「オホーツク街道」の遠軽町と湧別町

最近、北海道の廃線を巡る新刊本「北海道廃線紀行/草原の記憶をたどって」(著者=紀行作家・芦原伸〈1946年生まれ〉、2022年5月15日初版第1刷発行)を読んだ。その中の第3章「流氷街道をゆくーー名寄本線(遠軽〜名寄、138・1㎞)」では、鉄道の要衝・遠軽町と隣町の湧別町を取り上げていたので紹介する。

〈複雑怪奇な路線の設定〉

名寄本線の歴史はかなり複雑だ。

明治時代の路線設置は将棋の駒を動かしているような気配があり、出来上がった路線を既成の路線につなげて、路線名を変えたり、新路線を加えたりとジグソーパズルのようなところがあるのでなかなか理解が難しい。

名寄本線は「天塩国奈与呂(名寄)ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道」として1896(明治29)年に公布された北海道鉄道敷設法に規定された路線で、宗谷本線の名寄から分岐し、オホーツク海沿岸を経由して網走とを結ぶ幹線ルートとして計画された。その後の経過は複雑だから巻末の資料を参照していただこう。

とにかく名寄〜紋別〜下湧別間が開通したのは1921(大正10)年、それまで札幌〜網走間は23時間要していたが、本線の開通で13時間と大幅に短縮した。翌々年には名寄本線と改称され、昭和になり湧別線(遠軽〜中湧別間)を編入して廃線当時の形になった。

最終的に名寄本線は名寄と遠軽を結ぶ138・1㌔の本線と、途中の中湧別から分岐して湧別まで4・9㌔の行き止まり支線(通称「湧別支線」)があったが、いずれも国鉄分割民営化後の1989(平成元)年5月1日に廃線となった。

屯田兵の開いた中湧別〉

名寄本線廃線跡探訪は遠軽から出発した。遠軽駅は私の好きな駅の一つだ。

1934(昭和9)年に建てられた駅舎は石段の上に建ち、町を見下ろすように堂々としている。重厚な木造モルタル二階建ての駅舎だ。

その名はアイヌ語の「インカルシ(いつも眺める見晴らしのいい所)」の転訛で、駅の南西にそびえる高台の瞰望岩にちなむという。

その瞰望岩から見下ろすと駅が俯瞰できる。石北本線ではここでスイッチバックがあった。旭川方面から網走方面へ直進する特急「オホーツク」「大雪」、特別快速「きたみ」はすべて、到着後に進行方向を逆にして発車する。これは先に開通していた名寄本線と接続する形となったので、スイッチバック方式を取り入れた名残なのだ。名寄本線廃線となったいまでは“無用の長物"と化している。名寄本線の線路はホームの北端で途切れていた。

遠軽は懐かしい町だった。

1975(昭和50)年頃、石北本線の常紋峠の記録映画の撮影で遠軽に滞在したことがあった。

鉄道ジャーナル社に勤めていた私は映画部にも所属しており、社主兼監督の竹島紀元さんの助監督(実際はアシスタント)として来たのだった。鉄道ジャーナル社は社員わずか10人足らずの会社だったが、雑誌の編集部のほかに映画製作部があった。社主の竹島さんは映画製作にも意欲的で、主に国鉄から受注した記録映画を製作していた。この時はカメラ部隊、録音部隊と合わせて数人の部隊だった。カメラマンは杉山昭親さんで、当時人気テレビ番組だった「兼高かおる、世界の旅」で活躍した人である。

常紋峠は急勾配と急カーブが続くため、石北本線一の難所といわれ、蒸気機関車重連で客車を牽引していた。厳冬の2月のこと、蒸気はもうもうと立ち昇り、同時に煙を天まで焦がすか、と思うほど吐かせて走る二台の蒸気機関車の峠越えの姿は猛々しく、記録映画にはこれほどの迫力はなかった。最終便の旅客列車が蒸気機関車牽引だったため、撮影部隊は連戦連夜、雪の常紋信号所へと足を運び、信号所でスイッチバックする蒸気機関車の姿を捉えた。

撮影を終えて宿に帰り、ひと風呂浴びてスタッフらと酒場を探して歩いた。大通りに出ると遠軽駅が降る雪の中で神殿のように浮かび上がっていた。零下20度の寒さの中で、砂の舞うような雪道をひたひたと歩いたのが忘れられない。

遠軽駅前は「連隊通り」と呼ばれる大通り(道道244号)が駅から真っすぐに延びている。駅前は当時と比べて大小のビルが新しく建っているものの、ほかの道内の町と同じくさびれており、かつて泊まった駅前旅館はもはや姿を消していた。

ホームの西側にかつては遠軽機関区の扇形車庫があったが、今はなく転車台だけが残されていた。全盛期の1960年代には、700人もの国鉄職員が機関区、北見客貨車区遠軽支区などに勤務していた。

名物駅弁「かにめし」は、もはや休業しており、駅舎のそばに店舗を構えていた立ち食いそば店も近年惜しまれながら営業を終えた。そば店は夜行特急「オホーツク10号」があった2006(平成18)年までは深夜でも店を開いていた。「かにめし」は生き残って町内のホテルサンシャインがレシピを復活させ、ホテル内のレストランでテイクアウト販売を行っているようだ。

遠軽町は人口約1万9000人、町内に陸上自衛隊遠軽駐屯地がある。駅前の連隊通りという通称もこの町が軍隊にゆかりのあることをしのばせる。「遠軽」を音で聞くと「ベンガル」にも響きが近く、高齢の筆者はついゲイリー・クーパー主演の「ベンガルの槍騎兵」を思い出してしまう。こちらは英領インドのベンガル地方を舞台にした戦争映画だったが、どうも遠軽と軍隊はイメージが重なってくる。

名寄本線廃線跡に沿ってクルマを走らせた。

廃線跡湧別川扇状地を走った。左右は田畑で、その向こうに低い山並みが連なる。開盛、共進といったいかにも開拓地らしい名の駅があったが、今はすでに畑に溶け込んで線路跡らしいものはない。名寄本線最古の駅の一つ、開盛には「名寄本線開盛驛跡之碑」と刻まれた石碑が残っているらしいが確認できなかった。

中湧別の駅舎は中湧別駅記念館としてそのまま残されていた。中湧別駅はかつて名寄本線と湧別支線、湧網線の分岐駅だった。

駅記念館には跨線橋と二面三線ホームの一部が残され、跨線橋、ホームの上屋は1916(大正5)年の開業時のもの。駅名標も紺地に白地で「なかゆうべつ 中湧別 NAKAYUBEBETSU」と記され、下段に隣駅の「かわにし/かみゆうべつ」とある。ほかに除雪用のラッセル車と車掌車も保存され、傍らには「国有鉄道 中湧別保線区之碑」があった。郷土の文化遺産として駅と鉄道を大切に保存しているようで嬉しく思った。かような記念館は廃線跡に多く見られるが、いずれも土地の記憶であり、人々の思い出なのだ。鉄道という交通機関が根強く生活と密着してきたことの証しでもある。

後に調べてわかったことだが、湧別はチューリップで有名なところだった。上湧別チューリップ公園は屯田兵にゆかりがあり、住所は今も屯田市街地という。この公園は屯田兵の末裔が暮らしの活路を求め、1957(昭和32)年から輸出用チューリップを栽培したのがはじまりだ。3年後にはアメリカに輸出し生産量と輸出量が全道一になった。その産業アピールのために町が12・5ヘクタール(約3万8000坪)という広大な面積の公園をつくり、120万本のチューリップを植えることになった。オランダ風車のある建物もあり、花々が咲く季節には多くの観光客が訪れるという。

公園内の郷土資料館には屯田兵を記念して屯田兵屋や300人を超える肖像画などを展示している。

案内書には、「旧上湧別町開基100年を記念し、平成8年8月に建てられ、屯田兵としてこの地に入植した先人たちが助け合いの精神で築いた町の歴史を貴重な資料紹介します」とある。

屯田兵もまた北海道開拓のキーワードである。

明治新政府の北海道の開拓にあたっての方針は三つあった。一つ目は北方防備、二つ目は鉱山・炭山の資源開発、三つ目は“士族授産"である。屯田兵制度は階級、禄を失くした旧藩武士たちへの救済策として採択された。開拓使黒田清隆が発案し、明治7年に制度化された。

屯田兵は外敵の防備と同時に農地開墾の自給体制を整える、という双方の目的を果たすべく使命をおびて、最初に北海道に入植した人々だった。平時は農民として鍬をもって働き、戦時となれば兵隊として銃をもって戦うことが義務づけられ、国から保護を受け兵屋、生活道具などが支給された。当初は対ロシアを鑑み、大国に刺激を与えないよう“屯田憲兵"という形で、失職した士族を中心に北海道の治安を目的に内陸部に置かれた。最初に屯田兵村が置かれたのは札幌の琴似である。屯田兵はいわば武装移民で村は内陸開拓の前線基地となった。

明治中期から平民が主体となり、オホーツク沿岸や日本海沿岸を中心に全道で37カ村設置され、約4万人が暮らしたという。1904(明治37)年には、第七師団に統合されて使命を終えた。

昔、作家・司馬遼太郎の著書「街道をゆく38ーオホーツク街道」(発行所=朝日新聞社、1993年)が発売されたので、何が書かれているのかと興味を持って読んだ。ところが、取り上げられた市町村が網走市常呂町女満別町稚内市紋別市雄武町興部町小清水町斜里町と、吾輩が住んだことがない地域ばかりであったので、少しばかりがっかりした記憶がある。

そこで「オホーツク街道」を補完する意味で、今回は全く触れていない「遠軽地域」を紹介したが、当時の「鉄道の町」の面影はもはやない。しかしながら、遠軽地域の地理的な位置付けや、鉄路の変遷だけでも理解してくれたら、嬉しい限りです。