陸上競技大好き人間として、東京・国立競技場で行われた20回目の「世界陸上競技選手権大会(世界陸上)」(9月13~21日)に関して、何らかの文章を作成したいと考えていた。書くとしたら内容が濃いものにしたいので、10月14日発売の月刊誌「陸上競技」まで待っていても良いかと考えたが、9月30日付「朝日新聞」の〝多事奏論″において、現在の陸上競技が抱えている問題点を的確に指摘しているので紹介することにした。
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織田裕二さんのほとばしる競技愛を浴び、視聴者として陸上の世界選手権を楽しんだ。余韻の残るうちに、長年モヤモヤしている陸上の話題を取り上げたい。
女子の100㍍、200㍍、400㍍、800㍍は世界記録の更新が1980年代で途絶えている。元号なら、「昭和」で時計が止まっている。
男子の同じ4種目はウサイン・ボルト(ジャマイカ)らが、すべて2009年以降に塗り替えているのに……。
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なぜ、女子の記録の方が停滞しているのか。疑われているのはドーピングだ。
旧東ドイツの国家ぐるみの不正を告発したドイツの分子生物学者、ウェルナー・フランケ氏を10前に取材した。彼が薬物汚染を暴いたのは90年のドイツ統一直後だ。旧東ドイツの科学アカデミーを評価するメンバーとして施設を巡り、ドーピングの極秘資料を手に入れた。
女子400㍍で47秒60の驚異的な世界記録を85年に出したマリタ・コッホ(当時東ドイツ)が「薬物を使用していた」との記述も、その資料にあった。
「コッホが世界記録を出した頃は検査技術が未熟で世界反ドーピング機関もなかった。今は49秒台を切るのも難しい」
あきらめ顔でつけ加えていた。「残念ながら80年代のドーピングは立証できない。再検査する検体が残っていないから」。女子100㍍、200㍍の世界記録保持者、フローレンス・ジョイナー(米国)は98年、38歳で急死した。急激な肉体改造と、短い期間の驚くべき記録短縮でドーピング疑惑が取りざたされた本人に真意を聞くことはかなわない。
フランケ氏は男子にもドーピングはあるものの、女子の方が男性ホルモン系の筋肉増強剤を投与したとき、劇的にパフォーマンスが向上すると言った。女子砲丸投げで欧州チャンピオンになった選手の衝撃的なケースを教えてくれた。「彼女はコーチの指示で多量の薬物を飲まされ、肉体が男性化した。性自認に不安が生まれ、のちに性別適合手術を受けた。今の名前は、アンドレアスだ」
「疑わしきは罰せず」。近代法の原則は尊重しなくてはならない。
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ただ、仮にドーピングに手を染めた「異常」な世界記録があるとしたら……。あとの世代は記録更新を現実的な目標として描きにくい。これは理不尽だ。
ロシアの「国家ぐるみ」のドーピングが批判を浴びていた17年、陸上界では検体が保存されていない04年以前の記録をすべて抹消する案が浮上した。提言をまとめた欧州陸連の当時の会長は「人々が信用できる記録でなければ意味がない」と力説した。かなり大胆な案で却下されたけれど、一考に値すると思えた。
わたしも考えた。80年代で世界記録の更新が止まっている女子短中距離の4種目については、距離を1㌢だけ伸ばし、たとえば100㍍走なら「100・01㍍走」という新種目にしたらどうか。スポーツ部の同僚に私案を披露したところ、賛同者はいなかったけれど。
そんな議論をしていた東京大会で、希望の光が差し込む種目があった。
26歳のシドニー・マクラフリンレブロ二(米国)が大会新記録の47秒78で制した女子400㍍だ。優勝タイムは40年前にコッホがマークした世界記録と0秒18差。歴代2位の速さだった。
国立競技場のトラックを駆け抜けた彼女のスプリントは、遠くない日の「世界新」への予感とともに、わたしの東京大会のハイライトとして刻まれた。
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これまで何回も、陸上競技のドーピングについて書いてきたので、吾輩の文書を読んできた賢人は、既に陸上競技の世界記録などの問題点を理解していると思う。そうです、素晴らしき陸上競技を旧ソ連・東欧諸国によって、歴代上位記録がめちゃくちゃにされたので、今更ながら怒りを抑えられないでいる。そういうことで、世界中の陸上関係者は、1980年代の世界記録をどのように扱うべきなのか、と今更ながら考察している現状にある。
ということで、今回の「世界陸上」の最優秀選手を挙げるとしたら、前述の記事でも取り上げている女子400㍍で優勝したシドニー・マクラフリンレブロ二を推挙したいと思う。それくらい今回の優勝記録が素晴らしいと同時に、400㍍障害の世界記録保持者が24年パリ五輪を制した同種目に続き、400㍍でも頂点に立ったので評価するのである。陸上競技をそれほど理解していない人は、最優秀選手は男子棒高跳びで6㍍30㌢の世界記録を樹立したアルマンド・デュプランティス(スウェーデン)を挙げると思うが、目の肥えた人はマクラフリンレブロ二を選ぶであろう。
陸上競技のドーピングに関して、「ソ連・東欧諸国」は国家ぐるみであったが、米国のフローレンス・ジョイナー(1959・12~98・9)の場合は、個人的な出来事・不正である。吾輩も今でもジョイナーを疑っているのは、88年開催のソウル五輪の前年の「第2回世界陸上」に出場した際、長く伸ばした爪に鮮やかなマニキュアをしただけの、それなりの短距離選手であった。ところが、ソウル五輪の年には体つきが激変し、7月の全米選手権で100㍍10秒49の世界新記録、そして9月のソウル五輪では200㍍21秒34の世界新記録と、今でも残っている驚異的な世界記録を立て続けて樹立した。それにも関わらず、あっさりとソウル五輪後に引退、そして98年にベットの上で吐いたものによって、呼吸困難になって亡くなったという。だから、今でもドーピングの影響で亡くなったのではないか、と疑われているのだ。
さらに女性選手に関しては、記録の伸び方を理解していれば理解できることがある。それは、男子選手は25歳くらいまではトレーニングを積めば、間違いなく記録は伸びるのに対し、女子選手は18歳くらいからピークを迎え、その後はあまり記録は伸びないのである。そのため、高校3年生当時の自己記録を、大学4年間で超えられなかったり、超えた時には社会人になっている場合がわりかし多いのである。つまり、女子選手は18歳からどんなにトレーニングを積んでも、それほど記録が伸びないにも関わらず、ジョイナー選手の場合は28歳になって急速に記録が伸びているので、世界中の陸上関係者は疑いの目を向けているのだ。
ちなみに、80年代の世界記録を並べてみると、
①女子800㍍…J・クラトフヴィロヴァ(チェコスロバキア)…83・7・26
②女子400㍍…М・コッホ(東ドイツ)…85・10・6
⑦女子100㍍…F・ジョイナー(米国)…88・7・16
⑧女子七種競技…J・カーシー(米国)…88・9・24
⑨女子200㍍…F・ジョイナー(米国)…88・9・29
➉女子4×400㍍リレー…ソ連…88・10・1
如何に80年代の世界記録が汚染・不正されているかが、おわかりいただけると思う。