浜幸雄先生の功績を忘れないために…

結論を最初にいうと、今年8月26日にオープンする遠軽町の音楽ホール(遠軽町芸術文化交流プラザ「メトロプラザ」)の入口に、遠軽高校オホーツク管内吹奏楽レベルアップに貢献した、故・浜幸雄先生の胸像を設置したらどうか、という提案である。

以前にも書いたが吾輩は5月中旬、5冊目の自費出版に的確な写真を掲載するため、北海道をほぼ一周する旅行を敢行した。その際の12日、未だ建設中の音楽ホールを訪れ、幸いに現場監督の理解を得て、大ホールに入場することができた。

大ホールに入ると、関係者10人前後が音響のチェックをしていたが、その中に吾輩の遠軽訪問の目的を知る役場職員がいたので、写真撮影は順調に推移した。その間、胸の名札に「牛島○○」と書かれた若者が案内してくれたので、引き揚げる際に吾輩は若者と次のような対話を行った。

吾輩「牛島という名前だが、父親は遠軽高校吹奏楽部と関係ある人ですか」

若者「ええ、吹奏楽部出身者です」

吾輩「それでは今でも美幌町吹奏楽団で指揮をしている人ですか」

若者「そうです」

吾輩「それなら、あなたの父親と私は同級生だ。それでは、以前から解らないことがあるので、教えてくれますか」

若者「いいですよ」

吾輩「私は吹奏楽が好きで、遠軽高校吹奏楽部が初めて全国大会に出場した、1970年の全日本吹奏楽コンクールを見に行った。その際には、あなたの父親の弟が高校3年生で、吹奏楽の指揮者を務めていた。その10年後にも、あなたの父親も指揮者として、2年連続で全国大会(77年と78年)に出場している。遠軽高校の先生でもないのに、どうして吹奏楽部を指導していたのか」

若者「当時、生田原中学生の教諭であったが、遠軽高校吹奏楽部を指導できる人物がいなかったので、委託という形で指導していた」

吾輩「そういうことで、遠軽高校吹奏楽部を指導していたのか。それで2年連続、全国大会に導いたのだから、凄いね」

若者「(笑いながら)若かったし、時代が許したのか、げんこつを飛ばして指導していたようです」

吾輩「私は高校時代、丸瀬布に住んでいたが、あなたの父親の父親は、丸瀬布の学校の先生を務めていたと聞いている。何の科目ですか」

若者「丸瀬布中学校の体育教諭です」

吾輩「体育の先生…。音楽とは、ぜんぜん関係ないね。なぜ聞くかというと、遠軽高校吹奏楽部を強化したのは、明らかに「牛島」兄弟と、その後の20年くらい遠軽高校吹奏楽部を指導して、全国大会に4回導かれた今井先生です。そして、お互いに従兄弟関係であると聞いていたので、まさに“音楽一族"と言えることから、親たちは何か音楽に関係していたのか、と考えていたのだ」

若者「音楽には関係していないが、父親と今井教諭は、母親が姉妹という関係にあります」

吾輩「そういう関係にあったのか。ところで、丸瀬布中学校では、妹も吹奏楽部で浜先生の指導を受けていたので名前は何回も聞いているが、あなたの父親も浜先生の指導を受けたのか」

若者「はい、父親も浜教諭の指導を受けました」

吾輩「そうだったのか。あなたの父親も浜先生の指導を受けたのか。それでわかった。牛島兄弟と今井先生は、浜先生の指導を受けて、音楽の道に入ったというわけだ」

若者「浜教諭は丸瀬布の後、紋別、北見に異動したが、そこでも吹奏楽の指導をしています」

吾輩「私は浜先生とは面識がないが、今日、あなたの話しを聞いて、今までの謎が溶けました。つまり、遠軽高校吹奏楽部の発展に貢献した牛島兄弟と今井先生を育てたのは、浜先生ということがわかりました。ありがとう」

帰宅後、何となくネットや持参している「全日本吹奏楽連盟70年史」(平成20年11月1日発行)で、全日本吹奏楽コンクールの出場校を調べてみた。

○1975年(出場19校)=紋別中学校吹奏楽部/浜幸雄(北海道・北見地区、銅賞)

○1977年(出場22校)=紋別市紋別中学校吹奏楽部/浜幸雄(北海道・北見地区、銀賞)

○1978年(出場22校)=紋別市紋別中学校吹奏楽部/浜幸雄(北海道・北見地区、銀賞)

○1979年(出場22校)=紋別市紋別中学校吹奏楽部/浜幸雄(北海道・北見地区、銀賞)

○1980年(出場25校)=紋別市紋別中学校吹奏楽部/浜幸雄(北海道・北見地区、銀賞)

いやはや、驚いた。全日本吹奏楽コンクールに5回も導いていた。その時の演奏をインターネットで聴いてみたら、それはそれは見事な演奏であった。

その後の1983年、北見市立北中学校に異動になり、同年12月1日に吹奏楽部を創設している。その成績に関しては、84年から91年まで地区大会や全道大会に出場しているが、全国大会には出場はしていない。ちなみに、丸瀬布中学校には1961年から70年まで在職していたようだ。

ここからは推測であるが、生まれは1931年(昭和6年)で、北見市に異動になったのは、北見市の中学校の吹奏楽を強化するためと考える。というのは、浜先生の退職後も北中学校は、北見市で最も吹奏楽が盛んな中学校として存続しているからだ。

そういうことで、北見市から遠軽高校吹奏楽部に入部するために、毎年10人前後の生徒が入試に臨んでいる。その関係か、この10年前から6月に北見市で演奏会を開催しているが、これには父兄や学校関係者が訪れる、というわけである。

話しをもう一度戻すが、これだけ遠軽高校オホーツク管内吹奏楽のレベルを上げた人物である以上、おそらく音楽ホールに胸像を設置するために寄付を募ると、教え子たちを中心に“胸像の制作費"は簡単に集まると思う。当然のことに、吾輩も多少なりとも寄付したいが、問題は遠軽町である。

なお、ネットには「2019年2月7日、浜幸雄先生が亡くなった」という文面が記載されていた。