沖縄・兵庫・栃木のトライアングルが完成

7月2日に、宇都宮市の知人から「今、荒井退造(元沖縄県警察部長)に関する講演会が開かれ、田村洋三(1931〜2021)さんが書いた本が売られている。購入しますか」との電話があったので、「購入して送付して下さい」とお願いをした。その本を手にすると、昨年12月1日に急逝したノンフィクション作家・田村洋三の新刊書「沖縄の島守を語り継ぐ群像ー島田叡と荒井退造が結んだ沖縄・兵庫・栃木の絆」(2022年4月10日初版発行、発行者・悠人書院、412ページ)で、冒頭から退造の出身地・栃木県での顕彰活動を詳細に記述されていた。そこで栃木県関係者一行(8人、2015年6月)の一員として沖縄県を訪れた際、田村さんとレストランで対話した内容などを紹介する。

〈荒井退造顕彰事業実行委員会、沖縄へ〉

島田知事の顕彰碑除幕式に招かれた退造顕彰実行委はさっそく、(荒井)俊典会長ら役員八人の参加を決めた。このセレモニーには筆者も二月から出席を要請されていた上、除幕式当日に(島田叡氏事跡顕彰)期成会が発行する記念誌(A4判、一一〇ページ)への寄稿も求められていた。

それを知った俊典会長は、沖縄で筆者と会おうと考え、除幕式前夜の六月二十五日夕、那覇市具志のレストランでの夕食会に招いてくれた。

会は藤井(弘一・元市議)実行委員の司会で始まり、冒頭、俊典会長は「地元のわれわれの立ち上がりが遅れ、退造顕彰に七○年もかかってしまいました」と反省。他の委員も揃ってそれに同意をする謙虚さだった。それだけに全員が退造研究に熱心で、なかんずく、顕彰の先鞭を付けた室井(光・元高校長)顧問は退造の数々の事跡を、この問題は拙著の何章、何ページにありと列挙したのには、筆者の方が驚かされた。

研究熱心を象徴するように、一行はこの日午後、沖縄戦研究の第一人者である大田昌秀・元沖縄県知事(二年後の二〇一七年六月十二日、九二歳の誕生日に呼吸不全で逝去)を、彼が理事長を務める沖縄国際平和研究所(那覇市西)に訪ねたことも話した。大田は戦中、沖縄師範鉄血勤皇隊の一員として九死に一生を得た人で、戦後はその苦い経験を基に琉球大学教授として沖縄戦を研究した。

訪問の目的は、俊典が事前に依頼していた退造顕彰本の巻頭文を受け取ることと、退造の評価を聞くことだったが、大田の退造に対する評価は高く、こう切り出した。

「沖縄の人たちは、荒井さんが島田さんに負けないくらい県民のために尽くしてくれたことを、よく知っています。二人とも沖縄の恩人だし、大事な人です。それなのに、どういうわけか近年は島田さんばかりが取り上げられるのを不思議に思っていたのです」

評価の理由としては、一九四四(昭和十九)年の10・10空襲以来、臆病者の泉守紀知事は東京に出張したまま帰らず、伊場信一内政部長も不在がちで、県政の重責は荒井が一人で担った。しかも、島田が翌年一月末に着任するまでの約四か月間、県民の県内外への疎開や食糧確保にも尽力した功績は大きい、とした。

その割に島田より評価が低い点については「当時の警察はスパイ摘発に力を入れる怖い存在だったことが、荒井評価の足を引っ張っているのではと分析、「だから今回、出身地の栃木の皆さんが顕彰活動を始めたのはとても嬉しい」と語った。そんな評価を映して、大田は退造顕彰本に寄稿した巻頭文のタイトルを「沖縄の恩人、荒井退造警察部長について」としていた。

退造への高い評価を、沖縄戦をよく知る人から直接聞いた後だけに、夕食会の空気は弾んだ。俊典会長は顕彰本のメーンタイトルを、退造が沖縄戦末期に、側近に言った言葉である「頼む!逃げてくれ」とし、サブタイトルに「荒井退造没後70年記念誌」と添える考えを明らかにした。

さらに「これが今日の本題なんですが……」と前置きして、九月に宇都宮市で開く出版記念会への筆者の出席を要請した。それはやがて講演依頼になり、筆者が宇都宮で退造を語ることになる。

このレストランでは、荒井さんから「これまでの経緯を君が説明してくれ」とご指名されたので、吾輩は第三者の目から見た年初からの栃木県内で広がった退造顕彰の動きを説明した。また、本文で記述されている大田さんの退造に対する評価も述べたが、この部分は2015年7月2日付け「沖縄県における元警察部長・荒井退造の評価について」の中で紹介している。

続いて、この時の沖縄県訪問で最も重要な行事「第27代沖縄県知事 島田叡氏顕彰碑」除幕式の開催状況を紹介する。

第二十五章 島田叡氏顕彰碑除幕式

〈栃木と若者に心遣い〉

島田叡氏顕彰碑の除幕式は、戦後七○年の島田の命日にあたる二〇一五(平成二十七)年六月二十六午前十一時から、奥武山運動公園の前記「友愛ゾーン」で開かれた。

気温三一度の夏空の下、翁長知事ら地元関係者に加え、兵庫県は約百人の県民代表団を送り込んだ。井戸敏三知事(七○)、久元喜造神戸市長(六一)はじめ、二〇人の県議団、「武陽会」は和田憲昌顧問ら理事会の面々である。栃木県からは嘉数(昇明、島田叡氏事跡顕彰)期成会々長の招きに応じ、退造顕彰事業実行委の荒井会長、室井顧問ら八人が参加、県内外から約四〇〇人が参集した。

これによって、島守をめぐる三県の関係者が集うトライアングル第三歩は、戦後七○年目にして、やっと実現した。

この場こそ、島守の足跡を後世に伝える絶好の機会と考えた嘉数、名嘉山両発起人は、多くの若者に出番を用意した。

式典は又吉民人沖縄県野球連盟理事長(六九)の司会、神谷期成会副会長(六七)の開会の辞で始まり、黙祷の後、さっそく、那覇高校女声合唱部が「島守の塔賛歌・島守のかみ」を合唱、美しいコーラスが会場を優しく包んだ。

前出の記録映像『島守の塔』のイントロでも使われた故仲宗根政善琉球大学教授の作詞になる歌、今や島守追悼には欠かせない名曲である。

その余韻さめやらぬなか、顕彰碑は除幕した。碑に向かって右側に沖縄県の翁長知事、喜納昌春県議会議長、嘉数期成会々長、左側に兵庫県の井戸知事、石川憲幸県議会議長、勝順一「武陽会」理事長が紅白の紐を引き、碑を覆っていた白布を取り払った。

合掌を象った真っ白な琉球石灰岩の上に、直径一メートル近いステンレスの球体が、真夏並みの陽光を受け、燦然と輝いた。

古来、クガニトウバ(黄金の言葉)として沖縄に伝わり、それを知った島田知事を心酔させた「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ何よりの宝)」の象徴だった。

碑の四囲には前記「島守の塔賛歌」など碑文四枚が配されており、島田と荒井の功績を称える正面の「建立の詞」は、起草者の名嘉山・総括が自ら朗読した。

続いて主催者念願の「島田叡氏」の名を刻んだ前記「兵庫・沖縄友愛グラウンド」碑も、久元神戸市長や上原裕常糸満市長らによって除幕された。ここでも兵庫・沖縄友愛交流事業に参加経験がある両県の若者四人が参加、野球を通じて島田知事を語り継いでいくことを誓った。

嘉数会長の主催者挨拶は、島守の顕彰活動が栃木県人を加えたトライアングルになったことに力点を置いた。荒井退造を「島田さんと不離一体の堅い信頼関係で、ともに苦労を分かち合った」と紹介、三県民が揃って、この日を迎えられたことを喜ぶとともに、「これからも新たな交流が、さらに発展していくことを確信しています」と期待を寄せた。栃木からの八人の参加者には「栃木県荒井警察部長、関係者」の掲示がついた座席が用意されていた。

来賓の井戸知事、翁長知事も挨拶のなかで、異口同音に栃木からの参加に歓迎と労いの言葉をかけるのを忘れなかった。

井戸知事は同郷の島田知事に対する顕彰碑や、その名を刻んだ友愛グラウンドの造成に感謝するとともに、「没後七○年の今年、改めて島守の深い人間愛や、最後まで県民を守ろうとした生きざまを学び、次世代へと語り継がなければならない」と述べ、自作の和歌を詠み上げた。

島守の形見に誰もが涙せん 崇める気持ち 赤裸に出でん

この一首を墨書した色紙は、嘉数会長に送られ、後刻、スタジアム資料館の「島田叡氏事跡コーナー」に展示された。

かたや翁長知事は、「顕彰碑の建立で、三県の友愛の絆は、さらに深まった。島守の不屈の責任感、行動力、野球人として培ったスポーツマンシップ、フェアプレー精神は、次世代に語り継がれると確信している」と期待した。

この除幕式の状況も、既に15年6月29日付け「沖縄県での『島田叡氏顕彰碑』の除幕式に出席して」の中で紹介している。だが、これだけ詳細な開催状況を書かれると、吾輩の文章が霞んでしまう。

とは言っても、栃木県一行が沖縄県の関係者と飲食店で面談した際、忘れぬことがあった。それは吾輩が栃木県一行の一番端の座って、沖縄県側の一番若い男性と向き合った際に「ネットで荒井退造(15年2月26日付け「栃木県の偉人・荒井退造について」)のことを書きました」と遠慮がちに述べたところ、その男性が「その文章読みました。まさか今夜『でんすけ』さんと会えるとは思いもしませんでした」と言うではないか。ネット社会の凄さとともに、沖縄県側でも栃木県側の動きに関心を示していたことに驚いた。

いずれにしてもこの沖縄県訪問が、沖縄・兵庫・栃木のトライアングルの端緒になり、それがクランクイン後にコロナ禍で1年8か月も撮影が中断したものの、無事に7月22日から公開される映画「島守の塔」(監督・五十嵐匠、主演・萩原聖人村上淳)に繋がっていると考えると、何ともいえない感傷にしたってしまう。また、沖縄県のことをさほど知らなかった吾輩が、これまでに10本くらい沖縄県に関する文章を作成できたことを考えると、栃木県の人たちには感謝しかない。

最後は、沖縄を愛した田村さんのことであるが、レストランで「私は現在84歳であるが、あと2〜3冊本を書きたいと思っている。当然、荒井さんのことも念頭にあります」と述べたが、失礼ながらその時には「あと2〜3冊書ける気力があるのか」と感じたものだ。ところが、これだけの歴史を書き残して来世に旅立ったのだから、まさに不屈の責任感、そして行動力には敬服しかない。本当にこんな素晴らしい書籍を残してくれてありがとう、と感謝の言葉を贈るとともに、改めて田村さんに合掌です!