アイヌ文化の理解力アップを求めて

千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館(歴博)で特集展示「アイヌ文化へのまなざしーN・G・マンローの写真コレクションを中心にー」(昨年12月22日〜5月9日)が開かれていたので、4月21日に訪ねてみた。会場には、同館所蔵のアイヌ資料が十数点展示されていたほか、マンローが北海道平取町のニ風谷で撮影した儀式「イヨマンテ」の映像が上映されていた。上映会場に掲げた説明書には、

ー[上映中の映画]

ニール・ゴードン・マンロー制作「カムイ・イヨマンテ(アイヌのクマ祭り)」1930年撮影、65分間

スコットランド出身の医師ニール・ゴードン・マンロー(1863〜1942)は、アイヌ文化研究のため、1930年、クマの魂を神の国に送る儀式「イヨマンテ」を映画で記録し、みずから編集して、イギリスの王立人類学協会に送りました。歴博は、撮影フィルムから作成されたと考えられる未編集の35ミリポジフィルムを所蔵しており、そのデジタル化により、儀式の実写部分について、高画質の映像を得ることができました。高画質の実写部分と、マンローによる英語字幕を日本語に変えた部分を、原作品にしたがって再編集し、マンローが完成させた作品の全貌をご紹介します。ー

と書かれていた。

また、歴博が作成した資料「アイヌ研究者マンローのフィルムを追って」の中には、次のような文面があった。

歴博ではさまざまな映像を記録した映画などのフィルムを所蔵しています。その中に、アイヌ民族イヨマンテに関する35ミリフィルム4巻があったんです。

アイヌ民族は、熊を神の仮の姿だと考えていました。親熊を猟で仕留めると、残された子熊を人の手で1、2年間育てるんです。そして肉と毛皮をもらったお礼として、独自の音楽や踊りを伴う盛大な儀式をおこなって、子熊の魂を神の国に送り、その再来を願います。この儀式をイヨマンテと言います。

フィルムは、ニール・ゴードン・マンロー(医師・考古学者・人類学者)が昭和初期に撮影したもので、状態はとてもよく、美しい映像が記録されていました。ところが、歴博が収蔵するに至った経緯や来歴はまったく不明で、その調査をすることにしたんです。ー

というわけで、映像は「熊祭」(イヨマンテ)の様子を、白黒で音声なしで上映し、その途中途中に日本語の字幕が出ていた。映像の中では、多くの見物人の中に二歳の雌グマが檻から引き出され、その熊の肉や毛皮が宴の参加者に振る舞われる場面などが写し出されていた。

実は吾輩、2カ月前にアイヌ映画「アイヌモシリ」(福永壮志監督)を柏市内の映画館で観たので、一連の「イヨマンテ」の流れを多少は知っていた。この映画は、北海道阿寒湖のアイヌコタンが舞台で、撮影したのが2018年の8月、10月、12月というから、その季節の素晴らしい風景が映し出され、映像を冴えさせていた。そして、出演者の多くを現地に住むアイヌの方を起用したが、特に主役の下倉幹人君(14歳)の目が印象的と評判になったし、準主役の秋辺デボ氏(阿寒アイヌ工芸協同組合専務理事)の風貌もアイヌらしく、また演技も不自然さが全くなかった。だから、これまでのアイヌ映画の中では“最高傑作"ではないか、等々と考えている。

最後は、歴博で購入した本「アイヌ地域史資料集」(著者=平山裕人・北海道小樽市立小学校教諭、2016年7月25日初版、定価4800円)に記載されていた、オホーツク管内の市町村別のアイヌ人口を紹介する。この数字が掲載されていたので購入したが、多少高額であるので躊躇したことは確かである。

まずは、文面の中で「1900(明治33)年の北見国のアイヌ人口は、333戸950人(『殖民広報』6号)、1902(明治35)年は、287戸920人(『殖民広報』15号)だった」と書かれているが、当時の北見国(1869〜97年、現在のオホーツク管内宗谷管内を併せた地域)は、北海道を11カ国に分けた際の一つである。引き続き、オホーツク管内の市町村別アイヌの人口を、1921(大正10)年〈1922年発行『旧土人に関する調査』より〉、25(大正14)年〈1926年発行『北海道旧土人概況』より〉、35(昭和10)年〈1936年発行『北海道旧土人概況』より〉という順で紹介するが、数字は戸数(人口)を表し、単位は戸(人)である。

○網走…31(88)、21(80)、24(93)

○美幌…37(115)、24(85)、35(124)

○津別…4(12)、4(12)、記載無し

○小清水…3(8)、1(7)、2(5)

○斜里…15(61)、31(116)、30(114)

○端野(北見)…1(8)、記載無し、2(6)

○上湧別…6(14)、3(6)、1(1)

紋別…20(79)、2(75)〈※1:20戸か〉、18(72)

○渚骨(紋別)…9(23)、9(23)、記載無し

○滝上…2(9)、2(7)、記載無し

○野付牛(北見)…1(2)、1(2)、記載無し

○置戸…1(9)、1(7)、記載無し

留辺蘂(北見)…1(3)、1(2)、1(2)

○佐呂間…2(15)、3(18)、1(5)

常呂(北見)…17(45)、9(27)、9(14)

遠軽…1(7)、記載無し、記載無し

○興部…7(10)、記載無し、記載無し

○雄武…4(17)、5(17)、6(15)

○下湧別(湧別)…記載無し、6(8)、記載無し

ー合計…162(525)、123(494)、130(461)ー

ということで、傾向として「美幌、斜里、網走、紋別アイヌの人たちが集まっている」と書かれているが、昭和10年当時の日高(6396人)、胆振(3963人)、十勝(1339人)、釧路(1489人)、上川(555人)、石狩(545人)、根室(461人)と比べると、決して多くはない。だから、吾輩が少年時代にアイヌの人たちを見かけなかったのは、ある面当然なのかもしれない。