吉村昭の名著「三陸海岸大津波」は読むべし

吾輩は、東京・荒川区の「吉村昭記念文学館」友の会会員であるので、冊子などが不定期で郵送されてくる。11月18日に郵送されてきたのは、開催中(10月16日〜12月15日)の企画展「吉村昭東日本大震災〜未来へ伝えたい、震災の記録と人びとの声〜」の展示図録であった。

最初のページを捲ると、吉村昭の長男・司氏の文章が序文として掲載され、読んだ瞬間「全国の吉村昭ファンに、是非とも読んでもらいたい」と思った。そこで、「吉村昭研究会」会長・桑原文明氏の仲介で、司氏の了承を得たので紹介する。

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ー『三陸海岸津波』は警告するー 吉村司

 大津波が東北を襲った時、「千年に一度」「想定外」と盛んに報道されていたが、その都度私は違和感を覚えていた。

 何故なら海抜数十メートルを超える津波被害に、平成だけでなく東北は何度も見舞われた歴史を私は知っていたからだ。

 父は執筆中の作品を晩酌の時に家族に話すことが常であった。ある日、いつもと話しぶりが違う。中学生だった私には津波の知識はない。四十メートル?を超える津波が信じられず、何度も聞き返した。

 父が文壇に出た作品は「星への旅」(太宰治賞)で、それは岩手県田野畑村を舞台にしている。父は田野畑の風光明媚、人情の良さが気に入り、夏休みになると毎年のように家族や私の従姉妹達を連れて行ってくれた。

 当時、自宅には8㎜フィルムカメラがあった。旅先ではいつも私はカメラ担当で、田野畑のダイナミックな景観を撮影し、映写会で父は私の腕前を褒めたが、しかしその景観こそ、津波の被害を増幅してしまう地形であることを父は映像を見ながら解説した。

リアス式海岸では波が駆け上がる。」

 世界にも稀な東北の津波現象を私が理解した日だった。

 父の文学碑が田野畑村にあることは知っていたが、父が存命中に実物を見ていないことを後悔し、二〇一一年三月十九日、一泊の予定で村の宿・羅賀荘を予約した。しかし、その八日前に東北大震災が発生。羅賀荘に電話をしたが無論通じない。母も田野畑がどうなったか、気がかりで居ても立ってもいられず、ようやく役場の石原弘氏と連絡がとれた時、「これから行く」と言った。しかし作家など被災地には全く無力な存在で、来村は迷惑でしかないことを母は自覚し、田野畑の訪問実現は結果として翌年六月となった。

 私と甥、そして講談社の編集者である嶋田哲也氏、須田美音氏も同行してくださった。石原氏のお取計らいで避難所の取材をすることもでき、三陸鉄道島越駅にも行った。駅の二階には喫茶室と、父と母が寄付した書籍を自由に手に取れる図書室があったのだ。だが、跡形もない。残るは鉄道の高架橋の柱と宮沢賢治の詩碑のみであった。

 島越の住人で逃げ延びた人の証言によると、高架橋の上を漁船が流れていったという。石原氏は私達を、どこまで津波が到達したか、その場所を案内すると言って坂を登っていく。そこに立つと驚くしかない。海面は遥か下なのだ。

 東北各地には津波に関する石碑が約三百あるという。明治の大津波の際に建てられた石碑は亡くなった人々への供養の意味が強い。しかし昭和八年の津波以後に建てられた石碑は意味が変化した。これより下に家をつくってはならぬと「警告碑」となっているという。

 その一つが重茂半島にある石碑で、私は二〇一三年、営業再開となった羅賀荘を訪れる為、その道中に重茂を訪れた。

 車を降り、坂を下っていくと確かに石碑があった。明治二十九年と昭和八年の津波到達点を示していた。碑(いしぶみ)より下にあった集落は全滅したのだ。

 私は海岸まで行ってみようと思い、さらに坂を下った。五十メートル程下った時である。驚くべき石碑がまた建っていた。真新しいそれは3・11の「津波到達地点」なのだった。つまり、平成の津波は重茂半島においては明治・昭和の大津波より小規模だったということを示している。その事実に私はあっけにとられ、何度も書かれた文字を目で追ったことを昨日のことのように覚えている。

 千年に一度ではなく、想定外のことでもなく、地球のマントル対流とプレート運動が止まらない限り、津波は定期的にやってくる。過去の津波の被害の甚大さは生き証人が少なくなっており、津波の恐ろしさが語られることが日常的に行われなくなっていたことも原因だろう。

 今回私はこの寄稿にあたり、改めて「三陸海岸津波」を読んだ。父が取材を重ねたこの作品は、各地に残る警告碑のように大津波が再び到来すると予告している。父の全作品の中で唯一、人々の命を救うという「使命」を現在もなお、背負っていると感じている。

 「吉村昭東日本大震災〜未来へ伝えたい、災害の記録と人びとの声〜」企画展にあたり、これを寄稿する。

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吉村昭ファンであれば、東日本大震災によって福島第一原発炉心溶融事故を起こした時、東電幹部の「想定外」という言葉に嫌悪感を感じた筈だ。何故なら、吉村昭の著書「三陸海岸津波」を読んでいれば、あの程度の大津波は予想できたし、ましてや原発は十分な安全対策が取られている筈だ、と考えていたからだ。だから、なおさら吉村昭ファンは、東電幹部の発言に怒りを感じた。

そのように考えていた吉村昭ファンとして、司氏の文章を読んで、同じく「想定外」と盛んに報道されていたことについて“違和感を覚えていた"という記述は、非常に納得する部分である。それも日夜、父親の話しを聞いていれば、なおさらそのような想像力が膨らむのは、自然な帰結であろう。

名著「三陸海岸津波」が刊行(初版は中公新書で、1970 年に題名「海の壁 三陸沿岸大津波」として刊行)されて、もう半世紀という時を経ているが、今なお多くの人に読み継がれている。その理由として、吉村昭

津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している」

と記しているからだ。それに関しては、司氏も父親から何回も聞かされていたことが確認でき、その意味で司氏の文章は名著「三陸海岸津波」を補完していると言える。

ところで、覚えている人も多いと思うが、東日本大震災2年後の平成25年6月11日、平成天皇が都内の日暮里図書館にある「吉村昭コーナー」を訪ねた。当然、吾輩もその小さな「吉村昭コーナー」(10坪程度)を訪ねていたので、その報道に接した際には嬉しさのあまり、同日付けで「吉村昭」という題名で短い文章を作成した。読み返してみると、「天皇陛下は、吉村氏の作品を読んでいたのかと思い、嬉しくなった」と書いている。その時、平成天皇は「資料の継承は大切だ」との趣旨の発言があったと言う。

最後は、司氏の話しをしたい。初めて目にしたのは、「吉村昭研究会」が10月9日に令和3年度「第12回悠遠忌」を開催した時だ。この時、約20分間にわたって父親の興味深い話しをしてくれたので、プライバシーに触れる部分を除いて紹介する。

三菱電機に勤めていたが、最近定年退職した。つい最近までの1ヶ月間、車で東北と北海道を旅行してきた。

○元々、酒は飲めなかった。しかしコロナ禍になり、家で酒を飲むことが多くなり体調を崩した。父親の最後は、おそらく酒の影響から“膵臓ガン"で亡くなったので、健康には気をつけたい。

○最近、周りから「文章を書け」といわれることが多い。そういうことで、今は少しずつ書いていこうと考えている。

などと語った。

いずれにしても、近頃の日本では、首都直下地震日本海溝・千島海溝の巨大地震南海トラフ巨大地震などと、大規模な地震が起きるという観測がしきりに流れてくる。しかしながら、地震予知が不可能ということが判明した以上、我々はそれなりに“覚悟"を決めなければならない。その意味からも、吉村昭の名著「三陸海岸津波」は全国民必読の書であり、特に各地方公共団体職員には、いつまでも読み継がれなければならない。