遠軽町白滝産の黒曜石が国宝に指定

この度、遠軽町白滝産の黒曜石が国宝に指定されることになったので、まずは地元紙「北海道新聞」(11月19日付け)の一面記事から紹介する。

①見出し「遠軽・白滝の石器類国宝に/旧石器時代の黒曜石ー道内2件目/国宝で最古指定へ」

国の文化審議会(会長・佐藤信東大名誉教授)は18日、オホーツク管内遠軽町にある後期旧石器時代(約3万年前〜1万5千年前)の白滝遺跡群から出土した黒曜石などの石器類を国宝に指定するように永岡桂子文部科学相に答申した。来春にも正式に指定される。旧石器時代の遺跡は初めてで、国宝の中で最古となる。道内の国宝指定は2007年の中空土偶(函館市)に続き2件目。

石器類は11年に重要文化財(重文)に指定されており、国宝への格上げとなる。対象は、先端がとがった国内最大級の長さ3㌢のやり先形石器や「細石刃」と呼ばれる鋭利な石器、製造過程で出る剥片などを組み合わせた「接合資料」の計1965点。旭川紋別自動車道の建設工事に先立ち、1995年〜08年にかけて道埋葬文化財センター(江別)が行った発掘作業で、遠軽町白滝地域の七つの遺跡から出土した。ほとんどが同地域にある赤石山一帯で採取された黒曜石で、遠軽町が所有している。

文化庁によると重文指定以降、石器の多様な加工技術や黒曜石の切り出しから石器完成までの一連の流れが分かる資料として、学術的な価値がさらに高まった。文化財第一課は「群を抜いた素材の豊富さと石器の種類の多さで、質量ともに世界的な価値を持つ遺跡だ」と評価する。

現在、最も古い国宝は長野県茅野市で出土した「縄文のビーナス」と呼ばれる縄文時代中期(約5千〜4千年前)の土偶縄文時代の国宝は中空土偶(約3500年前)を含め6件あるが、それ以前の旧石器時代の国宝はなかった。

②見出し「旧石器時代解明へ高評価/遠軽・白滝黒曜石の石器国宝へ」

重要文化財の白滝遺跡群(オホーツク管内遠軽町)の出土品が、国宝に格上げされる見通しとなった。後期旧石器時代(約3万年前〜1万5千年前)では質量とも他に例のない黒曜石の石器類が、旧石器人の加工技術や暮らしぶりを解明する上で高い学術的価値を持つと改めて評価された。その存在は東北地方やサハリンでも確認されており、良質の石を求めて北海道を往来した当時の人々の活発な行動を裏付けるという点でも極めて貴重な資料といえる。

遠軽町白滝地域の北部にそびえる「赤石山」(標高1147㍍)には、黒く輝く黒曜石の露頭が点在する。黒曜石は約220万年前の火山活動の際、マグマが急速に冷えてできたガラス質の石。赤石山一帯の埋葬量は十数億㌧と推定する専門家もおり、国内に約80カ所ある産地で最も多いという。

日本旧石器学会の佐藤宏之会長(66)は「白滝の黒曜石は一つ一つの塊が他地域よりも大きい。旧石器人には加工しやすく、大型の武器などを作るのにも適していたはずだ」と推測する。白滝遺跡群のほとんどの石器類は赤石山の黒曜石で作ったもの。これまで約760万点の石器や破片が出土し、このうち1965点が国宝指定される。

文化審議会で高い評価を得たのは、資料の豊富さだ。

やり先などに取り付けて使う短冊形の「細石刃」は一般的な長さ数㌢程度のものだけでなく、約8㌢の大きなタイプも発掘されている。いずれも破損しても交換可能な「替え刃式」だったとされる。黒曜石の破片を組み合わせて復元した「接合資料」の中には、製作途中のものも多数あった。

旧石器文化の変遷や、どのように石が割られたかなど石器の製作過程が分かる。日本に最初に住んだ人たちの生活も見えてくる」。道埋葬文化財センターの長沼孝理事長(68)はそう解説する。

専門家の間では、北海道を往来した旧石器人の行動範囲を推定する資料としても注目されている。山形県などでも白滝の石器類が見つかっており、長沼さんは「旧石器時代も舟が使われていたという説もある」と、当時の人々が北海道から海を渡っていた可能性に言及する。

海外ではサハリン南部の遺跡からも出土している。最終氷河期だった当時の北海道はサハリンと陸続きだったとされ、白滝遺跡群の発掘調査を手がけた白滝ジオパーク交流センター前名誉館長の木村英明さん(79)は「サハリンに黒曜石の原産地は確認されておらず、白滝産が大きな役割を担っていた」という。

旧石器時代文化財指定を巡っては、2000年の旧石器発掘捏造事件以降、審査の際に厳しい目が向けられてきた。事件で疑惑を持たれたのは前期・中期の資料だったが、道内の考古学関係者は「後期を含めた旧石器時代全体の資料が色眼鏡で見られるようになった」と振り返る。後期の白滝遺跡群の出土品は、重要文化財から国宝への格上げまで11年かかった。文化庁文化財第一課は「この時代の学術的な評価が定まるまで、一定程度の時間を置いた」と明かした。

また、文化庁によると、平成以降は出土品の中から特に優れたものを単品で指定するだけでなく、大量出土したものを一括指定するケースが増している。「自治体などの埋蔵文化財の調査体制が整ってきたことが大きい」(同課)。美術的価値だけでなく、資料的・学術的価値を重視する傾向が強まっているという。

白滝の石器類の国宝指定は、こうした文化財行政の潮流の変化も背景にある。木村さんは「国宝となる約2千点があって、初めて旧石器時代の北海道を語ることができる」と一括指定を評価。その上で「道外にも同じような価値がを持った遺跡はある」と、指定を機に古代の歴史や文化の解明に新たな光が当たることを期待する。

③見出し「知名度、観光振興膨らむ期待/遠軽・白滝遺跡群」

遠軽】町白滝地区の白滝遺跡群出土品が国宝に指定されることになり、地元が喜びに沸く中、注目を集める人物がいる。昭和の始めから旧石器時代の遺物の研究に打ち込んだ遠軽町郷土史家、故遠間栄治さん(1904〜69年)。白滝一帯で収集した黒曜石器約2千点は「遠間コレクション」と呼ばれ、国宝となる出土品とともに町埋蔵文化財センターに展示されている。

「白滝遺跡群を語る上で遠間栄治氏の名は欠かせません」。同センターに設けられた「遠間栄治記念室」で、学芸員の瀬下直人さん(44)は話す。

ガラスケースには黒く光る大きな石器がずらり。今回の国宝対象とはならないものの、後の研究につながる貴重な資料として道指定有形文化財に指定されている。

生前の遠間さんとともに遺跡調査に関わった親族も、国宝指定の吉報を喜んだ。遠間さんのおい、一宮龍彦さん(78)=町内在住=は「遠間のおやっさんの調査や収集活動が、その後の大学などの研究につながったと聞く。私財や時間を費やして努力したことが報われて良かった」。

一宮さんが20代だった1960年代後半、運転免許を持たない遠間さんを車に乗せて白滝までよく通ったという。夏になると週2日以上は調査に協力した。「(遠間さんが)どうして歴史や遺跡の研究にのめり込むようになったかは分からない。手伝い始めた時には黒曜石の矢尻をたくさん集めていたよ」と振り返る。

当時、映画館を経営した遠間さんは私財を投じて収集品を展示する資料館を建てた。「人に喜んでもらうことが好きだった」と一宮さん。地域の行事などにも積極的に参加する明るい人だったが、64歳の時、資料館で自身のコレクションに囲まれて脳出血で亡くなった。その後、コレクションは町に寄贈された。

来年7月、町芸術文化交流プラザで、世界の研究者が集まる「国際黒曜石会議」が開かれる。町白滝ジオパーク交流センターの小野昭名誉館長は「遠間コレクションを含め、白滝産黒曜石の価値を発信したい」と意気込んでいる。

遠軽町白滝地区に関しては、吾輩が1960年代後半に住んでいた当時は白滝村(人口のピークは昭和33年の4955人)という人口3千人以上の自治体であったが、その後は加速度的に人口が減少して旧遠軽町と合併した2005年当時は1070人、今は600人以下という。それだからこそ遠軽町の町民、ましてや白滝地区の地元住民にとっては吉報と言える。

実は、先週の始めに遠軽町の後輩から「遠軽町白滝産の黒曜石が国宝になる」旨の内密な話があったので、内々に朗報を待っていたのだ。この話を聞いた際に「これを人口増加に繋げたいね」と述べると、後輩は笑いながら「無理、無理」と言うのだが、定住人口増加は無理でも観光客増加をきっかけに、地域活性化起爆剤として交流人口を大幅に増やして町の魅力を知ってもらいたいものだ。

もう5年前か、白滝地区で黒曜石が採集されている現場を見るために乗用車で向かったが、途中にぜんぜん案内板がないので、ジャガイモ畑を走り回って引き返すことがあった。そもそも遠軽町は地域をあげて黒曜石を宣伝している以上、案内板を数多く設置するべきで、まだまだ改善の余地はあると感じたものだ。その後、白滝地区に所在する立派な施設「遠軽町埋蔵文化財センター」(遠軽町内の遺跡から出土した埋蔵文化財を管理・保管し、その活用を図る施設)を訪れて、黒曜石を見て回ったが薄暗い感じであった。もしかしたら見学者が少ないので、明かりを落としていた可能性があるが、それでも薄暗かったという印象しか残っていない。

最後に、遠軽町白滝の黒曜石に関しては、今年1月11日に題名「最近の考古学研究で解明した日本列島」の中でも取り上げているので、興味のある方は読んでみて下さい。それにしても、遠軽町白滝産の黒曜石が国宝になるとは、ただただ驚くだけで、吾輩の認識もその程度であったのだ。万歳、万歳!