遠軽高校吹奏楽局の伝統継続を願って

今秋、久しぶりに遠軽高校吹奏楽局に楽器を寄贈(ユーフォニアムトロンボーン)したところ、まずは校長先生から「『でんすけ3』のーJR北海道に支援が必要ーの論考の最後の件『北海道にとって、果たして鉄道を守る以上の公共事業はあるのか』に感銘を受けておりました」という手紙を読み、こちらこそ“感激"してしまった。また、吹奏楽部の顧問先生からも手紙及び冊子類8冊とDVD2枚、さらに楽器を嬉しそうに持つ部員たちの写真と手紙が送られてきた。それらの中の一冊「創部65周年記念  北海道遠軽高等学校吹奏楽局 札幌特別演奏会」(2018年8月10日、札幌コンサートホール)のプログラムの中に、10年1月30日付け「北海道新聞オホーツク版」の記事が載っていた。この記事には“記録性"があると考え、少し長いが全文紹介しよう。見出しは「原点は楽器との出会い 会館に眠っていた数点 遠軽高生見つけ創部」である。

吹奏楽のマチ・遠軽

町内の小中高校の吹奏楽部が毎年のように全国大会に出場する「吹奏楽のマチ」遠軽。専用の音楽ホールもない人口2万3千人の町で、いかに吹奏楽の輪が広がっていったのか。半世紀以上前、少年と楽器との偶然の出会いから始まる町音楽史の中に、その答えを見つけた。

〈手探りで活動〉

「学校の近くの会館に、古い楽器が眠っているらしい」ー。1952年秋、当時、遠軽高1年の高橋閏さん(74)=北見市在住=は、知人からこんなうわさを聞いた。

同級生と向遠軽青年会館を訪ねると、使い古されたトロンボーンコルネット、大太鼓などの楽器数点が棚に収納されていた。

高橋さんは会館を管理する向遠軽青年団からその楽器を譲り受け、先輩2人、同級生5人と計8人でバンドを結成。翌年4月、網走管内の高校で初となる吹奏楽部(現吹奏楽局)としてスタートした。

同校には吹奏楽指導者がいない以上、楽譜もなかった。8人には音楽の基礎知識もなく、高橋さんは「(現在の陸上自衛隊の)旭川駐屯地の音楽隊を訪ねて楽譜を借りたり、演奏法を学んだり。生徒同士で試行錯誤を重ねながら、手探りで活動していた」と懐かしむ。

当時の演奏曲は「君が代」や「荒城の月」など。吹奏楽コンクールはまだなかったが、高橋さんの同級生で創部時の部員だった松里明さん(74)=網走市在住=は「体育祭や文化祭に出演したことが忘れられない。演奏はひどかったけどね」と笑う。

創部時の部員8人のうち、高橋さんや松里さんら6人はその後、管内の小中学校の音楽教諭になった。北見地区吹奏楽連盟の役員も歴任した。

〈力つけ全国へ〉

全日本吹奏楽コンクールは、高校生が最大目標とする大会だ。現在、高校の部の道代表は2校。遠軽高は本年度までに、管内で最多となる8回の同コンクール出場を誇る。

同校は60年代から徐々に実績を残し始め、70年に管内の高校で初めて同コンクール出場を果たす。吹奏楽専門の教諭は当時もいなかったが、部長だった木谷義宏さん(57)=現、北見・瑞穂小中教諭=は「音楽教諭になった遠軽高の先輩が指導に当たってくれ、力が増していった」と話す。

木谷さんの1年先輩の牛島義蔵さん(59)=現、北見・端野中校長=もOBとして支えた1人。遠軽高から東京都内の音楽学校を経て、72年に生田原中に着任後、遠軽高の外部指導も務め、77、78年には2年連続で母校を同コンクール出場に導いた。

〈小中とも連携〉

80年代に入ると、小中高校の連携が強化された。当時、遠軽中の音楽教諭だった木谷さんや遠軽町教委が中心となり、80年、地元の全吹奏楽団が出演するコンサート「町民音楽の広場」を初めて開催。各小中高校や遠軽高の卒業生らによる社会人バンドが交流を深める場となり、以降、毎年開催されている。

さらに88年、遠軽高OBの今井成実さん(51)さん=現、札幌南高教諭=が母校に着任。今井さんは遠軽高だけでなく、遠軽地区の小中学校の指導者と連携して地区全体の底上げに尽力した。

親交のあった吹奏楽の名門、関東一高(東京)の当時の顧問を通じ、同校を93〜98年の毎夏、遠軽町内に呼んで地元の子供たちとの合同コンサートを開催した。道外のプロ音楽家を講師に招く小中高校の指導者対象の講習会は今も続いている。

94年からは、遠軽南小教諭だった細木雅彦さん(46)=現、上湧別中教諭=らと協力し、遠軽高の生徒が同地区の小中学生に演奏技術をマンツーマンで指導する講習会を毎年開催。細木さんは「指導者の連携強化だけでなく、年齢の離れた生徒間の交流も図られた」と言う。

縦の連携の強化に伴い、90年代に入ると、小中学校も好成績を残し始める。遠軽南小は97年、管内の小学校で初めて全日本吹奏楽コンクールに出場した。

小学校で基礎的な技術を身に付けた生徒が、中学、高校に進む体制が整い、遠軽高は今井さんが在任中の88〜07年度の20年間、全日本吹奏楽コンクールに4回、全日本マーチングコンテストに10回出場した。全道、全国規模のコンクールで活躍する小中学校も続出し、同地区は黄金期を迎えた。

〈ハード面課題〉

遠軽町には音楽ホールがないというハード面の課題がある。町民音楽の広場などのコンサートは、町総合体育館で開かれている。

コンクール前には、音響設備の整ったホールで仕上げの練習を行うのが吹奏楽の世界の通例。町営ホール建設を望む声は30年以上前から上がっているが、建設後の高額な維持管理費などがネックとなり、実現していない。

ただ、ホールのある都市部などと比べて厳しい環境が、子供を育てている一面もある。

町総合体育館で開かれる演奏会では、会場設営や受け付け、撤去作業は出演する生徒が行う。遠軽吹奏楽局に本年度着任した顧問の高橋利明さん(37)は、ホールの必要性を強調した上で「遠軽の子供は自分たちでコンサートを手作りするという、都市部の子供が経験できない貴重な体験をしている」と言う。

同局長の佐藤真美(2年)も事もなげに話す。「会場準備は大変だけど、聴きに来てくれる地元の人にはいつも応援してもらっているから、つらいと思ったことはないんです」

遠軽地区では近年、指導者の世代交代が進み、少子化の影響で、吹奏楽に取り組む子供も減り続けている。

こうした状況を受け、北見地区吹奏楽連盟遠軽支部が中心となり、今月31日、湧別町文化センターさざ波で、吹奏楽交流会が初開催される。

遠軽地区の全小中高校の吹奏楽部を招き、各団体10分ずつ自由に演奏する。ただ「児童生徒がお互いの演奏を客席でじっくり聴けるよう」(同支部)、一般客は招かない。

支部長で遠軽中教諭の海野雅さん(33)は「吹奏楽人口は減っており、自分たちの世代が頑張らなければならない」と力を込める。

新たな取り組みは、吹奏楽関係者の危機感の現れでもある。指導者の熱意と子供たちの努力の積み重ねが、今後も「吹奏楽のマチ」の歴史を刻んでいく。

〈「宝」金管楽器どこから?/救世軍通じ青年団入手〉

遠軽高生だった高橋閏さんらが旧遠軽町内で金管楽器を発見したのは、終戦から7年後だった。町内に楽器店もなかった当時、「宝」はどこからやってきたのか。関係者の証言から経緯をたどると、遠軽の開拓や楽器を取り巻く人たちの不思議な縁が浮かび上がった。

遠軽町史などによると、同町は1897年(明治30年)、キリスト教主義の私立大学を設立しようという有志「北海道同志教育会」によって、学田地区から開拓が始まった。

だが、凶作や資金不足などにより開拓は進まず、離農者が続出し、同教育会は明治末期までに解散した。

だが、遠軽に残った熱心なキリスト教信者が1913年(大正2年)、町内に救世軍遠軽小隊を設立。初代隊長は、同教育会の初期の開拓団の1人である大江弥八氏が務めた。

英国で発足した救世軍は、布教活動の一環でブラスバンドを組織する。日本初のバンドも、救世軍が1907年(明治40年)に横浜で結成したとされる。

遠軽小隊によると、同小隊でも設立から間もなく、ブラスバンドが誕生。現在の小隊長三沢直規さん(37)は「管内でも非常に早い時期にできたブラスバンドではないか」とみる。

町内に住む大江弥八氏の孫、稔さん(79)によると、弥八氏は明治末期、入植先の学田から向遠軽に移った。そして、弥八氏の長男で稔さんの父七郎氏は、同小隊ブラスバンドの指導者だった。

さらに、七郎氏は1935年(昭和10年)ごろ、同小隊の活動とは別に、向遠軽の男子10人ほどで構成する音楽隊を設立。大半は向遠軽青年団の団員で、楽器は同小隊を通じて入手していたという。

当時、同青年団長を務めた飛沢富太郎氏も音楽隊に参加していた。町内に住む飛沢の次男昭さん(83)によると、地元の演芸会や管内青年団対抗の陸上競技大会などで演奏していた。「管内の青年団の中で、ブラスバンドが応援に来たのは向遠軽だけ。この辺では有名だったんだ」と振り返る。

その後、音楽隊は戦況が悪化した1942年(昭和17年)ごろに活動を終えた。楽器は遠軽高近くの青年会館に収蔵されたという。

救世軍ブラスバンド遠軽吹奏楽部との橋渡し役は、向遠軽青年団の音楽隊だったことになる。ちなみに大江家と飛沢家の子孫の数人は、その後、同吹奏楽部で活躍した。

北海道同志教育会の計画は結局頓挫したが、「国の将来を担う青少年に高度な教育を」という崇高な理念は、吹奏楽を通して、今も脈々と遠軽に生き続けている。

(年表として)

1897年(明治30年)…北海道同志教育会が遠軽町学田地区に入植

1913年(大正2年)…救世軍遠軽小隊が設立。間もなく、ブラスバンドも誕生

1935年(昭和10年)ごろ…向遠軽青年団の音楽隊が発足

1945年(昭和20年)…第2次世界大戦終戦

1953年(昭和28年)…遠軽高に吹奏楽部が誕生

1970年(昭和45年)…遠軽高が網走管内の高校で初めて全日本吹奏楽コンクールに出場

1980年(昭和55年)…遠軽で町民音楽の広場が始まる

1997年(平成9年)…遠軽南小が管内の小学校で初めて全日本吹奏楽コンクールに出場

2002年(平成14年)…遠軽中と遠軽南中が管内の中学校で初めて東日本吹奏楽大会に出場

こんなに内容が濃い新聞記事があるとは、このプログラムを見るまで、全く知らなかった。それも、北海道新聞の「オホーツク版」に掲載されたので、多くの道民も読んでいない筈だ。そうであるならば、なおさら“記録"として残す意味から紹介した。

とは言っても、既に12年前の記事であるので、現状をある程度報告したい。顧問先生の手紙には「夏のコンクールでは30年連続の全道大会金賞、3月のアンサンブルコンテストでは全国大会に出場、来月(11月21日・大阪城ホール)の全日本マーチングコンテストには4大会連続で出場するなど、全道・全国で活躍しております」旨の文面があり、依然としてよき伝統を維持しているようだ。

だが、顧問先生はメモ書きの中で「部活の人数確保に苦労しています」とも記されている。そこで、今年7月開催の「定期演芸会」プログラムから、部員の出身中学校を調べてみた。その結果、部員82人の中で、地元の遠軽町は39人、湧別町は8人であった。そのほか、北見7人、常呂2人、網走3人、紋別6人、美幌6人、興部1人、滝上2人、女満別1人、小清水1人、斜里1人、清里1人、さらに遠方の札幌2人、旭川2人という内訳であった。ちなみに、遠軽町は下宿代(7万から7万5千円)のうち、3万円を補助している。

ところで、記事の中に遠軽町には「音楽ホール」がないと書かれているが、ついに同ホールが来年8月26日にオープンする。町民センターとして、19年8月に着工していた「遠軽町芸術文化交流プラザ」(建設費38億円)の中に、念願の「音楽ホール」(客席・606席)が完成するのだ。だが、少子化の時代を迎えて、将来、部員不足に陥ったでは話にもならない。それを考えると、今後も学校関係者の奮闘に期待するしかない。