沢木耕太郎と吉村昭との交流関係

定期購読している冊子「吉村昭研究」(「吉村昭研究会」発行)の第63号が、8月15日に配達されてきた。さっそく読んでみると、その中に「吉村は、二十歳はなれた沢木耕太郎(一九四七ー)には親近感をいだき(注)、互いに敬意を表していたのではないかと考えたが、大部になるため次号に繋げたい。

【注】沢木耕太郎の『旅のつばくろ』には、エッセイ四十一篇のうち二篇で、吉村昭との交流が描かれている」と書かれていた。

そこで、以前から沢木氏に関心を持っていたこともあり、すぐに書店に注文して、この著書「旅のつばくろ」(発行=2020年4月20日、発行者=新潮社)を入手した。その中をパラパラとめくると、確かに二篇で吉村昭に関する文面があった。

①〈縁、というもの〉

縁、というものがある。

眼には見えないが強く存在する何らかの関わり、というような意味と私は理解している。

この縁、人と人とを結びつけるものを指すことが多いが、地縁というように人と土地との間にも確かに存在するような気がする。

生まれ育った土地に縁があるのはもちろんだが、単なる旅先の土地であっても、そこに縁を感じたり、縁が生まれたりすることがある。

 

東京で生まれ育った私には宮城というところに特別の縁はなかった。だが、私の三十代の終わりの頃、ひとつの縁が生まれた。

当時、文藝春秋という出版社が文化講演会なるものを行っていた。教育委員会とか農協といった地元の受け入れ先の要請に従って、日本全国に作家を「派遣」し、講演会を開くのだ。

あるとき、文藝春秋で私を担当してくれている編集者から電話があった。近く宮城の築館町で行われる予定の文化講演会に行ってくれないかという。

私は、あまり講演というものを好まない。人前で話すのがいやというのではない。講演の約束をして、何カ月も先の予定が決まってしまうのが苦痛なのだ。決まってしまうと、その月のその日は絶対にその地にいなくてはならなくなる。約束さえしていなければ、どこに行こうが、どこにいようが、私には無限の自由があるはずなのに。

だが、担当編集者氏によれば、その依頼は作家の吉村昭氏からのものであるという。

文化講演会は二人か三人が一組で行くことになっている。その宮城の文化講演会は、吉村氏がメイン・スピーカーであり、その前座に誰をつけようかということだったらしい。それについて、吉村氏が私の名を挙げてくれたということのようだった。

私は吉村氏とは面識がなかったが、『戦艦武蔵』という傑作を書いた先達として、深い尊敬の念を抱いているということは文章に書いていた。恐らくは、それを眼にしてくれていたのだろう。

築館町の講演会は夜で、私の出番が終わり、吉村氏の話が始まっていた。

私は楽屋で話を聞いていたが、そこに私の読者だという男性が係の人に案内されてやって来た。手には風呂敷を持ち、私の著作が包まれていた。

サインをしていただけないかという。喜んでと応じて開いてみると、どれもすべて初版である。私はこのような土地にこのような熱心な読者がいるということに感動し、感謝したくなった。

聞けば、近くの一迫町で寿司屋をやっているが、今夜はこの講演会のために店を閉めて来たのだという。

「今度この近くに来たらうかがいます」

私がその「今度」はないかもしれないと思いつつ、社交辞令に近い言葉を述べると、私と同じ年齢だというその男性が言った。

「もしよかったら、これから店を開けますから、おいでになりませんか」

この講演会が終わったあとは、吉村氏を含めた地元関係者との「懇親会」がある。さすがに無理だろうと思い、婉曲に断った。

やがて吉村氏の講演が終わり、近くの料理屋で打ち上げ風の「懇親会」が始まった。

乾杯のセレモニーが終わったところで、私は隣の主賓席に座っている吉村氏にふと先の読者のことを話してみる気になった。奇特な読者がいたのですよ、と。

すると、吉村氏が言ったのだ。

「それなら、すぐにその店にいらっしゃい。ここにいる必要はありません。そういう読者こそ大事にしなくてはなりませんからね」

私は貰った名刺に電話を掛け、タクシーを飛ばし、その寿司屋に急行した。

そこは男性が奥さんと二人でやっている店だったが、私のために店を開け、待ってくれていた。

その夜は、寿司だけでなく、男性自慢の料理と酒を御馳走になるという夢のような時間を過ごしたあと、日付が変わった深夜に宿に帰った。

以後、宮城に住むその男性とは現在に至るまで往来を続いている。

だだ、その後、彼は、同じ宮城でも、一迫町から仙台の市内に進出し、独特の料理を供する和食屋を開くことに成功する。

 

先日、盛岡に行く途中、仙台で下車して彼の店に寄ったとき、亡くなった吉村氏を偲んで献盃した。もし、吉村氏の一言がなかったら、私と宮城との縁だけでなく、私と彼との二人の縁も、ここまで続かなかっただろうからだ。

もちろん、飲んだのは宮城の酒だった。

②〈初めての駅、初めての酒場〉

東京の城南地区に育った私にとって最も親しい川が多摩川だとすると、最も縁の遠い川は荒川である。荒川は途中から隅田川と名前を変えるが、隅田川ならまだ馴染みはある。しかし、荒川となると、河川敷で遊んだこともなければ土手を歩いたこともない。それは、私にとって、荒川が流れている城北地区や城東地区に馴染みが薄いということの結果だったかもしれない。

たとえば、山手線の駅について考えてみると、渋谷を中心にして内回りは上野まで、外回りは池袋まではどんな駅でもかなりの頻度で乗り降りしたことがあるが、内回りで上野から池袋までの駅にはあまり乗り降りしたことがない。とりわけ、日暮里となると、ひょっとしたら一度も駅の外に出たことはないのではないかという気がするくらいである。

そこで、いや、なにが「そこで」なのか自分でもよくわからないが、春の盛りの、好天のある日、日暮里に行ってみることにした。山手線を日暮里で降りて、駅の外に出てみることにしたのだ。

といっても、ただ日暮里の駅で乗り降りするためだけに行くのはもったいない。日暮里出身の作家である吉村氏の記念文学館に行ってみることにした。

 

荒川区吉村昭記念文学館ができたのは一年前だった。私も、設立の準備段階には、区内のホールで吉村さんに関する講演をしてささやかな応援をさせてもらったが、完成してから一度も行ったことがなかった。最寄りの駅は京成線の町屋らしいが、今回は日暮里から遠路はるばる歩いていくことにした。

日暮里の東口を出て、十五分ほど歩くと常磐線三河島駅に着く。そこからさらに十五分ほどで「ゆいの森あらかわ」という場所に着いた。

それは複合的な図書館であり、ゆったりとした空間にさまざまなスタイルの閲覧室が設けられている。本好きには実に心が踊るような施設で、吉村昭記念文学館はそこに包摂されるというかたちで存在していた。入場は無料。二つの階にまたがった館内には吉村さんの文業がわかりやすく展示されており、書斎が復元されていた。

また、そこに置かれた展示品からは、吉村さんの律義なところがよくわかるようになってもいる。締め切りを守る。それは製造業の工場主だった父上から商売の心得として叩き込まれたというが、なるほどと思わされた。

 

帰る頃には日が傾きはじめていた。どうしょうか迷ったが、もういちど日暮里までの道を歩くことにした。

あちこち寄り道をしているうちに、駅に近づく頃には暗くなり、ネオンの色に鮮やかさが増しはじめている。つい、一杯飲んで帰ろうかという気分になり、なんとか見つけた居酒屋と小料理屋の中間のような店に入ることにした。

店のおかみも、馴染みらしい二人連れの男性客も、見かけない客の登場が少し気になっているのがわかる。

ビールをもらい、突き出しの「鮪のぬた」を食べていると、吉村さんの話を思い出し、危うく笑いそうになって顔を引き締めた。初めての客が酒を飲みながら思い出し笑いをしていたら、店の中の人も奇妙に思うだろう。

吉村さんによれば、取材に出かけたどこかの町で初めての飲み屋に入ると必ず警戒される。刑事か税務署員に間違えられるからだという。確かに、トレンチコートを着た吉村さんは、刑事か税務署員と言われても違和感がない。

もっとも、それは吉村さんのお気に入りのジョークだったらしく、共にした酒席で何度かうかがったことがある。

私は何者に思われているだろう。常連風の客と話をしているこの店のおかみは、どんな仕事をしている奴と思っているだろう。

昔、馴染みの銀座の小さな酒場で飲んでいると、アメリカの大作家であるヘンリー・ミラーの夫人だったホキ徳田がひとりで現れた。酒場のおかみが、近くに座っていた私を「作家の沢木さん」と紹介してくれた。すると、しばらくして、ホキ徳田さんが私にこう訊ねてきた。

「どこ守っているの?」

私は何を質問されているのかわからず訊き返した。

「はっ?」

「ポジションよ。あんた、サッカーの選手なんでしょ」

作家をサッカーと聞き違えしてしまったのだ。それには、その酒場に居合わせた全員が笑い出してしまった。

そのときのことが甦り、つい思い出し笑いをしそうになって、また顔を引き締めた。

さすがにいまはサッカーの選手と間違えられるということはありえないが、さて、どんな職業の奴と思われているだろう……。

内心なんとなく楽しくなり、私はビールを酒に切り替えて、本格的に飲みはじめることにした。

以上の文面は、JR東日本が発行している「トランヴェール」という雑誌から、エッセイを連載してくれないかという依頼を受けて、書いたものという。読んでみて、何ともいえない情景が浮かび上がり、実に爽やかな文体で、これが一流の文筆家の文章かと感じた。

以前にも触れたが、吾輩は沢木氏と会ったことがある。いまから約45年前、吾輩が20代の後半で、沢木氏が30代の前半だった頃、有名な政治評論家の秘書の仲介で、赤坂のホテルで会ったのだ。その時の要件は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)にオホーツク海の海岸で起きた「湧別機雷事件」(死者106名、重軽傷者125名)を書いてもらうためであった。結局、書いてもらえなかったが、既に読了済みの「テロルの決算」や「オリンピアナチスの森で」などの著書を読んで、今日までその動向に注目してきた。

昔、何らかの書物を読んだ際、若い頃の吉村氏はボクシングが大好きで、東京・後楽園ホールに相当通ったという。その事実を沢木氏との対談の席で明かすと、作品「一瞬の夏」「敗れざる者たち」などのノンフィクションで実在のボクサーたちを描いていたことから、本人が非常に羨ましがっていたという内容であった。だから、二人は昔から親しい関係にあることは知っていた。

このほか、沢木氏自身が書いた書物の中で「大手銀行の入社式に出たが、翌日から会社に行かず、大学の指導教官に相談に行ったところ『何か書いてみないか』と言われたことをきっかけに文筆活動を始めた」と書いていた。だが、指導教官は誰だか知らずにいたが、本書の中で「長洲一二」と書かれていたのには驚いた。長洲氏は、あまりにも世間で知られている人物であるからだ。

いずれにしても、若い時から関心・注目してきた沢木氏から吉村氏との交流関係や、荒川区の「吉村昭記念文学館」を紹介してもらい、嬉しい限りです。そして、この文面から少しでも吉村昭を知ってもらえれば、これ以上の喜びはありません。