中曽根元首相の歴史的な位置付け

中曽根康弘元首相が、11月29日に亡くなった。思い起こせば、吾輩の最も好きな首相だった。その理由は、立派な“国家観"や“歴史観"を持っていたことと、国語力が優れていたからだ。そのため、国語力がない吾輩には、一言一言が非常に勉強になった。

だから、大平首相の急死後に、次の総理・総裁に大平派の番頭・鈴木善幸に決定(1980年7月)した際には、自室の畳を大きく叩いて「なぜ、中曽根でないのだ」と叫んだものだ。鈴木善幸は首相に就任し、1981年5月にレーガン米大統領との首脳会談後の共同声明で日米の関係を「同盟関係」と初めて明記したことに関し、「(同盟は)軍事的意味合いは持っていない」と発言した。その後、メディアは「鈴木首相は、同盟の意味が理解できない」と批判したが、吾輩も「この程度の人物が首相になっているのか」と思い、ガッカリしたことを覚えている。

さらに鈴木善幸で思い出すのは、メディアが善幸本人をバカにするので、ある時マスコミ陣に囲まれた際に「僕は昔、“天才少年"と言われてねぇ」と発した。このテレビ映像を見た時、「この程度のことでしか、自分をアピールできないのか」と感じたものだ。

このほか、鈴木善幸が首相に就任したことで、その後の“首相レベルが低下"したと感じている。当時、メディアは、多くの代議士が「あの善幸が首相が務まるのであれば、私がなってもおかしくない」と考え始めた、と笑えない記事を掲載した。つまり、今に繋がる“首相のレベル低下"は、鈴木善幸の首相就任から始まったのだ。

その笑えない話しは、今もある。例えば、吾輩の居住地を選挙区にしている元国務大臣桜田義孝が「今後は総理大臣を目指さないで、より地元のために汗を流す」旨の発言を地元の新聞が掲載した。この発言を知った時には「バカも休み休み言え」と思った。要は、世界的に有名になった桜田程度の人物が「総理大臣を目指す」という、恥ずかしくなる発言も、その原点は“鈴木善幸にある"と言えるからだ。

中曽根首相の話しに戻すが、そのような前任者のために日米関係が冷え切った中で首相を引き継いだ。中曽根首相は、東西冷戦の緊張がピークに達した1980年代に、レーガンと同じ想いで反共主義を鮮明にして、旧ソ連邦の崩壊に結びつけた。その意味で、米国を始め、自由と人権を重要視している民主主義国家から高く評価されるのは当然のことだ。

その一方で、いろんな人から、中曽根氏に対する批判も聞く。しかしながら、政治家である以上、支持者の信頼を多少裏切ることもあるハズだ。だから、吾輩の支持率は“90%"だ。

最後は、いつもの手法と違うが、12月3日付けの「産経新聞」の記事を紹介する。発言者は、中曽根首相の元秘書・長谷川和年(元外務省アジア局長、元駐豪大使)で、記事の題名は「中曽根氏を悼む」というものである。

〈果敢な外交 日本を現代化〉

内閣発足の翌日(昭和57年11月28日)、中曽根康弘さんは、外務省から招集された私など秘書官らを前にこう言われました。

「君たちは船の主要な乗務員だ。自分が船長だ。一緒に内外の懸案に向き合っていこう」

ー親書の原文取り寄せー

中曽根さんは、日本を国際政治における主要なプレイヤーに押し上げ、世界の中での日本の存在感を示してくれた政治家でした。いわば日本の現代化に功績を残したといえます。それを成し遂げたのは、外交をトップダウンで進める「官邸主導」と、相手国首脳の心に入っていく「首脳外交」を果敢に展開したからでしょう。

それまでの政権は、外務省の考える通りの外交だったといえます。たとえば、各国の首脳から首相宛ての親書が届くと、外務省が日本語訳を付けた写しと返書の文面まで用意して首相に渡すのが当たり前でした。

当時のレーガン米大統領からの親書もそうでした。中曽根さんは「おれは英語で読む」と原本を取り寄せ、「おれが言うとおりに返事を書いてくれ」と言って、自分の考えを入れた返書を私に書かせました。

中曽根さんのようなやり方には外務省内で非常に反感がありました。しかし、中曽根さんが実績を挙げていくにつれて反感もなくなっていきました。

ー韓国語スピーチ練習ー

私も、官邸と外務省の間でずいぶん苦労しましたが、「国家のため」と割り切って仕事をしました。最初から中曽根さんに非常に感銘を受けていましたから、その方の下で働くのは大きな喜びでしたね。

中曽根さんが首相として最初の訪問国に韓国を選んだのは日韓関係が悪かったということもありますが、中曽根さん自身が戦争を経験していますから、アジア外交を重視したい気持ちがあったのだと思います。

58年1月、訪韓した中曽根さんは全斗煥大統領主催の晩餐会でスピーチの4割近くを韓国語で話し、会場では涙を流す人もいました。外務省職員にしゃべらせた韓国語の録音テープを何度も聞いて練習していたんですよ。

その後、両首脳は青瓦台(大統領府)の部屋に場を移して深夜まで酒を酌み交わしました。中曽根さんが韓国の歌「黄色いシャツを着た男」を韓国語で、全氏は日本の歌をそれぞれ歌い、2人は抱き合うと、全氏がこう言いました。

「ナカソネサン、オレ、アンタニホレタヨ」

ちゃんとした日本語の教育を受けていないからそういう言い方になったのでしょうが、2人が親密になった瞬間だと思いました。

中曽根流の首脳外交は、「ロン」「ヤス」とファーストネームで呼び合う関係になったレーガン氏でも、相互訪問を行った中国共産党胡耀邦総書記でもそうでしたね。

昨年5月、親しい人18人による100歳の誕生会を開いたら、中曽根さんは非常に喜んでくれて、自身が作詞した「憲法改正の歌」や、フランス語でシャンソンを元気に歌ってくれましたよ。日本の将来を見据えてきた巨大な政治家が亡くなり、まさに「巨星墜つ」です。

いい話しではないですか。吾輩は、中曽根首相から誉められたことが一度あるが、それは「日中関係の資料」に対してだ。それを読んだ中曽根首相が「よくまとめている」という言葉で、それは課長から聞いた。その程度であるが、吾輩にとっては嬉しい思い出だ。