荒井退造生誕120年記念「島守」シンポジウムの開催状況

映画「島守の塔」製作委員会(下野新聞社神戸新聞社琉球新報社沖縄タイムス社・毎日新聞社など)は、9月19日午後3時から5時55分までの間、栃木県総合文化センターで「荒井退造生誕120年記念『島守』シンポジウム」を開催した。シンポジウムには、福田富一・栃木県知事のほか、映画「島守の塔」の主役である荒井退造(元沖縄県警察部長)と島田叡(元沖縄県知事)の顕彰に取り組む、栃木、沖縄、兵庫各県の関係者ら約400人(会場は収容人数1604人だか、コロナ禍のために参加制限)が参加した。

シンポジウムは、下記のプログラムで実施された。

◇沖縄の伝統芸能エイサー…演舞:栃木エイサーシンカ琉和

◇主催者挨拶…映画「島守の塔」製作委員会委員長・嘉数昇明

◇来賓挨拶…栃木県知事・福田富一、沖縄県野球連盟会長/映画「島守の塔」製作を応援する会沖縄共同代表・又吉民人

◇「3分で知る沖縄戦」上映…「琉球新報社」提供

◇荒井退造の生涯をたどる…解説:栃木県立博物館主任研究員・小柳真弓

◇基調講演「映画監督として生きてー映画『島守の塔』完成に向かって」…講師:映画「島守の塔」監督・五十嵐匠(4時12分から同43分)

◇トライアングルシンポジウム…元宇都宮高等学校長・斎藤宏夫、元沖縄県副知事・嘉数昇明、神戸新聞社執行役員経営企画局長・小野秀明、コーディネーターは作新学院大学女子短期大学部教授・西田直樹

◇「平和の詩」朗読…宇都宮高等学校演劇部のみなさん

◇閉会挨拶…映画「島守の塔」製作委員会副委員長/下野新聞社代表取締役社長・岸本卓也

発言内容については、配布されたパンフレットの中で取り上げている、嘉数昇明委員長と五十嵐監督の記述を紹介する。

○嘉数委員長

〈戦争の中継ぎ世代として〉

沖縄戦を体験した方々も残り少なくなってきた。私は昭和17年生まれで、2歳のときに大分へ疎開した。海を渡るわけで、いつ潜水艦に攻撃されるか分からない状態。行くも地獄、残るも地獄だった。島田さんや荒井さんは、こうした地へ本土から来られた。軍からの指令や要求を受け、学徒の名簿を軍に提出した際、島田さんは煩悶したのではないか。県政の責任者として『鉄の暴風』と形容される沖縄戦の真っ只中で、県民の命を救うため懸命に努力された島田さん、荒井さん、県庁職員の姿から、今に通じる公職にある人の生きざまを問うているのではないか。沖縄、兵庫、栃木の地元メディアを中心にスクラム組んだ映画製作の意義は大きく、地域に根差した目線であるからこそ、説得力も生まれると思う。ぜひ、たくさんの方にご覧いただきたい。戦争を知っている世代と知らない世代の中継ぎ世代として、そう強く思います。ー

○五十嵐監督

〈地上戦があった沖縄を舞台に、それぞれの生きる姿を描く〉

ー日本が総力戦へと突っ込んでいった沖縄戦末期、本土より派遣された2人の内務官僚がいた。兵庫県出身の知事・島田叡氏と栃木県出身の警察部長・荒井退造氏である。

学生野球の名プレーヤーとしてならした島田氏は、戦中最後の沖縄県知事として沖縄に赴任する。度重なる軍の命令に応えるべく内務官僚としての職務を全うしようとする。しかし、戦渦が激しくなるにつれ、自分が県政のトップとして軍の論理を優先し、住民保護とは相反する戦意高揚へと向かわせていることに苦悩する。そして多くの住民の犠牲を目の当たりにした島田氏は「県民の命を守ることこそが自らの使命である」と決意する。警察部長の荒井氏もまた島田氏と行動を共にし、職務を超え県民の命を守ろうと努力する。実は、沖縄戦で2人は、それぞれ重い十字架を背負っていた。島田知事が着任する前、荒井氏は沖縄を離れていた前知事の代わりに県民の疎開を必死に推し進めていた。その矢先、本土に向かっていた学童疎開船「対馬丸」を米軍の攻撃に遭わせてしまったのだ。そのため、数多くの子供達が犠牲となった。その船には自分が疎開をすすめた部下の家族も乗りあわせていたのである。島田氏は県政の責任者として軍の命令を受けて鉄血勤皇隊ひめゆり学徒隊として多くの青少年を戦場へと向かわせていた。2人はそんな十字架を背負いながらも、戦争末期、戦禍が激しくなる中、必死に県民の疎開に尽力し多くの沖縄県民を救っていった。

一億総玉砕が叫ばれる中、敗走しながらも、島田氏は叫んだ。「命どぅ宝、生き抜け!」と。

映画「島守の塔」は、第二次世界大戦の末期、長期にわたる日本国内唯一の地上戦があった沖縄を舞台に、軍の圧力に屈しながらも苦悩し県民の命を守り抜こうとした島田氏と荒井氏、そして沖縄戦で戦火に翻弄されながら必死に生きる沖縄県民、それぞれの生きる姿を描く映画とする。ー

このほか、五十嵐監督が基調講演の中で明らかにした苦悩を紹介する。

○今日の朝方、荒井退造さんの墓参りをしたが、その際に「きんぴらゴボウ」をご馳走になった。退造さんも「きんぴらゴボウ」が大好きであったが、確かにこの地域の「きんぴらゴボウ」は旨い。(吾輩も「きんぴらゴボウ」が大好き)

新型コロナウイルスで撮影を止めたが、私は今ここにいるべきではないのだ。これまで13本の映画を撮っているが、クランクインして撮影を止めたのは始めてだ。私は大きなお金が掛かっているので、せめて沖縄だけでも撮影できないかと考えたが、映画の主要な命題「命こそ宝」を無視して良いのかと随分と悩みました。

○具体的に述べると、3月24日に沖縄でクランクインしたが、スタッフの中から11人が倒れました。検査したところ、幸い新型コロナウイルスではなかったが、スタッフの中で意見が割れてしまった。

○島田役の萩原聖人を始めとした役者たちも、撮影再開後は全力でやりたいと言っているので、まだ役者や撮影スタッフは意欲を無くしていません。

○私は、皆さんに約束した以上、ここで投げ出すことはできません。それに応えて、今後百年、二百年経っても残る作品にしたい。再び来年3月24日から沖縄でクランクインし、再来年公開で動いています。

以上のような話を五十嵐監督から聴くと、推測していたことであるが、やはり撮影延期の影響で経費が膨らみ苦悩しているようだ。だから、脚本を書き直したりして、経費削減に努力しているという。その影響か、主催者4地方新聞社も「映画 島守の塔サポーター」の募集を始め、当然のことに吾輩も既に募集(1口1万円)に応じた。

また、ネットを見ると、栃木県は今回のシンポジウムに「栃木県の宝である荒井退造の顕彰を行うことで栃木県の新たな魅力を県内外に広めることができる。本事業で若い世代に戦争への理解を広めることができる」という理由で、86万円の助成金を出している。トライアングルに遅れてきた栃木県であり、退造を“栃木県の宝"と言っている以上、この映画に三千万円の補助金を出してもいいのではないか。それくらい、栃木県にとっては重要な映画と考えるからだ。

最後は、このシンポジウム開催の記録に残すため、翌20日付け「下野新聞」の記事を全文紹介する。見出しは「五十嵐監督ら退造の生きざま評価ー強い『責任感』たたえる」である。

ー映画「島守の塔」製作委員会による19日の荒井退造を顕彰する「『島守』シンポジウム」。五十嵐匠監督は「東京に戻れるのにあえて沖縄にと、退造の生きざまを評価した。討論でも戦後、沖縄に島田叡や退造らの慰霊塔「島守之塔」などが建立されたことを「2人が人間として評価されていたからこそ」とたたえる声が上がった。

五十嵐監督は講演で、退造が沖縄県外にいる家族に宛てた手紙を紹介し「退造さんは本当は沖縄から出たかった」とした上で、「中央の会議で東京に戻れる機会も何度かあったのに沖縄県庁に踏みとどまった。そこに退造さんのすごさ、責任感がある」と語った。

映画は3月にクランクイン後、新型コロナウイルスの感染拡大により撮影を中断した。2021年以降の撮影再開を目指している。

撮影中断を巡り「作品のテーマは、沖縄語で『命こそ宝』を意味する『命どぅ宝』。多くのスタッフの命を粗末にして撮影を続いていいのか、島田さんや退造さんならどうするかを考えた」と打ち明け、「紆余曲折があった映画ほど熱を帯びる」と再開へ意気込んだ。

沖縄県副知事で製作委の嘉数昇明委員長は討論で、1951年、糸満市に「島守之塔」が建立されたことを「2人が部下から人間として本物と評価されていたからこそのこと。極限状況の中で指揮を執ったことへの感謝の思いに裏打ちされた塔が建っている」と解説した。

パネリストで島田と同じ兵庫高卒の小野秀明神戸新聞社執行役員経営企画局長は「兵庫では中学生が道徳の副読本で島田について学んでいる」と現地の顕彰活動を紹介した。島田と退造について「互いに得がたいパートナーとして信頼し合っていた」と述べた。

元宇都宮高校長の斎藤宏夫さんは本県内の退造の顕彰活動を説明した。「2人の事を調べる中で、戦時下の沖縄が本当に厳しい状況だったと痛切に感じる。(沖縄戦を)多くの人に知識として知ってもらい、ぜひ沖縄に足を運んでほしい」と呼び掛けた。ー