稚内から網走までの探訪記

昨年5月、シリーズ本「でんすけ5」の写真撮影を目的に、「吉村昭研究会」会長・桑原文明氏と北海道をほぼ一周する旅行(フェリー2泊、札幌・稚内・滝上・網走・根室・釧路各泊)を敢行した。その際、同人に対し「年4回発行の冊子『吉村昭研究』に、今回の北海道旅行を書いて下さい」とお願い、ついに8月15日に郵送されてきた「吉村昭研究第63号」に、吾輩と最も関係が深い遠軽町滝上町での探訪記が掲載された。

北海道探訪記(四)ー北方領土問題

国道を一路北へ。ひたすら走る。ほとんど真北へ疾走する。日本最北のJR稚内駅に着く。

JR稚内と言うよりは国鉄稚内と言うべきか。板に付いたカマボコを縦半分に切った左側の様な半円形のドームが見える。私にはそれが何を意味するのか分からなかった。稚内樺太を結ぶ稚狛(ちはく)連絡船の、乗り換え通路として利用されてきたと言う。この「北防波堤ドーム」(北海道遺産)に入った列車は、数十メートル歩けば船に乗れる。寒さ・風雪・波を防ぐドーム。青函連絡船宇高連絡船と同じく国鉄の施設だったのだ。青函連絡船宇高連絡船の話は今でも時々耳にするが、終戦と共に廃止されてしまった稚狛連絡船は、こうして歴史の一部になっていた。

幼い頃の横綱大鵬は、樺太から家族と共に船に乗り、稚内で下船した。この船は多くの乗船客を乗せて更に小樽に向う途中、ソ連軍の潜水艦に攻撃され、殆どの乗員が死亡した。稚内で下船しなければ、「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた戦後史は存在しない。

首都圏の人間にとって、北方問題はどこか他人事であるが、北海道、特に北部・東部の人たちにはごく身近な問題であることを、現地に来て肌で感じる。施設・ポスター・チラシ・標語等々で語られる北方領土問題は私の心を刺す。これらは、あるいは地元民をも鼓舞する為に語られているのかも知れない。

稚内グランドホテルに荷物を置くと、同行のT氏は余り酒は飲まないので一人外に出る。地元名産と言うよりも、安価で飲めれば私は満足する。

翌朝、五時ホテル発。六時からは、無料のホテルの朝食が取れるのだが、時間がない。行き当たりバッタリに、コンビニでお握り等を買い、車内でかじる。

稚内空港を通り越して、宗谷岬に向う。納沙布岬より、宗谷岬がより北方に位置しているのを知る。

稚内・釧路・函館・新千歳・旭川・帯広・中標津女満別紋別・千歳・札幌」。何のことか分かるだろうか?北海道の空港名である。これに離島の奥尻・利尻・礼文の三空港が加わって、総計十四空港。いかに北海道が広いのかが分かる。

午前中、ただひたすらに南東に走る。吉村氏は、かつて名寄市枝幸町と二日続けて講演をした。その理由とは。「名寄市の図書館長からお手紙をいただ」き、「心のこもったまことによい文章で、思い切って出掛ける気にな」る。「枝幸町の菅野熙氏」「は私財を投げうって書籍を買い求め、町の方たちに読んでもらう」との話を聞いて、枝幸でも講演する。「樺太から枝幸町に逃げてきた人」から「体験談をきき」「『脱出』という題で文芸誌『新潮』に発表され」「単行本として新潮社から出版される」。引用は同人雑誌「文芸えさし」創刊号(S59・3・31)に寄稿した「小説の誕生」から。

名寄市から枝幸町へは、車で迎えに来てもらったが、帰りは別な用事で寄る所があり、送ってあげます、との提案を断って、これは私の仕事だから、とタクシー代三万数千円の距離を走る。割り切った、いかにも吉村先生らしい美学である。

この日と翌日は遠軽町出身の同行者T氏の地元であり、様々な場所を案内され、頭が混乱した。あるいは不正確な記述があるかもしれない。例えば遠軽町は私はトオガルと発語してT氏から注意を受けた。正しくはエンガルである。

前々号(第六十一号)で紹介した湧別機雷事件碑を見る。ドラム缶三つ分位の巨大な機雷が誤爆し、死者百十ニ人とほぼ同数の負傷者が出た。『湧別町百年史』(S57年、第一法規出版)には、T氏の尽力で刊行された『汝はサロマ湖にて戦死せり』(S55年、龍渓書舎)が紹介されている。そこには「冊子」と書かれている。間違いではないが、「冊子」と表現するよりも、堂々とした立派な単行本である。

地元のチューリップ公園では、丁度チューリップフェアが開かれていた。人口八千人ほどの小さな町だが、続々と人が集まって来る。いかにも北海道の春らしく、心が満たされる。こうなると昼食は屋台のヤキソバである。

遠軽町に着くと、「瞰望岩」への登頂を目指す。高さ50〜60メートルもある大岩が町の真中に突き出ている。下から見ると映画にでも出てきそうな眺望。頂上からは町を一望出来るのだが、柵もなく落ちそうで怖い。

吹奏楽が盛んな町」を売り物にしているだけに、六百六席の音楽ホールが建設中であった。もう殆ど出来上がっていて、三カ月後に完成予定で内部を見学させてもらった。人口ニ万足らずの町にとって、立派過ぎるほどの施設である。

同行のT氏は、吹奏楽に造詣が深く、人脈も持っている。遠軽高校吹奏楽部も見学したが、実に多くのトロフィー・カップ・表彰状が部室一杯に置かれていた。T氏は物心両面の応援・援助をしておられるのだが、私は全く知識がなく、ある楽器の値段を聞いただけで、危うく腰を抜かすところであった。T氏は吹奏楽部の外局や、野球部のグランド・寮などを見学撮影して大忙しであった。

滝上町(遠軽町の隣り)の「小檜山博文学館」を見学。吉村氏との交流はないが、津島佑子立松和平中上健次三田誠広、中平まみ、田中康夫ら各氏と交友があったようだ。

この日は滝上町泊りで、晩は町長、町職員、T氏、私の四人。大きな毛蟹が出る。船盛り料理は、小さな子供なら乗ってそのまま池に浮ぶ程である。地元海産物と美酒を堪能させて頂いた。

翌朝はホテルでの朝食。北海道滞在中、最初にして最後のホテルでの朝食であった。この朝以外は全て車中での握り飯であった。陽射しも暖かく、ゆったりとした朝だった。

「芝ざくら滝上公園」に行く。山一面の芝桜は圧巻である。長年の連作の為か、所々が欠けているのは残念。私は以前からこの公園の芝桜の事は知っていた。と言うのは、町ではこの芝桜の開花予想日を公募していた。商品か、賞金か、北海道旅行かは忘れてしまったが、悪くない景品で、何年か続けて応募していた。結局は当選しなかったが頭には残っていた。

「陽殖園」は高橋武市さんが一人で運営している植物園。四月末から九月末まで、水仙ツツジ、バラ、クマガイソウ、ダイマツソウ、フロックス、ハギ等々が、次々に花開くと言う。池もある広大な(8ヘクタール)園内は、所々に作業途中の現場が見られる。高橋さんは八十歳を超えたので、真剣に後継者を探していると言う。入園時に「熊鈴」を渡された。腰に付けろと言う。その時になって初めて、羆との遭遇が話ではなく、現実なのだと思い知らされた。

遠軽町の役場に戻ると、T氏は、瞰望岩を描いた大きな油絵を町に寄贈した。教育委員会の方に対応して頂いたのだが、地元に縁のない私には話の内容はピンと来ない。

町内の「オホーツク文学館」を見学。T氏は、経済的・文化的に日の当りにくいオホーツク周辺をPRして、こんな施設もあると、私に見せたいのだろう。そんな郷土愛や北方問題に対する危機意識は、私にも充分感じられた。

北見市に行き、中央図書館を見学。その足でNHK北見放送局を確認する。NHKの支局統廃合で、北見放送局がなくなってしまうのではないかと、T氏は心配だったのだ。

最後に網走監獄に行く。夕方の入館時刻を過ぎてしまい、外からの見学だけになってしまった。朝ゆっくりした分だけ時間がなくなってしまい、この日は昼食が取れなかった。網走駅前でタクシーの女性運転手さんにホテルの場所を尋ねると、何とタクシーで先導してくれて、ここですと指で示すと、そのまま帰ってしまわれた。一銭にもならないサービスであった。

(追加)稚内と留萌の間にある小平町の鰊番屋を書き忘れた。明治中期に建設されたニシン漁のためのこの花田家番屋は、とにかくでかい。ニ百人もの漁師(ヤン衆)が寝泊りしたと言う。大勢の若い男集団であるから、酒・博打・喧嘩・窃盗があったであろう。女中部屋もあるから、女を巡っての争い、あるいは殺人・傷害事件も考えられる。小金を得た男を求めて、娼婦も来たであろう。体育館をいくつも寄せ集めたような平屋の建物(一部二階)は、どでかく、柱は思いきり太い。何事もなかったように建っていた。

さすがに、若き日に小説家を目指しただけの文章力である。また北海道のことをご存知ないことが、文章力で面白く表現している。

この旅行に関しては、同行者に少しでも北海道をよく見てほしいことと、吾輩自身の目的が多忙であったので、泊まり先でゆっくりと朝食を取る時間がなかった。北海道の5月は、午前4時半には完全に明るくなるので、先を急ぐ旅行では早朝から動かなければ“損"であるからだ。

これまで、北海道のさまざまなところに行っているが、夜に自宅でユーチューブを見ると、まだまだ訪ねていない地域があることを知る。そういう意味では、まだまだ老いてはいられないというのが、現在の心境である。それにしても、充実した北海道旅行であった!

※後記ー滝上町でお世話になった前町長(同級生)から次のようなメールがきた。

ーなかなか面白い。よそ者の目で見た率直な印象で、小さな子供が乗れるほどの舟盛りなど、地元では使わない大げさな表現は面白い。

吉村昭の小説の題材になった土地を訪ねるのは、時間軸がたっているものの、小説がより身近になるのだろう。桑原氏の筆が冴えている。

この夏、私も「赤い人」の題材になった月形町の樺戸集治監に行って来た。訪ねることによって、吉村文学をさらに好きになった。ー