北方警備と開拓は明治以後では非ず

蝦夷地の北方警備と開拓の歴史を知りたくて、新刊書「江戸幕府の北方防衛」(著者=中村恵子、令和4年2月23日第1刷発行、発行=株式会社ハート出版)を読んだ。そこには、以前に福島県会津出身の友人から「幕末のオホーツク管内は、会津藩が警備と開拓を担っていた」と言われ、半信半疑の状態が続いていたからだ。

ということで、蝦夷地の警備や開拓の歴史などを紹介していきたい。

ー1840年、アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことで、49年に蝦夷地警備厳重化のため松前藩に築城を命じた。まもなく幕府は54年に日米和親条約、55年に日露通好条約に調印し、ついに祖法を破って下田、箱館を開港する。ペリーは調印後すぐの4月に箱館に寄ったことで、幕府は諸外国に対する警戒のため、翌5月には箱館奉行所を再び設置した。

幕府は、松前城箱館奉行所設置だけでは安心できず、再度1855年2月22日に蝦夷地・樺太・千島を直轄にすることにした。そして4月14日、第2次蝦夷地直轄の年に、松前藩福山領以外の土地の警備を仙台、秋田、南部、津軽藩に命じ、59年9月27日には会津、仙台、秋田、庄内、南部、津軽6藩に蝦夷地・樺太・千島の分治警備命令を出した。

1855年の第2次蝦夷地警備命令では、秋田藩日本海積丹半島から宗谷を経てオホーツク海側の知床半島までの海岸線と、樺太だった。しかし、59年の第2次幕府直轄時には、会津藩根室海峡沿岸を統司・警備することになり、領地はオホーツク海に注ぐ西別川から現在のオホーツク管内になった。元陣屋は標津町、出張陣屋は斜里、紋別箱館に置いた。ー

そういうことで、会津藩は59年から江戸幕府が崩壊するまでの間、オホーツク管内の警備と開拓を担ったのだった。

本書には、箱館奉行が幕府の直轄地となった蝦夷地の警備を、地域を分担して東北諸藩に命じた警備地図が掲載されているので、地図を見ながら管轄地域を紹介する。

会津藩オホーツク管内根室管内羅臼、標津

仙台藩→西は白老から胆振管内日高管内十勝管内釧路管内根室管内根室、別海、そして北方領土(歯舞群島色丹島国後島択捉島)

秋田藩宗谷管内

庄内藩上川管内留萌管内空知管内石狩管内、後志管内の小樽、積丹半島、岩内

盛岡藩胆振管内の登別、室蘭、後志管内の京極、洞爺湖、渡島管内の長万部、八雲

弘前藩→檜山管内のせたな、乙部

松前藩→渡島管内の松前箱館

次は、蝦夷地における和人の統治や開拓などの歴史を紹介していきたい。

○かつて蝦夷地と呼ばれた北海道には、おびただしい旧石器時代縄文時代の遺跡がある。例えば、帯広大正3遺跡から出土した、世界最古の煮炊きに使ったことが証明されている1万4000年前の縄文土器がある。

○1392年に南北朝が合一し、室町幕府は全国政権として盤石となった。この頃、蝦夷の蜂起「応永の北海動乱」を平定したのが、本家安藤康季の下国家十三湊(青森県五所川原市)と、安藤鹿季の出羽秋田湊(秋田市土崎港)の湊家である。この湊家は「奥州十三湊日之本将軍」に任じられた。「日之本」とは当時、広義で蝦夷地全体をさし、将軍号は単なる現地「蝦夷地支配の責任者」(代官)ではなく、幕府から「蝦夷地支配者」として認められたことを意味し、朝廷も認める正式なものだったとしている。

○「黒印状」を得た1604年、徳川家康からは「蝦夷地内の金山は松前慶広の処分に委任する」と申し渡されていた。真偽のほどは判らないが、1619年は5万人、翌年は3万人の、金堀目当ての和人が押し寄せたといわれている。いわゆるゴールドラッシュである。彼らから来航役料、金堀運上金を取り、松前藩はかなり豊かであったという。

○ほとんどの日本人は、江戸幕府蝦夷地政策を知らないので、北海道開拓は明治以後と思っている。しかし、函館近郊にある現在の七飯町は、松前藩成立時にはすでに多くの和人が住み、1615年には名主、年寄、百姓代の役があり、村の自治を運営していた記録が残されている。1786年の記録で、七飯村の戸数は50戸、260人になっていた。また、北海道新幹線駅がある北斗市(大野村)で、1692年には20戸ほどの和人集落があり、吉田作右衛門が450坪を開田し、産米10俵を収穫したと記録されていることから、「北海道の米作り発祥地」となっている。

○幕府は、1799年の東蝦夷地直轄(仮上知)を決定し、同時に蝦夷地開拓のため、いくつもの方策を出していた。まず、豪商ら有志に開墾を奨励し、「官民移民」を募集し、各「場所」には穀物、蔬菜を試作させ、襟裳岬近くの浦河、様似で好成績を収めたという。また、その幕府の応募に応じて1800年、武州八王子千人同心」が現在の苫小牧市勇払(約50人と鉄砲25挺)、釧路市近くの白糠(約50人と鉄砲25挺)に“警備と開拓"のため入植している(1804年まで)が、これは明治時代に導入した「屯田兵制度」の先駆けだった。

○1807年10月24日、ロシア鑑が樺太クシュンコタンを襲うなどの文化露冦を受けて、幕府は松前地・蝦夷地全島、樺太、千島を幕府直轄にする。そして仙台藩箱館、国後、択捉に2000人、会津藩松前、斜里、樺太に1600人、南部藩は砂原、幌泉、根室に250人、津軽藩は天塩、留萌、増毛、熊石に150人の大規模な警備出兵命令を出す。第1次江戸幕府直轄終了時(1822年)には和人約3万人、アイヌ約3万人の人口であったという。

○「八王子千人同心」は、第2次直轄時にも入植している。1858年、秋山幸太郎を頭に15人、1859年、飯田甚兵衛を頭に25人が家族連れで七飯町に入植した。また、庄内藩も1861年1月27日、領地のハママシケ(石狩市浜益区)開拓のための大工、瓦師、葺師、壁師、炭焼き、石切、鍛冶師、作図師、味噌・醤油・酢の職人、郷夫を継続的に募集を続けた。蝦夷地撤退時には800人(藩士200人、農・郷600人)ほどだったといわれている。

○幕末の蝦夷地は、和人が約8万5000人、アイヌが約1万5000人、合わせて10万人ほどになっていたという。

以上のように、江戸幕府はロシアと国境を接している蝦夷地、樺太、千島を我が国の領土として統治しようという意思を示し、開拓もけして明治時代以後に開始されたわけではないことを理解できたと思う。

最後は昔、会津出身の友人から「我が先祖が警備・開拓した遠軽に、お前の代わりに住んでやっている」と言われたので、いつかは調べてみたいと考えていた。その意味で、多少は責任を果たせたかと考えているが、最近は認知症を心配して、文章のメールが来なくなった。元気なら、頭の訓練を兼ねて、短くても良いからメールを下さい。