オホーツク管内の屯田兵の歴史

ネットで、北見市の日刊フリーペーパー「経済の伝書鳩」(11月12日付け)を見たところ、オホーツク管内屯田兵に関する興味深い記事が掲載されていた。この記事は、北見の開拓史に新事実ということで、見出しは「屯田兵の野付牛村開庁『1897年5月15日』ー北見・68歳男性」というものである。

北見市在住の元北見市職員・68歳男性が北見の屯田兵の歴史を調査し、野付牛村(北見市)に第四大隊本部、野付牛村と湧別村に中隊本部が開庁されたのは1897(明治30)年5月15日だったとした。公文書を確認したことによるもので『北見市史』にこの記載はなく、男性は「北見の屯田兵の歴史にとって、すごく重要なこと。成果をまとめて出版したい」と話している。

屯田歩兵第四大隊本部が野付牛村に、中隊本部が野付牛村(3カ所)と湧別村(2カ所)の計5カ所に開庁された日は『北見市史』に1897(明治30)年5月としか記載がなく、何日かは不明だった。

男性は、第七師団長男爵・永山武四郎が陸軍大臣子爵・高島鞆之助に宛てた報告書で、大隊本部と中隊本部の開庁が97年5月15日と確認。

軍の命令系統の最高機関である参謀本部は当初、屯田歩兵第四大隊を野付牛村に配備する計画はなく、96年と97年に湧別村に二中隊二個を配備する予定だったことも確認した。

また、湧別への屯田兵配備について、93年12月に永山武四郎屯田兵司令官(※この年は第七師団長男爵ではなく、屯田兵司令官)が参謀総長・熾仁親王充てに報告した『明治二十八年二十九年両年二於ケル屯田兵移植地』の中で、96年に二中隊を湧別村に配備し、大隊本部も根室から湧別村に移転する計画だったことを確認。

参謀本部は土地が確保されれば97年にも二中隊、都合四中隊を湧別に配備することを計画しており、北見市への配備計画はなかったとした。97、98年に北見、湧別に屯田兵配備が決定される以前に、湧別単独配備が計画されていた。

参謀本部屯田司令官の報告をもとに95、96年の配備について陸軍省と協議するが、陸軍省は94年2月、湧別は遠く交通が不便で経費にも懸念があるとし、最終的に参謀本部は94年4月、湧別配備を取り消している。

しかし、男性は同年11月の北海道毎日新聞に、常呂原野(野付牛原野・ムカ原野)と湧別原野に屯田兵を配備するため測量が行われているとの記事を発見。

これは97、98年の配備を前提とするもので「1894年の日清戦争で8月に朝鮮半島遼東半島を制圧、9月に平壌を陥落、また黄海海戦により制海権をほぼ掌握したことにより戦争賠償金を見込み、陸軍省は湧別の屯田兵配備にゴーサインを出したのではないか」と推測する。

また、北見に屯田兵を配備することになったのは「湧別に二中隊二個、都合四中隊を移植するほどの土地がなかったことと、北見は湧別とともに北海道庁の鉄道予定幹線に組み込まれていたこと、つまり、鉄道を軍事的に利用することが当時の参謀本部の既定路線であったことも影響しているのではないか」と推測する。

そのほか、屯田歩兵第四大隊による雪中行軍が97、98年に計2回行われ、初回(97年12月24日〜98年1月9日)は三輪光儀大隊長を含む19人、2回目(2月14日〜3月3日)は三輪大隊長を含む58人が旭川の永山兵村を往復した記録を確認した。

陸軍大臣に提出された雪中行軍報告書には、行軍中の日誌や参加者の氏名、積雪深度などの気象状況、駅逓での食事内容、浴場の有無、各士官らに与えられた特別任務の報告などさまざまな事項が詳細に記述されていた。

「冬季に中央道路を第七師団本部に向かう場合に必要とされる装備などに加え、おにぎりが凍ってしまって食べられなくなることへの対処法、宿泊先での食事は平素の食事より良かったため、行軍終了後に太った兵卒が多かったことなど面白いことも記載されています」と目を輝かせる。

雪中行軍の記録は膨大で四百数十コマになり「従来、湧別中隊だけで行われたとされた雪中行軍は、実は屯田歩兵第四大隊を挙げての一大事業。参加人数こそ違うが、199名が死亡した青森・弘前連隊の八甲田雪中行軍遭難事件に先立つ5年前に行われていたということです」と話している。

さらに、屯田兵を全国から海路で運んだ武陽丸と武州丸についても、「乗船三井社史資料室に確認して明らかになった新事実がありました」と男性。

「私は単なる好事家。趣味の範囲で地方史を調べているが、今回の屯田歩兵第四大隊の沿革などについては、公文書などの一次資料に基づいている。今後も、確実な資料を調査し、北見市の歴史的事実を後世に残したい」と話している。

この記事を読んで、最初に感じたことは「惜しかったなぁ」ということと、「札幌と旭川と同じ関係だなぁ」というものである。まずは「惜しかったなぁ」という意味は、屯田兵は「土地が確保されれば、都合四中隊と大隊本部を湧別村に移転する計画だった」という部分だ。もしも、計画通りに実施されていたら、現在の北見市遠軽地区の人口規模は、ほぼ同じになっていた、と思ったのだ。

その反面、湧別に移転しなかったのは「湧別は遠く交通が不便で経費にも懸念がある」という理由には多少納得した。当時、湧別に渡航する場合には、一度網走に到着し、その後に湧別沖に向かうからだ。この事実は、吾輩が5月末に湧別町の「郷土博物館」を見学した際、「湧別屯田渡航順路図」の中で、武州丸(明治30年)と東都丸(明治31年)の渡航経路が示していたからだ。そのため、第四大隊本部は、北見市端野に第一中隊、市内に第二中隊、相内に第三中隊、そして湧別町の南兵に第四中隊、北兵に第五中隊を配備した。

このほか、「札幌と旭川と同じ関係」というのは、明治時代の始め、北海道開拓や樺太開拓のためには、道都は北海道の奥地が良いということで、関係者の一部から“旭川に移転すべき"との意見が出た。しかし、既に札幌の都市整備が進展していたことから移転に至らなかったが、もしも旭川に移転していたら、少なくとも百万都市になっていた可能性がある。

ところで、以前から指摘していることであるが、県庁所在地以外の「郷土博物館」を見学すると、ほとんどの施設では、数百円単位の“冊子"が置かれていない。例えば、今回取り上げた湧別町の「郷土博物館」でも“冊子"が置かれていない。だから、出る際には、窓口の女性に「博物館に冊子があれば、より理解できるのにねぇ」と声を掛けてみた。つまり、手元に“冊子"があれば、より深い内容の文章が作成できたと考えたからだ。

そこで、全国の公共施設が“冊子"を置かない以上、国や都道府県は市町村が「郷土博物館」の建設案を提出した時、まずは冊子の原案を提出させるべきだ。要は、冊子を作成できない市町村には、それなりの学芸員もいないのであるから、博物館の建設に対する補助金を支出するべきではないのだ。

それを考えると、オホーツク管内斜里町の「郷土博物館」は、冊子といい、学芸員といい、それなりに充実している。特に、学芸員などは「案内したくてウズウズしている」という感じを受けたからだ。

いずれにしても、屯田兵の記事は非常に勉強になった。その意味で、68歳の男性には、今後の出版に期待したい。本人も「成果を出版できたら」ということであるので、期待して待ちたいと思う。頑張って、出版にこぎつけて下さい。