陸上用シューズを巡る日米の攻防戦

6月17日と18日付「朝日新聞」は、「アシックスの反撃〈上、下〉」というタイトルで、2回にわたって陸上競技のシューズ開発を巡る現状を報じている。

〈「黒船」が奪った地盤、取り返す「C」〉

2021年1月。東京箱根間往復大学駅伝競争、通称「箱根駅伝」に出場した210人のうち、アシックスのシューズを履いた選手は誰もいなかった。4年前までは3割の選手が履いていた。急な失速だった。

この大会で、200人超が履いていたのは、米ナイキ社のシューズだ。17年に投入した「厚底」が、アシックスの地盤を根こそぎ奪い取った。

「ナイキ1強」「箱根からアシックスが消えた」。箱根路の異変が注目を浴びた。

「非常に悔しい思いをした」

三菱商事から18年にアシックスに転じた社長の広田康人は21年6月、箱根の屈辱をこう振り返った。実はこの時、広田は反転攻勢への手応えをつかみ取っていた。

始まりは17年、ナイキが厚底靴「ヴェイパーフライ」を発売したことだ。一般的な陸上用シューズより1㌢ほど厚い、35〜40㍉の靴底を備えていた。

その効果はてきめんだった。

ケニアの選手は非公式ながら世界記録を更新。18年には設楽悠太大迫傑日本記録を相次いで塗り替えた。「厚さは速さだ」。キャッチコピーどおりだった。

「オセロの駒のように、コロコロと変わる音が聞こえた。『黒船』によって全部ひっくり返されたのです」

アシックスでマーケティングを担当する常務執行役員の甲田知子は当時の状況をこう語る。ランニング専門店で店頭の棚から自社のシューズが消え、代わりに「厚底」が並べられていく様を間近でみた。アシックスの契約選手も徐々に離れていった。

19年12月。神戸市のアシックス本社4階に、約10人の社員が集められた。殺風景な会議室で、広田は一言、号令をかけた。

「取り返すぞ」

チームの出身部門は、開発やマーケティング、生産、知財担当など、ばらばら。意思決定を早くするため、社長直轄とした。

チームの名は「Cプロジェクト」。創業者・鬼塚喜八郎の「頂上(Chojo)から攻めよ」という言葉の頭文字を取った。鬼塚は商品開発にあたり、トップ層の選手のニーズを掘り起こし、それを満たすために試行錯誤を重ねたとされる。チームの使命も、プロのランナーに選んでもらえるシューズをつくることだ。

リーダーの竹村周平はナイキの「厚底」が登場した当時、中国に赴任していた。18年に帰国すると、自社が「危機的な状況」にあると、にわかに気づいた。シューズのサンプルを履いてくれる選手を探そうにも、「勝てる靴がないなら、選手を紹介しない」と断られることがあったのだ。

「今のままではだめだ。大きく変えなくては」。竹村が立ち返ったのもまた、鬼塚の言葉だった。

〈歩数を削れ、ニつの答え〉

アシックスがシューズのシェア奪還のためにつくった「Cプロジェクト」。リーダーの竹村周平は、トップ選手に何を望んでいるのか尋ねて回った。返ってくる答えは決まって「速く走れるシューズ」だった。

「速く走る」とは何か。

まずはそこから解き明かした。たどりついたのは、「1歩の長さ」と「歩数」のかけ算だ。42・195㌔のフルマラソンをプロ選手はおよそ2万5千歩で走る。1歩の歩幅を5㍉伸ばすことができれば、同じ歩数でも125㍍分はやくゴールできる。

チームは、歩幅を伸ばすことに狙いを絞った。強い反発性を持つ新素材に加え、カーボンも入れた。結果として先行するナイキと同じ路線に行き着いた。しかし、アシックスには自信があった。半世紀超におよぶ「走り」のデータの蓄積があるからだ。

プロジェクト発足から5カ月。サンプルを数種類ずつ選手に渡すと、意外な指摘があった。「ここまで厚底だと、走り方が狂う」。データ分析にたけたメンバーが、厚さの好みと走り方を選手ごとに比較。速さを上げようとする時、歩幅(ストライド)を伸ばそうとする選手と、足の回転数(ピッチ)を上げようとする選手がいた。

大ざっぱに分けると、ストライド型の選手は厚底を好み、ピッチ型の選手は厚底が合わなかった。チームは2種類のシューズを同時に開発することに。社内では異例のことだった。「メタスピード スカイ」と「エッジ」を21年に発売した。

2種類のシューズは、靴底の厚さ、かかととつま先の高低差、足先へのカーブの角度の3要素が異なる。フルマラソンであれば、スカイは平均350歩、エッジは平均750歩分少なくゴールできる推定だ。

その夏の東京五輪のマラソンでは、アシックスのシューズを履いた選手はメダルこそ逃がしたが、男子で5位に入賞。男女のトライアスロン競技、パラリンピックの女子マラソンで3選手が金メダルに輝いた。

迎えた22年1月。今年の箱根駅伝で、アシックスを履いたのは24人。ナイキの150人超には及ばないが、「1強」の一角を崩した。「ようやくスタート地点に立った」。大会後、社長の広田康人は語った。

「アシックスが戻ってきた」。専門店や選手から、そんな声が寄せられるという。

Cプロジェクトは6月、さらに改良を加えた第2弾を発売。「選手は1秒でも速く走りたいという思いがある。僕たちにも終わりはありません」と竹村は言う。

「厚さは速さだ」。この概念もいずれ覆されるかもしれない。常務執行役員の甲田知子は語る。「厚底=速さ、には固執しないほうがいい。テクノロジーが変われば形も変わる。毎年、どこかのメーカーが新しい何かを出す世界に入るかもしれない」

以前にも、陸上用のランニングシューズに関して触れてきたが、今回は競争が激しいシューズ業界の開発現場を紹介した。それにしても、選手が求める「速く走れるシューズ」の要望に応えるために、いかに日米のシューズ・メーカーが工夫を重ねて研究開発に勤しんでいるかが、理解できたと思う。

考えてみると、最近の箱根駅伝やマラソンをテレビ観戦した時、自然とシューズに目が行くのは吾輩だけではない筈だ。その理由として、明らかに「厚底」シューズが脚光を浴びているので、当然のようにロードレースをテレビ観戦する時には、各選手たちのシューズに注目するというわけである。

そういうことで、最近のロードレースの記録が異常なスピードで向上しているので、その証拠をマラソンの記録を通して確認したいと思う。まずはナイキ社の「厚底」シューズが出現する前の2016年と、昨年のマラソン男女の世界と日本の歴代30傑の記録から確認する。

○男子世界2時間04分56秒→2時間04分17秒(16年当時歴代10位)

○男子日本2時間08分44秒→2時間08分00秒(同14位)

○女子世界2時間20分59秒→2時間19秒36(同10位)

○女子日本2時間24分57秒→2時間24分25秒(同21位)

いずれも、同じ記録の順位がメクチャクに向上している。つまり、21年の歴代30傑の記録が、16年当時であれば10位から21位に該当するというわけだ。また、繰り上がりの記録が39秒、44秒、37秒、28秒ということを距離で示せば、100㍍を18秒で走るとして、ほぼゴールに200㍍早く到着することを意味する。

以上のように、記録の短縮が全てシューズの能力向上とは言わないが、それにしても驚くべき記録向上だ。そうした中、米国西海岸に本社を持つ大手メーカー「ナイキ」に対して、劣勢であった日本メーカー「アシックス」が、いかに追い付くかで右往左往をしながらも、確実にナイキに追い付いたことは嬉しい限りだ。そう考えると、ただ単なる一企業の話しではなく、あらゆる企業人に知ってもらいたい物語とも言える。