平等という名の全体主義

前回(2月16日)「言論の自由をないがしろにするな!」という文章を作成したが、その後「産経新聞」(2月19日付け)が吾輩が危惧していたことを書いてくれた。それでは、連載記事「モンテーニュとの対話」(95)の中の見出し「平等という名の全体主義」であるが、紙幅の関係で後半だけ紹介する。

ーおめでたすぎる森さん叩きー

それにしても本当に嫌な感じだ。森さんが「女性蔑視」と指摘された軽口を謝罪し、いったんそれでよしとしていた国際オリンピック委員会(IOC)が突然手のひらを返し、森さんの会長辞任が妥当だとした。スポーツジャーナリストの二宮清純さんは、IOCに多大な放映権料を支払う米国のテレビ局NBCが公式サイトに「東京五輪のトップである森会長は大阪なおみから性差別に関して非難を受けた。彼は去らねばならない」と題したオピニオン記事をアップしたことが決定的だったと指摘する。

結局はカネなのだ。以前から指摘されていることだが、カネの力で右往左往するIOCという組織の実態がより明らかになった。IOCがどんな美しい理念を語ろうとも、私の心にはけっして響くことはないだろう。五輪は、最高レベルのスポーツイベントとして、かつ国威発揚の場として楽しめればそれでよい。

もうひとつ、日本を代表するグローバル企業が「沈黙は森さんの発言を是認することになる」として、森発言を批判するコメントを発表した。海外市場を守るためとはいえ、判で押したようなコメントを発表せざるをえないトップが本当に気の毒になった。余計なお世話か。

それよりも何よりも気がかりなのは、この世界が「平等」を神にいただく全体主義に傾きつつあるように感じられることだ。民主主義の定着した先進国において「差別を許さない」と叫べば、大半の敵を撃破することができる。「平等」こそが最強の武器なのだ。

森さんの発言に抗議する意志を示そうと、白いスーツを着用して国会審議に臨んだ女性議員たちを見て、戦時中「ぜいたくは敵だ」と叫んで街頭活動をした国防婦人会の割烹着姿の女性たちを連想してしまった。不寛容な全体主義の足音が聞こえてこないだろうか。誤解を恐れずに言えば、「平等」を過度に追求すれば、その先にあるのは共産主義だろう。

ここでひさしぶりにモンテーニュに登場してもらおう。第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」にこんな言葉がある。

《人が新しい論拠をもってわたしを追いつめるとき、わたしの方ではこう考える。「わたしは今それに返答ができないけれども、やがて誰かがそれに答えてくれるであろう」と。まったく、我々が言い破ることのできないすべての真らしいことを信ずるのは、あまりにおめでたすぎる》

現代の常識では、「急進的平等主義」とカネこそが「真」なのかもしれない。だが、この世界に絶対などない。時間がたてばそれが「誤り」になる可能性はいくらでもある。だからこそ、社会改革は、伝統を踏まえながら、すなわち古い価値観を持った人間の意見を「老害」と排除することなく、しっかりと受け止めながら、ゆったりと進めてゆく以外に道はないはずだ。森さん叩きに興じる人々は、あまりにもおめでたすぎる。そして危険だ。

モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。

なんだか、昔の「マルクス・レーニン主義」を批判する文章になっているが、そうするのは「森発言」以後の動きを見ると、どうしても「共産主義」に反対する思考で批判せざるを得ないのだ。つまり、共産主義者が唱えていた「平等」と、今の左翼メディアや女性活動家が唱えている「男女平等」(その中に多様性があるが)は、同じような思考に陥っている面があるからだ。

ところで、吾輩の文章が結果的に「森発言」を弁護することになるが、何も森喜朗(以下、敬称略)が好きなわけではない。友人の一人に聞けば解るが、以前から森を批判していたので「あれほど森を馬鹿にしていた人物は、友人の中にいない」というはずだ。そもそも、森はマスコミからも「愚かさ」が指摘されていたし、さして“宰相の器ではない"と考えていたからだ。

話を戻すと、日本国憲法には「男女平等」(第24条)が唱われているが、世界の国々の中で「男女平等」を謳っているのは日本だけという。そもそも日本国憲法は、日本を占領していた連合国軍総司令部(GHQ)の中で左翼的な人たちが多い民政局のスタッフが、マッカーサー元帥の命で10日間(昭和21年2月)ほどで作成したものである。特に「男女平等」の憲法草案を作成したのが、当時22歳の女性(ベアテ・シロタ・ゴードン)であるというのだから驚いてしまう。

吾輩が「共産主義」思想を批判する時、どうしても昔の職場でのある先輩の言葉「水清ければ魚棲まず」を思い出してしまう。ネットでその意味を紹介すると、

ー水の中に住む魚は、あまりにも水がきれいすぎると、えさもないし、隠れる場所もないため、魚が住みつかない、ということから生まれたことわざです。非常に、まじめ過ぎすると、人が近くに寄りつかず、友だちがいなくなってしまう、ということのようです。世の中を生きてゆくには、ある程度のいいかげんさも必要である、ということのようです。ー

要するに、人間も多少汚れていたほうがいいのであって、あまりにも清潔な社会を目指すと、その反動(革命後の粛清や個人のアレルギー症状)が起きるということだ。しかしながら、この言葉通りに、出世したりカネ儲を実現した“いい加減な男"を見ると、むしょうに腹が立ってくるが…。いずれにしても、多くの女性は真面目(吾輩も同じ)であるので、どうしても「平等」が正しいと考えると、その方向に動いてしまう。だが、前述の“ことわざ"を思い出して貰うと、この世の中は理想通りには行かないのだ。だから、女性活動家たちは「森発言」に反発して署名活動を行うのではなく、新型コロナウイルスの影響により、パートやアルバイトなどで働く非正規雇用の女性を精一杯支えてほしいと思うのだ。

吾輩は最近、中国政府による少数民族ウイグル人への人権弾圧の惨状を告発した漫画本「命がけの証言」(著者=清水ともみ、2021年1月30日初版発行)を読了した。既に米国政府(ポンペオ国務長官=当時)は1月19日、中国政府のウイグル人に対して「ジェノサイド(民族大量虐殺)」を行っていると正式に認定し、さらに欧米諸国の中から来年2月開催予定の北京冬季五輪に対して、ボイコットや開催地変更を求める声が出ている。この怒りは、「森発言」とは比較することもできない重大な五輪憲章違反行為である以上、前述の「おめでたすぎる森さん叩き」という副題には納得するのだ。