遠軽町白滝産・黒曜石の解説記事

昨年11月に遠軽町白滝産の黒曜石が国宝に指定されたことは、既に題名「遠軽町白滝の黒曜石が国宝に指定」で紹介した。そうした中、地元紙「北海道新聞オホーツク版」が4月27、28、29日付けの3回連載で、タイトル「国宝指定へー白滝産/黒曜石を語る」と題して、遠軽町埋蔵文化財センターの学芸員・瀬下直人と松下愉文が出土品にまつわるエピソードを語っている。

1・上ー〈美しさ、大きさ けた違い〉

2022年11月、遠軽町埋蔵文化財センター所蔵の重要文化財「白滝遺跡群出土品」は、国宝指定に向けて国の文化審議会の答申を受けました。以来、センターには多くの見学者が訪れ、1〜2月に東京国立博物館で開催された「新国宝重要文化財」の盛況ぶりもメディアを通じて全国に報じられました。白滝遺跡群から出土した黒曜石の石器類の魅力とは何か。答えは人によって異なるのかしれませんが、普段から携わる学芸員として、私なりの視点を紹介したいと思います。

一般の人がこの石器類を初めて見た時、まず黒曜石そのものの美しさに心を奪われるのではないでしょうか。溶岩の急冷によってできた天然のガラス質ならではの光沢があり、漆黒で上品な質感の黒曜石のほか、赤や茶色が混じったものなどもあります。後期旧石器時代(約3万〜1万5千年前)の人々も私たちと同じ人間。もしかしたら鋭利な刃物としての実用性だけでなく、美しさも黒曜石にひかれた理由ではないかと想像します。

さらに、サイズの大きさに驚く人も多いでしょう。日本最大級の黒曜石原産地である町白滝地区の赤石山(標高1147㍍)一帯には、無尽蔵と言っても過言ではないほどの黒曜石が埋蔵されています。約220万年前のダイナミックな火山活動がもたらした黒曜石は、露頭や山頂にある原石の大きさも規格外。私自身、学生だった約20年前に考古学の現地調査で初めて目にした時は、あまりの巨大さにもう笑うしかなかった記憶があります。

そのような大きな黒曜石から作る石器なので、サイズもおのずと大きくなる傾向にあります。19年に韓国・公州市の石壮里博物館で開かれた特別展に当センターから複数の石器類を貸し出した際も、来館者の感想は「見たことない大きさだ」というものが多くを占めたと聞いています。

国宝答申のニュースでも頻繁に取り上げられた尖頭器(やりの先端)は、最大で36・3㌢。一般的な尖頭器の平均サイズは10㌢前後なので、大きいという表現では収まりきれません。「こんな巨大な石器、本当に使えるの?」「マンモスはこのくらい大きくないと倒せない?」「呪術具の類いではないのか?」といった質問を受けることもあります。実際にはこの石器は製作途中で破損し、使用されなかったものと考えられています。

ほかにも、今回初めて展示室で公開する石刃(細長い短冊状の剥片。これを基にさまざまな石器が作られる)は、最大で45・9㌢にもなります。ここまで大きなものは、世界の研究者でもなかなかお目にかかれない代物です。まるで、作られた当時は巨人でもいたのではないかとさえ思ってしまいますね。

2・中〈一つ一つに宿る「人間味〉

前回に続き、遠軽町埋蔵文化財センターが所蔵する白滝遺跡群から出土した石器類の魅力を語っていきたいと思います。

私が皆さんにぜひ感じていただきたいことは、黒曜石の石器類に宿る「人間味」です。ガラスケース越しに眺める展示物はどうしても敷居が高くなってしまうところがあり、さらに国宝という箔が付くことで、より遠い存在に感じられてしまうかもしれません。

だからこそ強調したいのは、これらは私たちと同じ人間が作ったものであるということ。その過程には、作っている時の製作者の「気持ち」が伴っているはずです。

前回、紹介した最大36・3㌢の尖頭器は、大きいとはいえども失敗作です。途中までうまく作れていたのかどうかはわかりませんが、壊れてしまった時は「しまった」と思ったのではないでしょうか。派手な壊れ方をしているので、もしかすると、失敗した悔しさでわざと壊したのかもしれません。

そして、見た目も美しいので、製作者本人はほれぼれとしながら眺めていたのではないか、と想像してしまいます。もちろん旧石器時代のことなので記録もなく、作った人間がそういう感情を抱いたかどうかは定かではありませんが。

また、石器の製作過程で出る膨大な数の剥片をつなぎ合わせた「接合資料」からも、石器製作の苦労が伝わってきます。中には、黒曜石の原石を加工して石器を作ろうとしたものの、思い通りにいかず、何一つ作られた形跡がない接合資料もあります。復元して原石の形そのものになった接合資料を見た時は「一体、何をしたかったのだろう」と思ってしまいました。

逆にうまくいった場合は完成した石器が持ち運ばれてしまうため、空洞だらけの接合資料になります。残された剥片から石器づくりの工程や黒曜石を割る場所や角度を推定すると、1万年以上前の出来事のはずなのに、その様子を思い浮かべることができるのです。

本当にそうだったかどうかはさておき、こういった視点で見てみると、出土品一つ一つに人間味が感じられ、私たちとの距離が少し縮まる気がします。

白滝遺跡群から出土した黒曜石の石器類や剥片は、全部で数百万点にも上ります。2010年度には、そのうちの1858点が重要文化財に指定され、本年度にさらに107点が追加となり1965点が国宝に指定されます。当センターは展示資料を入れ替えて、新たに追加指定となる石器もお披露目します。大型連休などを利用して、ぜひご来館ください。

3・下〈調査、保護支えた遠間さん〉

白滝遺跡群から出土した石器が国宝に指定されることになったのは、長年にわたる調査研究や保護活動の成果が実を結んだものといえます。今回は、白滝遺跡群を発見し、調査研究活動を支えた遠軽町郷土史研究家、故遠間栄治さん(1904〜69年)について紹介します。

学生時代から考古学に関心を寄せていた遠間さんは、20年頃から遠軽村(当時)の職員として働きながら休日などに湧別川流域で遺物の収集に取り組む中で、黒曜石製の大型石器に注目していました。調査の成果は、網走のモヨロ貝塚を発見した考古学者、故米村喜男衛さんが主宰する北見郷土研究会の会誌で発表するほか、東京帝国大学がまとめた「日本石器時代遺物発見地名表」に白滝遺跡を含む遠軽丸瀬布、白滝の8カ所の遺跡を報告するなど、精力的に活動していました。

しかし当時、国内では旧石器時代の存在が確認されていなかったこともあり、遠間さんの調査が大きく注目されることはありませんでした。この頃に収集された石器は北海道大学植物園の博物館に展示されています。

ところが、49年に国内で初めて群馬県岩宿遺跡旧石器時代の石器が確認されると、各地で本格的な学術調査が開始されました。折しも54年に発生した15号台風(洞爺丸台風)によって、白滝の国有林内で倒れた木の根元から大型の石器が見つかりました。作業員から連絡を受けた遠間さんは、何度も現地に通いながら大量に出土した石器を収集。後に「遠間コレクション」と呼ばれるこれらの石器の発見から、白滝遺跡群は旧石器時代の遺跡であることが明らかとなり、北海道大学や白滝団体研究会、明治大学による学術調査が始まりました。

この頃には遠間さんは役場を退職し、父が経営していた映画館を引き継いで実業家や遠軽町議会議員として活躍していました。発掘調査に訪れる考古学者を物心両面から支援し、宿泊や食事の世話、情報交換などにも熱心でした。さらに、68年には地域の教育・文化活躍の発展のために私財を投じて「郷土資料館」を建設、自ら収集した石器の展示公開を始めました。

残念ながら、遠間さんは郷土資料館開館の翌年に死去しました。「遠間コレクション」は町に寄贈され、うち1902点の石器が北海道指定有形文化財「幌加川遺跡出土の石器群」に指定されました。

遠軽町埋蔵文化財センターは「遠間栄治記念室」を設け、郷土資料室のガラスケースをそのまま活用して遠間さんの活動や功績を紹介しています。国宝の見学に訪れる人たちにも、このように地域の文化財を支えてきた存在があったからこそ、今日を迎えられたことを伝えていかたいと思っています。

ここで、ことわざ「世間は広いようで狭い」という話を一つ。古墳大好きの宇都宮市の友人が「宇都宮に来てくれれば、発掘中の上侍塚古墳を案内する」というので、3月上旬に同市を訪れて「水戸黄門」のモデルになった水戸藩主・徳川光圀の発掘調査以来、330年ぶりの学術調査が進む大田原市の国指定史跡「上侍塚古墳」(4世紀の前方後方墳で、墳長114㍍と同地域最大)に連れて行ってもらった。

その際、栃木県埋蔵文化財センター調査課の谷中隆副主幹(58)が同古墳を案内してくれたので、吾輩が「千葉県に住んでいるが、出身地は北海道の遠軽高校です」と自己紹介したところ、谷中氏はちょっと驚いたような表情で「遠軽町には行ったことがあります」と話した。そこで吾輩が「昨年11月に遠軽町白滝産の黒曜石が国宝に指定されました。知っていますか」と尋ねたところ、谷中氏は「私は筑波大学の出身で、白滝のその黒曜石を堀に行きました。最初に行ったのはもう30年前で、10日間くらい遠軽町の街中に宿泊して、発掘に従事しました。その後も行ったが、あの飲み屋は今もあるのかなぁ」などと述べたので、吾輩は嬉しくなり持参していた著書「でんすけ」の3、4、5の3冊差し上げて引き揚げてきたというわけである。

ネットで調べてみると、1995年(平成7年)から2011年(平成23年)まで発掘調査が行われ、その際に出土した旧石器時代を主体とする700点、重量13トンの遺物は、11年に重要文化財に指定されたという。つまり、筑波大学の関係者が、30年前の発掘調査に関わっていたことが裏付けられた。

さて、今後の黒曜石を巡る遠軽町の動向であるが、今年7月3日から6日までの4日間、町芸術文化交流プラザを会場に「第4回国際黒曜石会議」が開催される。この会議は、2016年にイタリア、19年にハンガリー、21年にはアメリカで開催され、アジアでは初めて開催される。参加者は、国内外を問わず20か国・約110人で、黒曜石を研究する考古学者や地球科学者、分析科学者などが一堂に会し、研究成果を等を発表する国際シンポジウムというから、これからも黒曜石に関するネタはつきないようだ。