北光社・遠軽の学田キリスト教主義の大学設立を目指して(注、資料を送付してくれた後輩がピックアップ)

明治30年・31年の入植から27年、大正12年遠軽村開拓功労者の写真(注、ページ右に写真が掲載)である。前例中央には野口芳太郎の妻:ハル、2列目中央に信太寿之、右に秋葉定蔵、左に第2代遠軽郵便局長の菊地明十郎、左側に山口助蔵、3列目左から3人目遠間伊七、4列目右から3人目小山田利七らが並んでいる。入植以来、数多くの仲間が夢破れ学田を離れた。多くの犠牲の上に、遠軽の歩みがあった。

学田設立は当時の社会情勢と関係がある。その精神は自由民権運動キリスト教である。1893年(明治26年)土佐から浦臼に入植した『聖園』(武市安哉)、1897年(明治30年)に『遠軽学田』農場、北見の『北光社』(坂本直寛・前田駒次)の入植が続いた。

この3団体に共通の人物が野口芳太郎(注、明治2〜42年、高知県生まれ、初代遠軽郵便局長)だった。学田の構想は北海道同志教育会(押川方義会長)によって、「キリスト教主義の私立大学」を学田の地に建設するというものだった。日本のキリスト教界の重鎮が支援した。方法は小作料を30年間集めて大学を建設する。しかし、明治30年入植時の冷害、明治31年の大水で学田地は壊滅的なダメージを受けた。リーダーの計画より、現実は悲惨で多くの仲間が遠軽を離れた。建て直しの資金、毎日の生活資金など困難を極めた。精神的支えはキリスト教の教えである。1904年(明治37年)野口芳太郎らは禁酒北見青年会・学校建設・教会建設へ動いていった。1905年(明治38年)ついに伝道教会を建設、山下善之牧師を迎えた。

学田を奇跡的に救ったのは『薄荷』だった。湧別で渡部精司らが薄荷栽培をしているのを知り、学田入植者の小山田利七・小山田秀蔵・佐竹宗五郎らが遠軽学田地で栽培を始めた。

だが、入植時の災害の負担はあまりに大きく、入植者たちに当初計画の約束を果たせず、明治末に『学田』という組織は姿を消した。

写真に写る「開拓功労者たち」は何を感じ、何を思ってこの日を迎えたのだろうか。学田という組織は消えたが、彼らによって学田の理想は繋がっていった。

※2020年ー学田開拓親睦会は124回目の親睦会を開催した。1984年(昭和59年)の開基80周年では記念事業として『遠軽市街図』を作成、遠軽町郷土館2階に展示されている。

5・遠軽アイヌ

1739年(弘文4年)頃、和人の勢力は及ばず、貧富の差もなくアイヌは平和な暮らしをしていました。それが、安永年間(1780年頃)紋別に和人が進出してくると一変。働ける者は強制的に漁場に連行した為、生活は成り立たなく、コタンの灯は相次いで消えていきました。

1815年(文化12年)の間宮林蔵の地図によると、最奥にセタウシ(瀬戸瀬)コタンがありますが、1858年(安政5年)松浦武四郎のユウベツ日誌には、ウベカイ(上湧別共進)が最奥居住地になっています。

1844年(弘化元年)ユウベツのパウカアイノはコタンの人々が、次々と宗谷へ強制漁撈に連れ去られ、人口が減るのを怒って番人と口論し、「我等は和人の命令にはしたがういわれはない」と旭川へ逃げ去っていきました。これを知った番人は、アイヌが、この土地から逃げると、自らの責を追及されることになるので、一族の者に多くの宝物を持たせて「どうか怒りをなだめてほしい」と頼み込み、一年がかりで帰ってきたといわれます。(近世蝦夷人物史)。パウカアイノは1858年(安政5年)正式に乙名並となって、明治に入り壬生八兵衛と名乗り、1878年(明治11年)で没しています。

明治時代(1868年以降)には、湧別川の奥地まで全流域にわたってアイヌの人達が住んでいました。ムリイ(武利)、マウレセプ(丸瀬布)、インガルシ(遠軽)、イカンベツ(開盛)、サクペツ(15号線)、ヌッポコマナイ、ナオザネ(中湧別)、マクンベツ(6号線)などに集落がみられた。中湧別付近にいたアイヌは長内慶太郎ら19戸・50人だった。

1882年(明治15年)、湧別原野の地に、はじめて開拓の鍬をふるった人が、徳弘正輝です。彼は自由民権運動の志士です。上湧別町史には「1887年(明治20年)春、アイヌの酋長ケイタローと二人で網走から牛七頭連れてきた。中湧別に住むアイヌのヱロッタ(和名:大坪利作)の長女、大坪ホウを内妻とし、10人の子を得た。徳弘はアイヌを可愛がり自分の畑3㌶ほどアイヌに開放していたとの記録がある。徳弘のようにアイヌと共に生きる人がいる反面、明治30年・31年の屯田兵入植に伴い、1891年(明治24年)中湧別コタンで生活していたアイヌは川西貸与地に移動させられたとの記録が残っている。

※湧別アイヌの研究は、地元民間歴史研究家の秋葉實さんが第一人者です。彼の資料は現在、整理中です。今後、丸瀬布郷土館で展示される予定です。

以上、紙幅の関係でこれだけしか紹介できなかったが、吾輩的には松浦武四郎湧別川の探検で、瞰望岩を正面に見える位置までさかのぼっていたことが確認できた。また、資料には「松浦武四郎足跡図」が掲載されているが、これを見ると湧別の浜から遠軽町の入口まで、ほぼ国道242号線沿いに歩いて、途中から丸木舟で湧別川をさかのぼっている。それであれば、その区間の国道を通称「武四郎街道」「武四郎通り」と呼んだ方が良い。

このほか、アイヌの主食が“サケ"であるので、湧別川の川沿いのどの地点までアイヌのコタン(集落)が存在していたのかと考えていたが、丸瀬布付近まで存在していたようだ。つまり、上流地の白滝まではアイヌコタンはなかったということだ。

ところで、後輩の話しでは、杉山氏は第二段、第三段の資料作成を考えているようなので、今後の出版にも期待してしまう。だが、このような資料は、常に「郷土館」に備えて、入館者が購入(金額的には五百円前後)できる体制にするべきである。要は、わざわざ遠方から訪ねてきた“知識人"を、手ぶらで帰してはならないということだ。