樺太のことをもっと知ってほしい

昨年5月に根室市を訪れた際、駅前の土産物屋に入って書籍コーナーを覗いていたら、主人が近づき「知り合いの北海道新聞の記者が書いた本です」というので、新刊書「追跡 間宮林蔵探検ルートーサハリン・アムール・択捉島へ」(著者=相原秀起、2020年4月24日第1刷発行)を購入した。その後、ダラダラと寝かして最近読んでみると、著者が択捉島樺太での取材を1995年から2014年まで実施した記録で、ここまで踏み込んで日本の北方地域を調査しているとは知らなかった。

そこで、オホーツク海の流氷に繋がるアムール川河口の様子、樺太の石油開発の歴史、間宮林蔵アムール川・デレンまでの足跡などについて紹介する。

アムール川河口の“しょっぱくない"について

ー2014年10月のルプロワでの取材に戻る。

間宮海峡を見渡せる砂丘からクリーム色の粒の粗い砂が敷き詰められた浜へと下り、波打ち際の海水を手ですくってなめてみた。普通の海水と比較してしょっぱくない。何度かなめてみて確認したが間違いなかった。同行していた栗田記者も「本当だ。しょっぱくない」と驚いた表情を浮かべた。

理由は対岸にアムール川の河口があるためと気づいた。アムール川は、毎分1万立方メートルもの膨大な淡水を海峡に注ぎ込む。その流量は北海道の石狩湾に流れ込む石狩川20本分もの水量に匹敵し、東京ドームを升に見立てれば、わずか2分間で満たすとされる。

海水の塩分濃度がアムール川の真水で薄まっているのだ。塩分濃度が薄ければ、その分凍りやすくなる。冬には大陸から吹き付ける季節風で冷やされて大陸沿岸で流氷がつくられ、遠く北海道のオホーツク沿岸や知床半島までやってくる。さらにアムール川は上流部の広大な湿地帯や森林地帯からの豊富な鉄分などミネラルをオホーツク海に供給し、これが植物プランクトンを育み、動物プランクトンの餌となり、魚やクジラ、アザラシなど海獣類を育てる基礎となっている。オホーツク海の豊かな生態系を形作る土台はアムール川の恵みなのだ。ー

北樺太の石油資源について

ーニブフやウイルタなど先住民族が多く暮らす北サハリンは、他のロシア極東地域とは大きく異なる点がある。大陸棚で大規模な石油と天然ガスの採掘が行われていることだ。すでにサハリン1とサハリン2というニつのプロジェクトが稼働し、石油と天然ガスを日本や中国、韓国へと輸出している。なぜ、この地域に石油や天然ガスが眠っているのか。それは、大昔、古アムール川が運んだ膨大な有機物が海底に沈み、それが長い時代に石油やガスになったためとされる。石油や天然ガスアムール川の恵みなのだ。

オハ近隣では、昔からニブフなどの間で「死の黒い湖」と呼ばれる石油滲出地があることが知られていた。サハリンでの最初の試掘は1889年に始まり、帝政ロシア時代の1910年にはゾトフ1号井で最初の石油採掘に成功した。この記念すべき油井は「歴史的建造物」としてオハに残されている。近くには、にじみ出た原油によって地面が黒く汚れ、川が油によって虹色に光っている場所がある。天然の石油滲出地だ。周辺の内陸部では今も盛んに石油の汲出しポンプが稼働し、石油を生産している。

日露戦争(1904ー05年)によって、北緯50線以南の南サハリンを領有した日本政府は、石油がより重要性を増す中、以前にも増して北サハリンの石油に関心を強め、政府の後援で久原鉱業、三菱鉱業、日本石油、宝田石油、大倉鉱業の5社が「北辰会」という組織を作り、石油の調査と開発を進めた。1925年には年間10万トンの石油を生産した。当時の日本国内の消費量は年間84万トンで、サハリンの原油はその12%に当たった。ー

間宮林蔵アムール川・デレンへの足跡について。

ー帰国後、現地で撮影した写真と映像を北東アジア史の専門家3人に見てもらった。

北大探検部の元顧問で、いつも取材上のアドバイスや資料を教えてくれる北大の菊池俊彦名誉教授に概要を電話で伝えると、「間宮林蔵が歩いたあの有名な坂道ですか」と驚き、わざわざ会社まで来てくれた。菊池教授は映像と写真をじっくりと見たうえで「これは大変な発見です。思っていたよりもかなり大規模に掘削されている。こんな道が残っているなんて思ってもいなかった。これを見たら東京などの研究者はどう言うでしょうか。楽しみですね」と語った。

「なぜ、このタバ湾ルートが当時のメーンルートだったかわかりますか」と菊池教授は逆に質問してきた。

アムール川河口まで下る、もしくは河口からキジ湖周辺までさかのぼるよりもはるかに省エネだったからではないですか」

「その通り。まさに省エネのためにのショートカットルートなのですよ」と菊池教授はうなずいた。

間宮海峡に面するポキビ(林蔵が記録するポコベー)を出発点として、アムール川とキジ湖の合流点のマリンスコエ村(キチー)までの距離を測ると、アムール川河口経由だと約380キロだが、タバ湾ータバ峠経由だと約150キロとその半分以下。川の流れをさかのぼる労力も想像に難くない。アムール川の岸辺に立つと、意外に流速が速いことに驚かされる。場所にもよるが人が歩く速さほどの場所もあった。エンジンなど動力はなくて、すべては人の力に頼っていた時代、アムール川河口からわざわざ何百キロも余計にさかのぼることは無意味だろう。私が当時の交易民ならばそんな無駄なことはしない。タバ湾ルートならば、標高50メートルほどのタバ峠さえ越えてしまえば、さほど大きな労力なくしてアムール川本流まで達することができる。

シベリアの先住民族やロシア人も移動する際には、川と川をつなぐ最短ルートを選び、舟を曳いて峠を越えて、別の水系に出るのが常だった。ー

①に関しては、アムール川の水量が膨大なので、河口付近の海水は“しょっぱくない"という話。つまり、アムール川河口は、塩分濃度が薄いので凍りやすく、そのためオホーツク海で大量の流氷が作られ、北海道のオホーツク沿岸まで押し寄せてくることを教えている。

しかし地球温暖化の影響で、50年前まではオホーツク海沿岸に100日近く押し寄せていたが、今ではわずか年間20日程度まで短くなったという。吾輩は中学生の1960年代半ば、オホーツク沿岸紋別市の「流氷祭り」に行ったことがある。その際に港付近を散策したが、流氷が陸上部に折り重なるように大量にあり、非常に驚いた記憶がある。つまり、流氷の量とパワーに恐れ入ったのだ。

②に関しては、樺太は江戸期から日本人が進出していたが、帝政ロシア樺太対岸のアムール川左岸やウラジオストクを含む沿海地方清朝から奪ったと同じように、日本もロシアの軍事力で樺太全島を取られてしまった。しかし、北樺太日露戦争後のポーツマス条約でロシア領にとどまったが、20年の沿海州の尼港(現ロシア・ニコラエフスク・ナ・アムーレ)事件の事態の収拾を図る中で、25年に「日ソ基本条約」が締結され、北樺太における日本の石油・石炭利権が正式に認められた。その後、日本は国策会社「北樺太石油株式会社」を設立し、36年度には北樺太の油田から計約18万トンを算出し、うち16万7千トンを日本に輸出している。

そして、最近の90年代半ばからは石油・天然ガス開発事業「サハリン1、2」として開発し、現在では「サハリン2」から液化天然ガス(LNG)生産量の年1000万トンのうち日本は600万トンを輸入している。つまり、資源に乏しい日本がLNGの輸入量の約1割を北樺太産に頼っていることを考えると、我が国が膨大な石油・天然ガスの埋蔵量を失ったことは知っておくべきことである。

③に関しては、1809年の間宮林蔵アムール川・デレン探検の最大の見せ場であるが、近道して樺太対岸の大陸・サンタン(山丹)地方に到着(8月13日)し、ムシボー(タバ湾)から山道と峠を越えてタバマチーという場所に出た。そのタバ湾は、なかなか興味深い場所であるので、著者も北東アジア史の専門家も関心を持っていたというが、吾輩も出来るなら行ってみたくなった地点である。

いずれにしても、今後も永遠にロシアと中国との間で、樺太が領土問題として横たわることは間違いない。だから、絶対に忘れてはならない歴史が樺太にあるので、特に若い人たちに向けて紹介したのだ。