吉村昭研究会と「吉村昭文学資料館」

2月10日に「吉村昭研究会」(会長・桑原文明)から季刊会報誌「吉村昭研究第53号」(72ページ)が郵送されてきた。その中で注目した読み物は、吉村昭の長男・司氏の「吉村昭文学資料館」の訪問記である。

日本一小さな文学館を訪ねるー吉村司

父の作品を研究する「吉村昭研究会」のことを私が知ったのは、会が作った父の目録を見た時だ。すべての作品と発表年月日が記されている辞典のごとき大型冊子で、一人の読者ファンが作ったことに驚いた。

父は読者から来た手紙に対して返事をまめに出していたが、研究会からの手紙に対しては特別な思いがあっただろう。なぜなら父が作品を発表すると研究会の会員の方々から、「史実に沿っていない箇所あり」と指摘を頂くこともあるからなのだ。

父の歴史小説は徹底した調査を元に執筆されており、編集者からは「調査魔」と言われる程であった。しかし、それでも数名の読者から父は指摘を受けていた。

その指摘に父は納得すると、次回増刷分より訂正させていただくと、手紙の返事を書いていた。私は指摘された父の誤記箇所を確認すると、それは些細なことで、歴史小説の使命とはなんら関係ないものに思えたが、しかし、そういうものではないのだ。読者と父との「絆」である。父は作品発表後も間違いを認めれば丹念にそれを訂正していた。

ある夕食の時である。「今回の作品に間違いなし」と手紙がきたよと、父は笑い、嬉しそうに私に報告した。

吉村昭研究会」から季刊会報誌や論文、資料などが続々と送られ、父は感嘆し声をあげた。母は自分の作品のファンにはないものを見てクレージーだと言った。

父が亡くなり会の会長、木村暢男氏が三鷹の自宅に訪ねてきた。氏は母に、父に対する思いの丈を語られた。母は木村氏を父の書斎に案内した。母はそこに残っていた生原稿数枚を木村氏に手渡した。私はその際の木村氏の表情を忘れない。

この夏、千葉の袖ケ浦市に父の資料館ができたことを私は知った。「日本一小さな文学資料館」と地元新聞に取材されたそれは、二代目会長の桑原文明氏が住まわれているアパートに作られていた。

六畳の空間に、父の自費出版本「青い骨」を始めとして、対談記事が収められた月刊誌など、父が関わった作品や他の作家本の推薦帯に至るまで展示されていた。

壁には桑原氏が作った作品年表が貼られていた。一九七一年に合計十三本の作品を並行で書いていたことが視覚的にわかる。もっとも多筆な時代、父は四十三歳。しかし、その後、作品の発表間隔が徐々に空いて来、そして二○○六年、二つの作品がプロットされて、年表はそこで終っている。

桑原氏の収集した資料は常軌を逸していた。父や母、瀬戸内寂聴が切磋琢磨した同人雑誌「赤繪」「Z」や、さらに母を驚かせたのは大学時代の「學習院文藝」さえ保管されていたのであった。母は呆気にとられた。

私は棚におびただしい大学ノート群が収まっているのを目に止めた。その一つを手に取る。「長英逃亡」とある。それは父の長編小説。開いてみるとそれは新聞連載の切り抜きだった。桑原氏は父が新聞連載をはじめるとその新聞を契約した。ノートには父が新聞連載した作品すべてが、整理され保管されているのだ。ノート一ページに二回分連載の切り抜きであった。

ポストに届けられる新聞に桑原氏はまず父の作品に目をやる。読後、愛しむようにそれは切り取られ、大学ノートに貼られていったのだろう。私は毎朝続けられる作家と読者のいとなみをそこに見た。私はタイムスリップを手にしている。私の目頭は熱くなった。桑原氏と父との歳月がそこにあった。

桑原氏が父の作品に触れたのは二十歳の時だと言う。奥様と宝くじが当たったら吉村昭記念館を建てようと夢を語り合った。奥様は他界され、御子息が住む袖ケ浦に引越され、アパートを借りられた。

「日本一小さい文学資料館」をこの八月にオープンした。桑原氏は住み込み館長。宝くじには当らなかったが奥様との夢は実現したのだ。

氏の調査によれば吉村昭の小説は三七一編だという。全部読んだのは日本人は私とあと一人だけでしょうと言った。

「私なんて全然読んでない、こんな人いない、クレージーよ」と母が言った。

氏は笑った。「私がクレージーなのではありません。この人がクレージーです」と父の写真を示した。

この文章は、桑原会長が昨年8月1日、千葉県袖ケ浦市に開設した「吉村昭文学資料館」を、昨年12月に吉村昭の妻・津村節子氏が長男・司氏と訪れた際の訪問記である。これを読むと、資料館の展示内容や雰囲気、そして桑原会長の人物像がよく分かる。吉村昭の長男ということで注目して読んだが、やはり読み応えがあった。

桑原会長は、約30年過ごした愛媛県西条市に2002年「吉村昭資料室」を開設、吉村昭が亡くなった翌07年には本文で触れた木村氏(初代会長)と「吉村昭研究会」を立ち上げた。さらに、08年には季刊の会報「吉村昭研究」の発行を始め、翌09年からは、吉村昭の命日の7月31日前後に毎年追悼イベント「悠遠(ゆうえん)忌」を東京・荒川区で開催している。その歴史を知ると、吾輩は2年半前からの会報誌の定期購読者であるので、まだまだ新参者であるのだ。

というものの、昨年夏には「吉村昭研究会」の総会を覗くことができた。総会というので、参加者はそれなりの人数かと思ったが7人ほどで、参加者から「会員と会報誌の定期購読者を増やすことが重要だ」という意見が出ていた。ちなみに、会員は35人ほどで、会報誌は定期購読者を含めて50人ほどという。

だから最後は、季刊会報誌「吉村昭研究」(年4回発行、一部五百円)のご案内です。吾輩的には以前から、この冊子は中高校の国語と社会科の教師に購読してほしいと思っていた。それ以外の人たちでも、近代日本の歴史に関心があれば、絶対に参考になると思う。書き手は、本当に吉村昭のことをよく知っているし、また若い時分には小説家志望だった方々が多いので、文章の構成が簡潔で奥深いのだ。連絡先は、ネットを見れば分かるので書かないが、少しでも吉村昭ファンを開拓するために、会報誌の宣伝をしてみました。

※桑原会長に対して、事前に本文を送付したところ、次のような指摘があった。

ー作られた文章中の数字が、洋数字に変換されています。原文は出来る限り変更しないのが礼儀だと思います。横書きで漢数字もありだと思います。ー

要するに、これまで吉村昭作品などをネットに掲載する場合、全て漢数字を横書きに変換してきた。例えば、二十一周年→21周年、という風に変換してきたが、新聞や雑誌ならいざ知らず、文学作品では許されないようだ。よって今後、文学作品は全て漢数字はそのまま引用することにした。これも勉強です。