大作家・吉村昭の題材の選び方

以前(2013年7月5日)にも書いたが、昭和17年5月26日に北海道湧別町で機雷が爆発し、町の警防団や見物人など112人が死亡した「湧別機雷事件」を、都内で開かれた“ふるさと会"で知ったことから、昭和54年の始め大作家・吉村昭に「事件のことを書いてほしい」旨の手紙を出した。これに対して、吉村昭から「現在執筆準備中のものを最後に、調べる小説を書くことを中断する予定です」旨のハガキ(昭和54年3月2日消印)がきたので断念、結局、元産経新聞記者・宇治芳雄が著書「汝はサロマ湖にて戦死せり」(昭和55年4月30日発行)として出版するに至った。しかしながらその後も、吉村昭に「書いてほしかった」という気持ちは切れなかった。

そうした中で、新刊書「吉村昭の人生作法ー仕事の流儀から最期の選択まで」(著者=作家・俳人の谷口桂子、中公新書ラクレ)を読んで、吉村昭が吾輩の依頼に応えてくれなかった原因の一端が分かった。題材の選び方が書かれているので紹介する。

いまだに現役作家のように読まれ続ける理由はどこにあるのか。

小説を書く以外に、この世に生きてきた意味はないと言う作家だけに、小説に関する戒律や習いとしていたことはいくつもある。それを辿っていくことで、理由の一端が垣間見えるかもしれない。

まず、題材の選び方である。

ー私は、編集者に素材を提供されて小説を書いたことは、ほとんどない。自分から探し出して書くのを習いとしていて、すすめられても心が動かされることは少く、手を出す気がしないのである。(「鯨が日本を開国させた」『史実を追う旅』)ー

黒部第三発電所の建設を描いた『高熱隧道』を発表したあと、「青函トンネルを書いてみませんか?」と編集者に言われても、とり合わなかった。同じトンネルでも、青函トンネルにはまったく関心がなかったからだ。

自分が興味を持っていることだけを書く、という信念があった。そのために小説の素材になるものはないかと、常にアンテナを張り巡らせていた。小説の題材にはならなくても、エッセイの素材になることもある。

(中略)

題材探しは自分でするのが原則だったが、出会った人から、おもしろい題材があるともちかけられることがあった。四度の脱獄を繰り返した無期懲役囚を描き、緒形拳ビートたけしの主演でテレビドラマ化されている『破獄』がその例だ。珍しい経験をした人がいると言われ、会って話をきいてみたが、小説として書こうという気は起きなかった。あまりにも話が劇的で、安直な読み物になるのを恐れたからだ。波乱万丈の物語でおもしろいではないか、という発想はない。

しかし捨ててしまうにはためらいがあった。自身の作品の中で、苦しみ抜いて書いた『羆嵐』を思い出した。北海道の開拓村で羆が入植者を襲った事件をもとにした小説だが、そのときも劇画になるのを恐れた。北海道の土の臭いが描ければ、興味本位の読み物に終わることはないと考えた。その「土」にあたるものは、脱獄犯の場合は何なのか。それを探し続け、無期懲役囚を監視している看守ではないか、と思いあたった。羆や脱獄犯では題材にならない。羆に対して土、脱獄犯に対して看守を描くのが、吉村昭の小説なのだ。

このような文面を読むと、なんとなく納得してしまうが、それでも吉村昭に書いてほしかった。

次は方言の扱い方であるが、出版した「汝はサロマ湖にて戦死せり」を読んだ北海道出身の知人が「北海道らしいイントネーションがないので、片田舎の雰囲気が出ていない」と指摘されたことがあった。これに関して、吉村昭の考え方が記述されている。

吉村の作品は、日本各地を舞台にしている。しかし、土地の言葉で書かれたものは一作もない。戦史小説にしろ、歴史小説にしろ、方言をつかわず標準語を用いている。

ー『戦艦武蔵』という小説を書いた時、艦が建造された地である長崎での方言を、なぜ採り入れなかったのか、と言われたことがある。

そんな恐ろしいことは、私にはできない。方言は、その地の土壌にはえる茸のようなもので、その土の上で生れ育った人しか使えない。一介の旅人である私が、どのように努力しても、駆使できるような代物ではない。(「小説の中の会話」『私の引出し』)ー

方言には底知れない奥深いものが潜んでいて、たとえ徹底的に調べて書いたとしても、その土地の人が読めば実態とはかけ離れていることが明白になる。まったくのお手上げ状態で、ためらうことなく標準語をつかっていた。恐ろしいことには手を出さない慎重さが功を奏したねだろうか。もし吉村の作品が方言で書かれていたら、今のように幅広い読者に迎えられていただろうか。時代を経ても古びないというのも、新たな読者を獲得している理由かもしれない。

なるほどと納得するものの、語尾を上げる北海道独特の「なまり言葉」や「イントネーション」などは捨てがたいものと考えるが、その辺はどうみるのか。

それでは昭和54年当時、吉村昭は何を書いていたのか。「吉村昭研究会」会長が作成した資料を見ると、「海も暮れきる」を連載中で、さらに12月には書き下ろしの「ポーツマスの旗」を出版している。このほかにも、60本近い短編小説などを書いていることを考えると、とてもでないが吾輩の期待に応える状況下になかったようだ。

それでも、吉村昭に書いてほしかったのは、機雷事件を扱った書物のほとんどが、どの国の機雷か、どのような形で流れてきたのか、当時のオホーツク海の戦時状況、そして湧別町周辺の歴史や戦時体制下での雰囲気などが書かれていないからだ。ですから吉村昭ならどのように書いて歴史に残してくれたのか、というふうに考えてしまうのだ。

実は機雷に関しては、昭和54年の夏休みに遠軽町自衛隊(第25普通科連隊)を訪ねて、担当者に名刺を渡して尋ねたことがある。ところが、何の成果もない上に、職場に戻ると上司の総括課長補佐から「遠軽自衛隊を訪ねたのか。先方から電話があった」というではないか。その時には、本当に“ずっこけ"そうになった記憶がある。

そういうことで、友人たちからは「機雷のことを知りたければ、自分で調べろ」と言われそうだが、兵器に詳しくないと理解できないものだ。でも、誰も深層に迫れないなら、誰かの手引きがあるのであれば、防衛省防衛研究所を訪ねてみたいものだ。