戦時中の「北見航空機㈱」設立の経緯

過去に、戦時中に遠軽の中学生や女学生が、木製飛行機の生産に動員されたことを、「遠軽高等女学生たちの学徒動員解明に向けて」(2018年6月17日)と「父親と同学年の学徒動員状況」(2020年2月16日)という題名で伝えてきた。そうした中、ネットで北見市の「広報誌」(本年12月号)を見たところ、題名「北見の歴史あれこれー北見航空機株式会社と北見航空工業株式会社」(№73、田丸誠)という記事を見つけた。

以前、戦時中の軍需工場で木製飛行機用合板類を生産していた「松下航空木材株式会社」を紹介しましたが、今回は余り知られていない「北見航空機株式会社」他を見ることにしましょう。

まず、北見航空機株式会社については、昭和32年(1957)発行の『遠軽町史』に、次のように記されています。

「戦局が不利になるに従って、(中略)航空機資材の重要な原料のアルミニュームの原鉱であったボーキサイトもマレーからこなくなって、手持資材も減少をきたし、木製でまにあうところはそれを使用することが決定されたのであった。このころ留辺蘂町長などによって地元に航空機会社を建設する案が立てられ、これが進んで昭和19年末当時『陸軍画報』で軍部に名を上げた留辺蘂出身の中山正男を中心に、一般人の持株による木製飛行機会社を建設する運動が強力に網走支庁管内1市25町村の民衆に働きかけられ、かくて株を持たない者は非国民呼ばわりされるほどであった。各市町村の関係者によって、隣保単位に半強制的に零細な資本がかき集められて、650万円全額払込の北見航空機株式会社が発足した。工場の買収は遠軽の角谷木工場、北見の馬場酒造所、濁川の大田ベニア工場の三カ所と、新たに遠軽に組立工場がおかれた。最初は生産種目を素材から翼・プロペラ・グライダーとして、だんだん組立木製飛行機の製作に進む計画であった」。(上写

真人物は中山正男)

会社設立発案者は当時の留辺蘂町長堀川重敏で、軍部に顔が利く中山と相談して、同町の木材業者を委員長に設立を進めましたが、留辺蘂一町の工場設置を意図して中山らと対立、同町関係者は離脱し、中山が委員長になって会社設立に奔走しました。

その結果、昭和19年12月17日、現・市民会館の所にあった西国民学校(西小学校)で北見航空機株式会社の設立総会が開催され、社長には軍需省が推薦した元航空技術学校長佐藤覚一陸軍少将、副社長には同じく靖国神社宮司鈴木孝雄大将の長男鈴木武が就任して、役員は地元選出としました。同社の工場は遠軽町、滝上村濁川、当市の三か所に開設されました。

先の引用にある「馬場酒造所」とは、大正7年(1918)に創業され、昭和18年に廃業した「馬場酒造店」で、現・北見トヨペット本社(とん田東町)の所にありました。そこに遠軽の角谷木工場の合板設備を移設して、直ぐに生産が開始され、国民学校高学年の生徒達も製品搬出に勤労動員されたとのことですが、同社は所期の目的を達成しないまま、敗戦となり、平和産業に転換、「北見合板株式会社」と改称しましたが、経営に行き詰まり、増資再建されて「北見綜合木材株式会社」となりました。

北見航空機株式会社と混同されるのが、網走で設立された「北見航空工業株式会社」です。同社は昭和19年11月、築港埋立地に工場を開設、鉄工部と木工部を置き、鉄工部は美幌航空隊の部品を製作修理、木工部は主としてグライダー尾翼を生産する計画でしたが、美幌航空隊から零式戦闘機と同型の木製機製作の発注をうけ、翌年早々30機を納入、ついで千歳航空隊から50機の発注をうけ、昼夜兼行で生産を急いだが、生産半ばにして終戦となった、と『網走市史』下巻にあります。因みに、同社が生産した木製機は、敵機が空襲してきた時に囮となる、飛行できないダミー(実物大の模型)だったようです。

以前に記した文面と重複する部分があるが、詳細な事実関係を知った以上、後世に伝えるために引用した。その理由としては、既に戦後75年が過ぎ、当時の“航空機会社設立の経緯"を知っている人物は存命していないと考えるからだ。

現在、遠軽高校では「オホーツク風土研究」ということで、その道に明るい人を招いての授業を行っている。吾輩の高校生時代にはない授業で、良い試みと思う。そう考えるのは、いろんな歴史学者や小説家の経歴を知ると、若い時から周りの出来事や歴史を知って、その道に入る人物が多いからだ。それを考えると、五十年前、百年前、そして二百年前の実態を解明する人物が、我が母校から生まれことを期待してしまう。