新型コロナウイルスの世界的大流行の中、1年の延期を経て開催された「20年・東京五輪」が、8月8日に無事閉幕したので、スポーツ好きの吾輩としては安堵感で一杯だ。しかしながら、東京五輪開催を巡って、国際オリンピック委員会(IOC)の商業化のベールがはがされたことで、五輪を冷静な目で見ることができた。
まず最初は、東京五輪開催の賛否であるが、当然のごとく「開催して良かった」と考えている。吾輩は医者でもないし、ましてや感染症に詳しいわけでもないので、東京五輪開催の有無に関しては、これまで触れないようにしてきた。だが、本心は東京五輪は東京都が中心になり誘致した以上、誘致国として開催に努力することは当然のことで、最後まで諦めるべきではないと考えてきた。そして今では、金メダル9個のカール・ルイスを始め、外国の選手たちから「それにしても日本はよく五輪を開催してくれた」という賛辞が寄せられている。
さて、今回の五輪開催のテーマは「多様性と調和」を理念とするやらで、やたら「ジェンダー平等」とか、「LGBTQ」(性的少数者)とか、「ノンバイナリー」とか、「トランスジェンダー」とかいう、あまり聞き慣れないカタカナ言葉が飛び交った。吾輩は、これまで素晴らしい肉体の持ち主が、人間の限界に挑戦(特に陸上と競泳)する姿に感動してきたが、最近は男女平等とかで、男子種目を減らして、運動能力が男子の15歳と同じ女子選手の種目を増加させている。吾輩は半世紀にわたって、陸上競技を見てきたので、男女間の運動能力の違いは十分に理解している。
そこで、まずは「産経新聞」(8月1日付け)に掲載された“新聞に喝!"「『女性の権利』に垣間見る朝日の思惑」(イスラム思想研究者・飯山陽)から紹介する。
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開催中の東京五輪の話題のひとつは、五輪史上で初めてトランスジェンダー女性の出場が認められたことだ。ニュージーランドの重量挙げ選手、ローレル・ハバード(43)がその人である。
朝日新聞デジタルは6月13日、「ジェンダー平等の意味や自分らしく生きることの価値について議論が広がりそう」とこの決定を称賛。さらに、「トランスジェンダー女性が競技上有利という科学的根拠は、既存の研究を網羅した分析で見つかっておらず」と公正さを強調したが、これには異論がある。
スポーツ科学省のロス・タッカー氏は数年前から科学的根拠に立脚し、男性ホルモンのテストステロン治療を受けた後でも、トランス女性は生物学的女性よりパフォーマンス面で大きな優位性を保っていると指摘している。テストステロン値が一定以下ならば女性競技への出場を認めるという、五輪ガイドラインに対する反論だ。
6月22日には英紙タイムズにその旨を寄稿してもいる。タッカー氏は、スポーツは人権でありトランス女性にもその権利は保障されねばならないが、「包括性」を優先させてトランス女性に女性競技への出場を認めることは、生物学的女性の「公平性」を犠牲にすることになると警鐘を鳴らす。
そもそもこれまでなぜスポーツ競技が男女別で行われてきたかというと、男女間の生物学的な違いが大きいからである。男性は女性と比べて、スピードに関しては平均して10%、筋力やパワーに関しては20〜30%有利であり、競技を男女別にしない限り、特にエリートレベルのスポーツにおいては女性の勝利の可能性は失われるとタッカー氏は述べる。
今でこそ女子スポーツは世界的に認められる存在となったが、ここに至るまでには女性たちの長く厳しい闘いがあった。トランス女性の権利のために、女性の活躍の場や機会、公平性や安全性が失われるようなことはあってはならない。
日頃、女性の権利についてやかましい朝日新聞が、トランス女性がからむ問題においては女性の権利をいとも簡単に退けるのは異常である。トランス、女性、男性という「階級」を生み出し、この順番で優先されねばならないという「序列」を押し付け、社会を分断し混乱させようとする、朝日の思惑が垣間見える。
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この文章で「トランスジェンダー女性」に関しては勉強になったが、これ以上に気になったのが、男性は「スポーツに関しては平均して10%、筋力やパワーに関しては20〜30%有利であり」という文面である。吾輩は、これまでにも男女間の運動能力について、「走力は1割、投力と筋力は3〜4割、女性は男性に劣る」と記してきたので、その事実に当てはめると、飯山氏は随分と女性の運動能力を高く見ている、と感じたのだ。
例えば、ウエイトリフティングの最重量級では、男子選手はジャークで250㌔、女子選手は150㌔を挙げる。つまり、女子選手は男子選手の6割の重量しか挙げられない。
さらに、陸上競技の砲丸投げでは、男子選手は7・26㌔、女子選手は4㌔の重さの砲丸を使用するので、女子選手の砲丸は男子の約55%の重さしかない。それでも、21世紀(20世紀末の記録はドーピングで参考にならない)の五輪では、男子選手は22㍍、女子選手は20㍍を投げると金メダルに到達する。つまり、女子選手は男子選手の約半分の重量でも、男子選手の記録を上回れないのが現実である。
ここで注目することは、近代オリンピックが始まった125年前、女子の砲丸の重量を男子の約55%にしたことだ。つまり、当時の陸上関係者は、女子の筋力不足を男子の「4割減」以上と認識していたと言える。
ということで、体力や筋肉量など身体能力に差がある女子の競技種目を、男子の競技種目を削減してまで増やすことに疑問も感じている。特に、男子は10階級程度に分かれていた格闘技系では、今大会でウエイトリフティングが男女共に7階級、レスリングは男子のフリースタイル、グレコローマン、女子のフリースタイルは共に6階級、柔道は男女共に7階級、ボクシングは男子は8階級、女子は5階級であるが、次のパリ五輪では男女とも同じ階級数にするという。
そもそも男子の格闘技には、それなりの歴史があるし、競技人口や普及度も大きい。そのような実態を考えると、どうして男女が同じ階級数にしなければならないのか。女子の柔道を見るとわかるが、筋力不足のために豪快な投げ技はなく、すぐ“掛け逃があってもげ"のような試合になる。その一方で、アーティスティックスイミングや新体操は、女子のみの種目である。それに対して、男性がクレームをつけたという話を聞いたことがないし、吾輩的には男子の競技があっても見たくもない。
夏季五輪で追加された女子競技を見ていくと、76年バスケットボール、80年ホッケー、84年自転車、88年セーリング、92年柔道、96年サッカー、2000年ウエイトリフティング、04年レスリング、12年ボクシングとなる。そんな感じで女子の競技種目を増やしてきたので、吾輩的にはウエイトリフティングが追加された頃から、どうしたものかと見ていた。その結果、64年東京五輪大会では全5151選手のうち女子は678人(全体の13・2%)であったが、今回の東京五輪では女子選手の比率は過去最高の48・8%(日本選手団583人のうち女子は277人)まで高まり、ますます五輪の肥大化(今大会は33競技・339種目、約1万1千人参加)に至っている。その原因を突き詰めると、IOCの“カネ、カネ"の商業主義に行き着くのだ。
そもそも、近代オリンピックの創設者・クーベルタン男爵などは、本物の“欧州貴族"で、自腹で近代オリンピックを開催してきた。ところが、現在のIOC会長トーマス・バッハなどは、米ワシントン・ポスト紙に「開催国を搾取するぼったくり男爵」と批判されるなど、ほかのIOC役員を含めて“エセ貴族"“五輪貴族"と呼ばれる者たちだ。そして、元世界陸連会長などは不正蓄財で追放されているし、そのほかの競技団体役員からも“カネにまつわる噂"が絶えない。
IOCの財政実態を取り上げると、総収入は約6270億円(放送権収入は73%で約4573億円、スポンサー収入は約1103億円、その他は約594億円)であるが、IOCの収入の約7割は放送権料が占め、そのうち約半分を北米向け(米国のNBCが約51%の約2331億円)が占めている。そのため、巨額な放映権料を支払う、米NBCの意向を無視できず、競泳競技は米国のゴールデンタイムに合わせて、決勝は午前中になった。また、五輪開催時期は、次期パリ大会も東京五輪と同じく、最も暑い7〜8月に開催せざる事態に至っている。もう、ここまでくれば「選手ファースト」とは言えない事態で、まさに商業主義が行き着くところまで行ったという感じだ。1984年のロサンゼルス大会以後の商業化が、曲がり角に来ていることは間違い。
また、若者に人気があるということで、今大会で初めてスケートボートが採用されたが、女子パーク決勝には、8人が出場し、平均年齢は17歳という。そして金メダルは14歳というが、果たしてこの年代をアスリートと呼んでよいのか、考えてしまう。真面目にスポーツを見てきた吾輩には、いささか疑問に感じるものである。
ということで、まさしくIOCはポピュリズム(大衆迎合主義)の固まりと言える。こんな調子では、古代オリンピックは、1100年(紀元前8世紀から紀元後の4世紀にかけて計293回)にわたって開かれたが、近代オリンピックはあと数回で終わるのではないか、と感じている。若者たちからは、旧世代の愚痴に聞こえるかもしれないが、やはりスポーツは“人間の限界に挑戦"するから感動するのであって、だから吾輩的には陸上競技、競泳、体操、ウエイトリフティング、レスリング、柔道、ボクシング、そして数種目の団体球技が、五輪競技に入っていれば良いと考えるのだ。