最近の考古学研究で解明した日本列島

最近の考古学の研究成果は目を見張るものがあるので、年末年始から新刊書「日本列島四万年のディープヒストリー」(著者=独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所主任研究員・森先一貴、発行所=朝日新聞出版、2021年8月25日第1刷発行)と、北海道遠軽町白滝の黒曜石を解説している本「〈改訂版〉北の黒曜石の道 白滝遺跡群」(著者=元札幌大学文化学部教授・木村秀明、2005年2月10日第1版第1刷発行、2020年9月15日改訂版第1刷発行)」を読了した。それによると、最近の考古学の研究成果は、自然科学的手法が遺跡の解明に貢献しているという。

ー考古学では遺跡の絶対年代を決める際に、「放射性炭素年代測定法」という自然科学的手法を用いることが多い。これ以降、本書ではたびたび炭素年代測定についても触れるのでここで簡単に原理を説明しておこう。自然界の炭素原子には重さが異なるC12、C13、C14という3つの原子が存在する。このうち、C12が約99%を占め、C13は約1%、C14は実に約1兆分の1だけ存在する。最も少ないC14原子は放射性炭素と呼ばれるのだが、これは不安定な原子であり一定の速度でβ(ベータ)線を放出して壊れ、窒素原子N14に変化する。放射性炭素年代測定法は、この「一定の速度」で壊れていくという性質を利用する。C14は食物網を通じてありとあらゆる生物の体内に保有されているが、生命活動が停止すると炭素を新たに取り込めなくなり、その時点からC14原子の数は減少の一途をたどる。残されたC14原子の数がどれだけであるかによって、生命活動を停止した時期を算出することができるわけである。ー

この解説を理解できる貴殿は、間違いなく理数系の能力を持っている。吾輩は、恥ずかしながら、チンプンカンプンであるからだ。

それでは、日本列島の人類史を紹介していくが、半世紀以上生きている貴殿には、驚く内容が続くと思う。

○2足歩行を始めた最初期の人類(700万年前)はアフリカで進化し、100万年前までにホモ・エレクトゥスなど、いわゆる「原人」と呼ばれる人々がアフリカで誕生しユーラシアに広がった。私たち現生人類(ホモ・サピエンス)は「新人」とも呼ばれ、約30万年前〜20万年前にやはりアフリカで誕生し、約20万年前〜10万年前には西アジアなど隣接地域に進出したのち、世界中に広がった。

○現生人類が広がった先の土地には、たとえばヨーロッパにはネアンデルタール人中央アジアにはデニソワ人など、「旧人」と呼ばれる人々がすでに存在していた。インド中部のナルマダ渓谷やインドネシアフローレス島のリアン・ブア洞窟では、ホモ・サピエンスが広がった当時、島嶼適応により小型化したホモ・フローレシエンシスという「原人」の末裔が存在していたことが報告されている。

○世界中に進出を始めた現生人類のうち、東アジア東端に到着した一派が日本列島に渡り、人類史の本格的な幕開けを告げたのは、およそ4万年前のことである。そのたしかな年代値をもつ遺跡のうち、日本列島最古の年代をもつ遺跡とされるのは熊本県熊本市石の本遺跡群の8区という地点と、静岡県沼津市の井出丸山遺跡であるが、出土した炭化物の年代測定で3万9000年前〜3万7000年前に残されたことがわかっている。

○日本旧石器学会が2010年に集計したところ、旧石器時代全期間の遺跡の数の合計は1万箇所を超える。東北から九州で3万7000年前以降の遺跡の急速な増加が認められるが、北海道では3万年をさかのぼる遺跡の存在は今のところ非常に少ない。また、南側の琉球列島では石灰岩が豊富な環境のため約3万7000年前以降の人骨はみつかっているが、本州以北で使われる石器が認められず、両者に文化的な違いがあった可能性も指摘されている。

○ヨーロッパでは、気候が温暖化・安定化した完新世(現在の年代観では約1万1000年前)に、人々は定住して農耕や牧畜を開始するとともに、土器や丁寧に研磨してつくる「磨製石斧」(ませいせきふ)を使用するようになったといわれてきた。これが新石器時代だ。ところが、日本列島に現生人類がはじめて現れた直後、約3万7000年前の後期旧石器時代始めに、既に刃の部分に研磨を施した「磨製石斧」が旧石器時代の遺跡から数多く発見されている。旧石器時代磨製石器の発達は世界史の常識からは大きく外れるものなのである。

○「土器の出現」もしかりで、今から20年以上前になるが、青森県大平山元Ⅰ遺跡でおよそ1万6500年前〜1万5000年前にさかのぼる土器が出土したと発表され、世界中の研究者を驚かせた。日本をはじめ東アジアはまだ寒冷期だった更新世に、土器を使う狩猟民がいたことになるからだ。まだ農耕や牧畜が始まる気配すらないころである。いまや土器は日本列島でも独自に発生したと考えることも可能だ。さらに、ヨーロッパでは旧石器時代の終わりごろに広まるとされた「弓矢猟」も、日本ではいちはやく旧石器時代から行われていた可能性を指摘する研究も現れた。

○人類が世界に広がり始めた更新世は寒冷な氷期と温暖な間氷期とが何度も激しく入れ替わり、年平均気温が5〜10度も異なった。このような環境下では、同じ場合で食料を安定して手に入れることは難しい。しかし、3万年前に始まった厳しい寒冷期は、約1万9000年前以降、とくに1万6000年前ごろから急速に温暖化し、海水準が100㍍も上昇して今日に至っている。

○約1万1000年前以降の完新世になると、氷期は終わり、気候が温暖化しただけでなく、はるかに安定した。このころに試みられ、やがて広く定着したのが農耕と定住だ。定住が可能となった理由は、完新世の温暖化に伴って中緯度地帯で温帯森林が拡大し、狩猟から堅果類などの採集と魚類の採捕に食料獲得を依存するようになり、それらの貯蔵・保存技術の発明によって定住が可能になったからだ。こうした食料生産に軸足を置き定住するようになった時代を「新石器時代」という。

○ところが、日本列島ではこの新石器時代にあたる縄文時代ではなく、弥生時代になってようやく水田稲作が導入された。放射性炭素年代測定法による年代測定事例が増加するにつれ、弥生時代の開始年代がさかのぼった結果、今では九州北部に水田稲作が導入されるのが紀元前9世紀〜前8世紀ごろとされていて、西アジアと比較すれば1万年近いタイムラグがある。

どうですか、吾輩は高校時代に弥生時代は紀元前300年、縄文時代は紀元前3000年と教えらたと記憶しているが、今は弥生時代は紀元前900年、縄文時代は紀元前9000年と修正されている。そもそも「弥生時代の開始は500年早かった」と衝撃的な説を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表したのは2003年のことであるが、その後も自然科学的手法などで解明が進んでいるのであろう。

続いて、遠軽町白滝の黒曜石(1924年、遠軽町在住の愛好家・遠間栄治が奥白滝で20㎝×20㎝の大型尖頭器を発見)について紹介する。白滝産の黒曜石は、質が良くて大きな塊が豊富に産出することで知られているが、その考古学における意味合いを次のように記されている。

旧石器時代の終わりごろの2万年前、疎林やツンドラといった寒冷な環境下にあった北海道では、細石刃(植刃器の細石刃が一つ外れても、刃だけ取り替えれば使い続けられる)と呼ばれる道具が発達した。黒曜石などガラス質の緻密な石材を使って、丁寧に整えた石の塊(石核)から打ちだした細く薄い石の刃のことだ。それを骨や角などのシャフトの縁に並べてはめ込んで使う。一つ一つの道具は小さな部品だが、それらを組み合わせることで大きな槍やナイフをはじめ、様々な道具をつくりだすことができたと考えられる。ー

ー白滝産黒曜石は、南方680㌔、山形県湯の花遺跡にまでおよんでいたことが蛍光X線分析により確認されているし、白滝から380㌔の距離を隔てた南サハリンのソコル石器群に、大量の黒曜石が搬入されている。また、最新情報によると、2000㌔も離れた中国の吉林省東部にまで運ばれていたらしく、蛍光X線分析の結果が伝えられている。年代は7〜8000年前であるが、アムール河口のマラヤ・ガーヴァニ遺跡の分析例もあり、それよりも旧石器時代に「北の黒曜石の道」が大陸におよんでいたことはほぼ間違いなかろう。ー

以上、遠軽町白滝の黒曜石を絡めて日本列島の人類史を紹介したが、白滝産の黒曜石に関しては、この15年前頃に知ったことである。現在では遠軽町役場にジオパーク推進課を設置したり、遠軽高校でも「ふるさと学(2年次)」として、この地域の歴史を理解する授業の一貫として教えている。この背景として、取り上げた書物の中に、次のように書かれている。

ー近年では発掘調査を通じて知ることとなった事実を、地域の魅力としてまちづくりの材料に積極的に活かしていこうと取り組む地方公共団体も多い。大都会への人口集中がとまらぬまま、人口減少社会に突入した現在、地域社会は何とか若い世代の定住を促進し、観光客を呼び込もうと躍起だが、遺跡が明らかにする地域の歴史も、そうした取り組みに役立つものとして活用しようという動きである。ー

まさに遠軽町も、これに該当する地方公共団体と言える。黒曜石の特徴や歴史的背景をついてしっかりと理解していれば、住民による情報発信を通じて後々の関係人口や交流人口の増加につながってくる筈だ。いずれにしても、自然科学的手法によって、年々少しずつ人類史が解明されているので、貴殿も書店で新刊本を手にとってみては…。