プーチンの核威嚇とロシアの核戦略

ロシア軍がウクライナ侵略を開始した翌日の2月25日、吾輩は題名「ロシア軍によるウクライナ侵略の行方」を書いたが、その中で「産経新聞」に掲載された東京大学先端科学技術研究センター専任講師・小泉悠のコメント「第三次大戦の可能性は低いが、最悪の場合、ロシアが警告射撃の意味を込め無人地帯で限定的な核使用を行う可能性も排除はできない」を紹介した。核兵器の使用に関しては、誰も軽々しく言えることではないが、その後の戦況は小泉氏の分析通りということも言えた。

ということで、吾輩は先日取り上げた小泉氏の著書「『帝国』ロシアの地政学ー『勢力圏』で読むユーラシア戦略」に引き続き、2冊目として著書「現代ロシアの軍事戦略」(ちくま新書、2021年5月10日第1刷発行)を読んでみた。そこで、ロシア軍の軍事戦略の何を紹介するかで悩んだが、ロシアのプーチン大統領が核使用を常に匂わせてきた以上、ロシアの核兵器に対する考え方を取り上げることにした。

3 ロシアの核戦略ーー「エスカレーション抑止」をめぐって

ー破滅を避けながら核戦争を戦うー

だが、以上のような損害限定戦略によってもロシア軍が劣勢となった場合にはどうなるのだろうか。ここで登場するのが核兵器である。

ソ連は1983年、NATO核兵器を使用しない限り核使用には訴えないとする「先制不使用(NFU)」を宣言したが、これはソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の通常戦力がNATOに対して優勢に立っていたからできたことである。これに対して、ワルシャワ条約機構軍の全面侵攻を通常戦力のみで阻止するのは困難であると見ていたNATOは、「柔軟反応戦略」を採用し、開戦劈頭に西ドイツ国内で戦術核兵器を使用することで通常戦力の劣勢を補う方針を基本としていた。

ところが、ソ連の崩壊とロシアの国力低下、そして中・東欧諸国のNATO加盟によって状況は180度逆転してしまった。通常戦力で劣勢に陥り、ハイテク戦力でもNATOに水を開けられたロシアでは、こうした状況下で「地域的核抑止」と呼ばれる戦略を採用する。NATOの「柔軟反応戦略」を東西逆にして焼き直したものであり、戦略核戦力によって全面核戦争へのエスカレーションを阻止しつつ、戦術核兵器の大量使用によって通常戦力の劣勢を補うというのがその骨子である。核による破滅を避けながらも核戦争を戦うということだ。

ロシアは、ソ連末期の1991年にゴルバチョフ大統領が発出した大統領核イニシアティブ(PNI)と、これに続く1992年のエリツィン大統領のPNIに基づいて戦術核兵器の多くを退役させ、残りを国防省第12総局(12GUMO)が管理する集中保管施設に移管したことになっている。

だが、これ以降、その実態は検証されておらず、ロシアが30年前の約束をまだ守っているのかは全く不透明である。現在のロシア軍が実際にどの程度の戦術核兵器保有しているのかについても公式の情報では一切明らかにされておらず、大方の推定では1000〜2000発前後の戦術核弾頭が現在も有事の使用を想定して準備状態に置かれていると見られている。

いずれにしても、通常兵器や対宇宙作戦、電磁波領域作戦などを動員した損害限定戦略が失敗に終わった場合には、戦術核兵器が使用される可能性が現在も残されていることは疑いない。

ー「エスカレーション抑止」論の浮上ー

一方、これと並行して発展してきたのが、「エスカレーション抑止」とか「エスカレーション抑止のためのエスカレーション(E2DE)」と呼ばれる核戦略である。限定的な核使用によって敵に「加減された損害」を与え、戦闘の継続によるデメリットがメリットを上回ると認識させることによって、戦闘の停止を強要したり、域外国の参戦を思いとどまらせようというものだ。

その実態については、「スタビリノスチ2009」演習に際して軍事評論家のゴリツが『自由ヨーロッパ・ラジオ(RFE)』ロシア語版のインタビューに答えた内容がわかりやすいだろう。ゴリツが描くエスカレーション抑止型核使用とは次のようなものである。

 

(前略)戦略的な性格を持つロシアの指揮・参謀部演習は、1999年頃から行われるようになりました。現在まで、それらは全て一つのシナリオの下に行われています。侵略者がロシアの同盟国かロシア自体を攻撃するという想定です。通常戦力は相対的に劣勢であるため、我々は防勢に廻ります。そしてある時点で、我が戦略航空隊がまず、核兵器によるデモンストレーション的な攻撃を仮想敵の人口希薄な地域に行います。我が戦略爆撃機はこれを模擬するために、通常、英国近傍のフェロー諸島の辺りを飛行しています。これでも侵略者を止めることができない場合には、訓練用戦略ミサイルを1発か2発発射します。その後はこの世の終わりですから、計画しても無意味ですね。

 

ゴリツは民間の(しかも多分に反体制的な)軍事評論家であるが、彼の語るエスカレーション抑止のあり方は、ロシア軍内部における議論の動向と非常によく合致している。特に重要なのは、ゴリツがデモンストレーションと限定的な損害惹起を区別している点だ。つまり、限定的な核使用とひとくちに言っても、そこには「見せつける」ための核使用から、実際にある程度の損害を与えて相手を思いとどまらせることまでの幅が存在するということである。

米海軍系のシンクタンクである海軍分析センター(CNA)は、膨大な数のロシアの軍事出版物分析は基づき、エスカレーション抑止戦略に関する2本の詳細な分析レポートを2020年に公表しているが、ここではエスカレーション抑止型核使用の諸段階がより詳しく整理されている。

その第1段階はゴリツのいう「デモンストレーション」であり、この中には兵力の動員や演習による威嚇から特定の目標に対する単発の限定攻撃(核または非核攻撃)までが含まれる。一方、これでも所期の目的(戦闘の停止や未参戦国の戦闘加入)を阻止できない場合に行われるのが第2段階の「適度な損害の惹起」で、紛争のレベルに合わせてもう少し規模や威力の大きな攻撃を敵の重要目標に対して実施し、このままでは全面核戦争に至りかねないというシグナルを発するーーというものである。

第2章で見たように、ロシアの「抑止」概念においては、相手の行動を変容させるために小規模なダメージを与えることが重視される。軍事力行使の閾値下においては、こうした「抑止」が米国大統領選への介入などといった形を取ったが、軍事的事態においては限定核使用による「損害惹起」がこれに相当するということになろう。

以上の文章を読むと、プーチンが核の使用をちらつかせて威嚇する背景や、ロシアの核戦略の考え方が理解できる。そもそもロシアは、通常兵器や国防予算でNATOにはるかに劣ることで、14年の「ロシア連邦軍ドクトリン」や20年の「核抑止の分野におけるロシア連邦の国家政策の基礎」で、核の使用に触れている。だから、プーチンの核威嚇は単なる威嚇ではなく、本当にロシア軍の“核使用"の現実味があるのだ。

実際、プーチンはテレビカメラの前で、ウクライナ侵略を開始した2月24日の3日後、セルゲイ・ショイグ国防相とバレリー・ゲラシモフ参謀総長を異様に長いテーブルの隅に座らせて、核戦力を「特別態勢」とするように命じてNATO諸国を威嚇した。それを考えると、小泉氏が軽々しく“ロシアの核使用"という軍事戦略を提示したわけではないことが解る。最後は、プーチンがロシアの利益を取るか、それとも自分の利益(ロシア復活の父として歴史に名を残す)を取るかで決まると言える。

ところで、「産経新聞」(3月19日付け)によると本書は、2月時点の累計発行部数は1万1000部で、2月24日のロシアによるウクライナ侵略以降、4回にわたって増刷され、現在6刷7万1000部に達している。また、著者の小泉氏は、新進気鋭のロシア軍事・安全保障政策研究者として、いまやテレビで引っ張りだこであるが、ネットを見ると、一昨年からロシア軍の専門家として日本の様々な専門家や識者を相手に講演を行っていた。まだまだ、引っ張りだこが続きそうだ。