作家・吉村昭の北海道に対する思い

本当に、久しぶりに大作家・吉村昭(1927〜2006)に関する新刊書「食と酒 吉村昭の流儀」(著者=作家、俳人・谷口佳子)を読んだ。内容は、余り明らかになっていない吉村昭の食に対する゛嗜好゛のことであるので、非常に勉強になった。

〈各駅停車の旅で出会った北海道の想い出の味〉

『破獄』『羆嵐』『赤い人』『間宮林蔵』など、北海道を舞台にした作品は多い。百七回訪れた長崎は四作ほどだが、北海道は二十作以上ある。

理由を聞かれるたびに、北海道に住む人たちの気持ちが、自分なりに理解できるからと答えていた。

下町に生まれ育った谷崎潤一郎は、上野駅は東京の玄関だ、といった趣旨のことを書いていた。上野駅は東北地方とそれに続く北海道の匂いがすると同時に、駅は東京の下町の貌でもある。上野駅を玄関とする下町は、東北や北海道と同じ地域だというのだ。

吉村さんはその説に同感で、東北や北海道を旅しても、よそ者意識は感じないという。関東生まれの罪を犯した逃亡者は、東北地方から北海道へ身をひそめる傾向があると、老練の刑事が言ったことがあった。吉村さんはその心理がよく理解できた。

東京生まれの東京育ちなので、関西は異郷の地のように思える。

そうした心理分析の一方で、東北と北海道は吉村夫婦にとって忘れがたい地だった。結婚翌年の、「さい果て」への行商の旅である。

初めて北海道を訪れたのは昭和二十九年で、函館におりたらスルメの匂いがして北海道だなあと思ったとか、札幌のおばのところへちょっと寄って、ストーブでシシャモを焼いてもらったのがとってもおいしかったとか、根室ではタラバガニを処理しているカニ工場で、脚の太い、節のままのを食べたらあんまりうまくて、あれ以来うまいタラバは食べたことないとか、人情の良いところで、渡る世間に鬼はいないと思ったとか、食べ物と人情の話は尽きない。あれから数十回北海道に行ったが、あの旅がいちばんよかったと夫が振り返ると、私は帰りたくて半べそで、えらい男と結婚しちゃったと思いましたよ、と妻が言い、「心ひかれる北国の風景」と題した夫婦対談で思い出を語り合っている。

さて、多種多様なドラマが包蔵されているという北海道は、オホーツク海沿岸だけでも枝幸、雄武、興部、紋別、湧別、網走、小清水に宿泊している。忘れがたい情景としてあげているのが、「烏の浜」の舞台となった増毛郡増毛町の大別苅だ。

このとき雪原を長時間歩いたのが原因でバージャー病になったが、幸い足の切断は免れた。

道内の旅は札幌が拠点で、帰途にはいつも立ち寄っていた。

 

ー十年ほど前までは、いかにも北海道の食物らしいものを出す店に入っては、酒を飲んだ。熾った炭火の上で濛々と煙をあげて焼かれた大きなキンキを口にしたり、毛蟹を食べりして北海道の地酒を飲む。バターつきの馬鈴薯も好物だった。

しかし、五十代になってからは、食物の摂取量がとみに少なくなり、淡白なものしか口にできなくなった。『事物はじまりの物語 旅行鞄のなか』(ちくま文庫)ー

(中略)

「鶴」で食事をしたあとは、近くのバー「やまざき」に向かった。札幌に行けば必ず立ち寄った店だ。

 

ー「やまざき」の特徴は、店主にある。バーテンダー協会の要職にあり、外国のコンクールで受賞もし、その分野では全国的に名が知られている。が、店主には、そのような気配は少しもみられず、謙虚で温厚そのものである。絵筆をにぎるのを趣味とし、上達いちじるしく、東京でひらかれる絵画展に出品するまでになっている。客の横顔を切絵にする才もある。(同)ー

 

店主の山崎達郎さんは、人間としても立派な方で、店も山崎さんの性格そのままの清廉な店だと記す。

「やまざき」の創業は昭和三十三年。いかにもクラシックバーという感じの店で、客層もよく、おだやかな雰囲気で、中国の珍しい酒や銘柄も知らないワインを飲ませてもらったこともあった。店名にちなんで、サントリーの「山崎」をキープしていた。

吉村先生はとても義理堅い方で、切り絵一万枚達成記念パーティーのときは東京から駆けつけてくださり、本を出版するときも原稿に目を通し、推薦文もいただきましたと、山崎さんは思い出を綴っている。

山崎さんは、平成二十八年に九十六歳で亡くなった。生涯現役で日本最高齢のバーテンダーと言われた。

バー「やまざき」は、教えを受け継いだ弟子たちがいまも営業を続けている。

「やまざき」でほろ酔いになったあとは、近くにあるラーメン屋に寄るのを常としていた。

味噌ラーメンを食べたのはその店が最初で、天下に名高い札幌ラーメンのうまさを知った。同行の編集者も感激しきりだったが、その店が消えてしまった。店主が博打好きで、借金がかさんで夜逃げしたらしい。

他の店を物色したが、その店以上の味には出会えていない。

 

時間に余裕があるときは、いまはない青函連絡船に乗って北海道まで行った。

飛行機で一気に行くより、北海道に旅する気分になった。寝台車で青森まで行き、船内で弁当と味噌汁を買った。船中でとる弁当に旅を感じた。

そもそも四十歳を過ぎる頃まで、飛行機に乗るのが怖かった。

常識的に考えても、あれ程の重量のものが空を飛ぶのは自然の法則に反している。返還前の沖縄に取材で行ったときは、夜行列車で鹿児島に行き、翌日の船で沖縄に渡った。帰りは日程の都合でどうしてもジェット機に乗らなければならず、飛行機のタラップが死刑台への階段に思えた。

(中略)

そもそも英雄というのはまったく書く気がしなかった。幕末を書いても、西郷隆盛などは書こうとは思わない。成功者や偉人に関心はなかった。

一方で、歴史に埋もれかかっていた人物を掘り出し、光をあてた。

江戸時代の思想家・高山彦九郎を書くときは、「なんで吉村さんが書くの?」という声もあったが、思想家で非常にすぐれた人物だから、郷土の人は誇りに思わなくてはいけないと講演し、記念館ができるまでになった。『ポーツマスの旗』の小村寿太郎は、郷土では戦争中は嫌われ、戦後は忘れられていた。

吉村さんは努力を正当に評価されない人間の悲しみをよく知っていた、と井上ひさしは述べている。

 

月に一度北海道を訪れ、羆撃ち専門の猟師の話を聞いていた時期があった。

連作短編『熊撃ち』の取材のためで、阿寒湖の近くや日高方面の山奥に行った。猟師は一様に口数が少なく、極端に気むずかしい人もいて、二日がかりでようやく話を聞き出すこともあった。取材時にカメラは使わず、大学ノートと万年筆、テープレコーダーが取材道具だった。

稚内から日本海沿いに南下していくと、苫前という町がある。動物小説の中で、おそらくいちばん読まれている『羆嵐』の取材で訪れた。『羆嵐』は執筆で最も苦しみ抜いた小説だという。

もうこの町の土を踏むことは生涯ないと思っていたところ、降旗康男監督、三國連太郎主演でテレビドラマ化されることになり、慰霊祭に参列してほしいと言われて再訪した。夜は立派な町営の国民宿舎で、キジ鍋をご馳走になった。鍋が煮えると、三國連太郎が皆の小鉢にキジの肉や野菜を取り分けてくれた。そのふるまいに大俳優である三國さんを見た、記している。

宿の接待は心がこもり、撮影隊に対する町の協力は胸が熱くなるほどだった。

その町に雑誌の依頼で再度訪れることになった。町営牧場は牧場祭りが催されるところで、七輪で焼いた牛肉を肴に、冷えたビールを味わった。日本海に面しているので海の幸にも恵まれている。

結局、苫前は五度訪れる機会があった。

以上の文面を取り上げた理由の第一は、文章の中に「オホーツク海沿岸だけでも枝幸、雄武、興部、紋別、湧別、網走、小清水に宿泊している」という部分だ。特に湧別に関しては、吾輩が二十代後半の昭和54年頃に、昭和17年5月26日に起きた「下湧別機雷爆発事件」(死者106名〈警察官6、警防団員43、一般見学者57〉、重軽傷者125名)のことを書いて貰うために、吉村昭に手紙を出し、その後に新刊書「汝はサロマ湖にて戦死せり」が出版できると自宅に電話を入れ、吉村本人と話をした。そんなことから、いつ頃湧別に宿泊したのか、行った際には事件現場を訪ねたのか、などと関心を持った。その解明は、いずれ誰かが明らかにしてくれると思う。

第二は、今年1月に「吉村昭研究会」の会長から、

ー昨年、ゴーツーで札幌に行く予定でしたが、事情があって行けませんでした。札幌の「バーやまざき」に行きたかったです。吉村先生がボトルを入れていました。

マスターの山崎氏は、日本のバーテンダーでもトップの方で、絵画の腕も確かな芸術派です。鋏での切り絵は一級品です。吉村先生の横顔も切り絵で、そっくりなのです。

その山崎さんと、手紙のやり取りもあったのですが、数年前に100歳近くで亡くなりました。恐らく、100回近くは吉村先生も行っている筈です。その雰囲気を見て観たかったです。今度、行かれる時はぜひ「バーやまざき」に行って見てください。ー

というメールがあった。だから、バー「やまざき」の存在は知っていた。

第三は、吉村昭が「北海道に住む人たちの気持ちが、自分なりに理解できる」と述べている部分だ。また、「そもそも英雄というのはまったく書く気がしなかった」という部分で、確かにこれに頷く自分がいた。つまり、吉村昭の価値観や人生観の一端が解った感じがしたのだ。

第四は、吾輩が初めて吉村作品を読んだのが「羆嵐」(昭和五二年五月二〇日発行)であるが、その事件現場の苫前町との関係がよく解った。

ところで、本書のテーマである食に関して、吉村昭夫人の作家・津村節子は「夫は、食べ物について実に貪婪である」と随筆に書いている。また、昔の雑誌「酒」の文壇酒徒番附けで、吉村昭は“東の横綱"としても知られるほど酒を愛した。そういうことで、吉村昭は旅先でうまいものを肴に酒を飲むことを唯一の楽しみにしていたが、そのために初めての土地で“酒と肴の名店"の探し方が名人であったという。

ー店の外観を見てよさそうだと思うと、ガラス越しにのぞき、時には入口の戸を細目にあける。私が見るのは客で、中年以上の落着いた感じの客だけがいると、安心して入る。

初めてですが、と店の人に声をかけ、入口に近いカウンターの端に座る。そして、まずビールを頼み、肴を注目する。コップを傾ける時の気持はなんともいえず、落着いた場所を得て腰を据えることができたような気分になる。私一人だけの世界である。『私の好きな悪い癖』(講談社文庫)ー

旅に同行した編集者は勘が的中することに驚き、店の常連客からは「旅行者なのに、よくこの店へ入ってきましたね。土地の者しか知らない店なのに」と、ほめられたという。だから、百発百中の“店探しの天才だ"と自負するに至ったと、記されている。飲み助の方々は、地方を旅行する際の参考にしてほしい。

それにしても、父親と吉村昭は、外観が似ている。同学年であるし、禿頭などの人相、そして体型(身長が共に164㌢)もそっくりであるのだ。だから、余計に好きになったかもしれない。