歴史学者が見たウクライナ戦争

4月10日付け「産経新聞」に、歴史学者が見たウクライナ戦争が掲載されていたので、2人の歴史学者の見解を聞こう。

一、歴史家・国際日本文化研究センター教授の磯田道史

〈為政者の自滅「歴史の教訓」〉

2年前、新型コロナのパンデミックが始まった春に、3つの懸念を警告した。嫌だが当たった。第1、コロナは波状的に襲ってきて長く暴れる。第2、権威主義国家と自由主義国家の違いが大きくなる。第3、スペイン風邪後の国際政局が第二次大戦に向かったごとく、パンデミック後は外交・軍事が極端な方向に走りやすい。

事実、権威主義自由主義の摩擦が深刻化した。その場所は「不安定の弧」と呼ばれる断層線だ。広い意味では北方領土台湾海峡カシミール、ロシア・ウクライナ国境で、この線を戦場にしてはならない。価値多様性の混在域にして紛争を予防する工夫が世界史上、われわれの課題だ。

170年前、識字率は地域差が大だった。教育史のカルロ・チポラによれば西欧・北欧で6〜9割、ロシアは1割以下。1割では自由な市民社会は生じにくい。エリートが思想・経済を統制して発展を引っ張り権威主義のタテ型国家を成す。他国への侵攻コストは想定より大きい。国際社会を敵に回した単独行動ではなおさらだ。だがタテ型国家の指導者にはそれが見えにくい。豊臣秀吉も朝鮮が明への道案内をしてくれるとみて侵攻。死後、政権が自滅した。日本の識字率は150年前に4割前後だったが、大日本帝国も大陸に手を出す代償を甘く見た。

それでも、やってしまうのが歴史の教訓だ。独裁国の軍・情報機関では強制が日常で、自信過剰で誤った侵攻が決断される。批判の自由があるヨコ型国家では暴走が止められるが、タテ型国家では無理だ。批判は敵、拒否は裏切り者にされる。ロシアのキーウ占領と体制転換を狙った意図は挫折した。前近代の戦いは占領されなければ安全だったが、現代では逆だ。占領されなくても都市への無差別爆撃ができ、民間人の死傷が増える。それに強い懸念を覚える。

国の力は軍事、経済、知、人口という総合的な力でできている。軍事力だけ高めても目的の達成が難しいことはロシアを見ても分かる。大事なのは政権批判もできる国家の健全性だ。無理筋の侵攻が起きてしまうのは、人口の見積もり、経済・知性の尊重、言論の自由がないからで、秀吉もそうだった。それが失敗のもとになり得ることをかみしめたい。

二、歴史家・東京大名誉教授の本村凌二

〈期限ある独裁 ローマ人の知恵〉

世界的ベストセラー「サピエンス全史」の著者として知られるイスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、数年前の著書「ホモ・デウス」で、人類を長く苦しめてきた3大災厄である飢餓・戦争・疫病は、ここ数十年の間にほぼ克服されたと論じた。

だが2020年代に入り、まず新型コロナウイルスという疫病が猛威を振るい、さらにナチス・ドイツポーランド侵攻を想起させる時代錯誤な戦争が起きた。フランス革命以降の長い近代史を経て、21世紀の現在では軍事力で他国を支配するのは許されない世界になってきていた。20世紀の2度の世界大戦を経験した欧州でなぜプーチン露大統領のような原始的な価値観を持った人物が出てきたのか。

ロシア人は強い指導者が好きで、ロシアの歴史では繰り返し独裁者が現れた。強大だったソ連を懐かしむ人も多い。プーチン氏も気が狂っているわけではなく、強いロシアを取り戻そうとする願望の中で生まれた人物だろう。ただソ連にとって第二次大戦は2千万人以上の死者を出した大惨事で、独裁者スターリンの恐怖政治による犠牲者も多数に上るが、現在のロシア人にはそうした戦争の負の記憶が伝わっていないのではないか。歴史に学べとよくいわれるが、個人として学ぶことはできても、集団になるとなかなか学べない。悲惨な失敗の記憶も、3世代、4世代と下ると忘れられるからだ。

ウクライナには独自の言語や文化があるが、長い間独立した国を持たなかった。ソ連崩壊後に独立したが、欧州とロシアの間の緩衝地帯になった。そこにロシアは付け入ったが、今回の侵攻を受けて反露で一致団結し、皮肉にも確個たるウクライナ国民が形成されるに至った。プーチン氏の大誤算だろう。

プーチン氏も、かつては聡明な独裁者といわれていた。コロナ禍に際し、迅速な判断が下せるとして中国などの独裁体制を称揚する議論も一部であったが、長期化した独裁政権が持つリスクが今回明らかになった。この点で参考になるのは古代の共和政ローマだ。ローマ人は戦争など国家の非常時には独裁官を置いて強権を許したが、任期は半年に限り、不正を犯した場合は後日訴追もできるとした。現代にも通じる知恵だと思う。

以上、2人の歴史学者の見解を紹介したが、特に磯田氏に関しては、新型コロナウイルス感染が拡大中の一昨年10月8日に、題名「志賀直哉のインフルエンザ小説」、10月20日には題名「『天声人語』が取り上げた志賀直哉」でも取り上げた人物です。未だ進行中のウクライナ戦争であるが、それでも歴史的な中間査定が知りたくなり、歴史学者の見解を紹介しました。

ところで、ロシアのウクライナ侵略に対して、世界中が固唾をのんで見つめている中で、ウクライナ軍が専門家の予想を上回る善戦を見せている。その背景は何なのか、外交政策研究所代表・宮家邦彦(元外交官)が月刊誌「ボイス」(4月号)で、ウクライナ人の抵抗の拠り所を指摘している。

ー私が5年前にウクライナを旅行した際の印象は真逆である。博物館を回ってわかったのは歴史上、同国には3つの敵がいたことだ。第1は13世紀のモンゴル帝国、第2が14世紀のリトアニアポーランド帝国なるカトリック勢力であり、最後が18世紀以降のロシア帝国だった。この恐ろしき隣国ロシアとウクライナの関係はきわめて微妙であり、およそ「一心同体の同胞同士」とは程遠いようである。

当時案内してくれた現地ガイドによれば、20世紀ウクライナの3大災難は、①第二次大戦時の独ソ密約と国土の分割占領、②スターリン時代の飢餓、③チェルノブイリ事故の3つだそうだが、2014年にはロシアにクリミア半島を占領された。ー

ウクライナの歴史を勉強すると、取り上げた事実は重要な出来事として知ることになるが、その出来事がどのくらいウクライナ人の“心のキズ"になっているかはわからない。例えば、➁スターリン時代の餓死(1932~33年)では、350万人とも500万人とも言われており、その点でウクライナ人の重要度に順番を付けてくれたことは、非常に参考になる。

それでは吾輩のような「反露主義者」は、ロシアの何に怒りを感じているのか。やはり、第1はソ連軍が昭和20年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破って、満州樺太、千島列島に侵攻を開始したことだ。その結果、ソ連兵によって、殺戮、略奪、暴行、強姦と非道を極め、60万人がシベリアに抑留(約6万人死亡)された。第2は、樺太、千島列島を不法占拠され、戦後80年近くになっても、奪還できない現実だ。第3は、清王朝の弱体化(ロシアは1858年の「アイグン条約」で黒龍江以北を獲得)に付込んで、1853年にロシア使節として海軍中将プチャーチンを長崎に派遣して、その一方で海軍少佐ネヴェルスコイが樺太のクシュンコタンに軍事進攻したことだ。

そういう歴史を知ると、漢民族ネルチンスク条約(1689年)で合意した地域まで領土を獲得するべきだし、朝鮮民族も昔からウラジオストク周辺まで生活圏にしていた筈だと想像すると、同じようにロシアを押し返すべきである。要するに、アジア人同士が争うことは、ロシアの“思う壺"であることを自覚するべきであるのだ。