プーチンの本質とその対外政策の深層

ロシアが、昨年11月頃からウクライナ国境周辺に10万人規模の軍部隊を集結させたことで、北大西洋条約機構(NATO)は「ロシアの軍事行動はいつ起きてもおかしくない」と見ているで、世界中がロシア軍の動きを注視している。その背景には、NATOが2008年4月の首脳会議で、時期を明示せずにウクライナジョージア(当時グルジア)を「将来の加盟国」とすることに合意したことに対して、プーチン政権は以前から旧ソ連諸国を自国の「勢力圏」とみなし、ウクライナNATOに加盟(1999年にポーランドチェコハンガリー、04年3月にバルト3カ国とスロバキア、スロベキア、ブルガリアルーマニア、09年4月にクロアチアアルバニア、17年6月にモンテネグロ、20年3月北マケドニアが加盟し、現在30カ国が加盟)させないという「法的保障」を求めていたからだ。しかし、欧米諸国は「NATO加盟は当事国の問題」とか、「21世紀には通用しない問題」と拒否して、ロシアの要求をはねつけてきた。

そのような中で、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の本質を知る記事はないものかと考えていたところ、それなりに参考になる記事を見つけた。それは会員情報誌「選択」(2月号)の連載シリーズ「現代史の言霊」(第46話)で、大見出しは「冷戦時代の残りかすをすべて排除する/キャンプ・デービット宣言」(元読売新聞外報部出身記者・伊熊幹雄)である。

〈2月の宣言ー米露の「冷戦終結」合意(1992年)ー〉

今年2月1日は、ロシアのボリス・エリツィン大統領が、米メリーランド州キャンプ・デービットで、ジョージ・ブッシュ(父)米大統領とともに、「冷戦終結」を宣言して30年に当たる。ロシアは米国とともに、「冷戦時代の残りかすをすべて排除する」と誓った。

そんなタイミングで、エリツィンの後継者ウラジーミル・プーチン大統領は、東西冷戦が蘇ったような地政学的攻勢をかけている。これは、歴史の偶然だろうか。少し、掘り起こす必要がありそうだ。

昨年12月、プーチンはロシアのテレビに出演した。ソ連崩壊から30年を扱ったドキュメンタリー番組だ。プーチンは「私はカネを稼がなくてはならなかった」「つまり、運転手をしたのさ。そんな話をするのは愉快じゃないがね」と語り、闇タクシーで稼いでいたことをほのめかした。

〈莫大なカネに触れていたプーチン

だがこれは、彼らしい作り話だ。1991年末から翌年にかけ、彼にはれっきとした仕事があり、普通のソ連市民が見たこともない、莫大なカネに触れていたからだ。

プーチンは、勤めていたスパイ機関「国家保安委員会(KGB)」を、「91年8月20日に辞めた」と、様々な機会に語っている。ミハイル・ゴルバチョフ大統領に対するクーデターが起こったのが辞任の契機だという。だが、実際に勤めていたのは、サンクトペテルブルグ(レニングラード)市役所だった。それも対外通商担当の幹部職員として、である。

プーチンはその前、東ドイツドレスデンソ連領事館でスパイをしていた。89年、ソ連東欧の共産圏全域に、民主化要求の嵐が吹き荒れ、東ドイツは翌90年になくなった。プーチンは故郷のレニングラードに戻った。この後大学勤務を経て、市役所に勤めたというのが、公式の経歴である。

語っていないのは、故郷に戻る前に、KGBの伝説的存在であるユーリー・ドロズドフ少将(退役)と会ったことだ。ドロズドフは非合法活動を専門とする大物スパイで、ドイツ、中国、米国と大舞台で活動した。そんなスパイのドンが、後輩のプーチンに「これからは、民主派の政治家に食い込んでほしい」と直々に頼んだのだ。

プーチンの故郷には、アナトリー・サプチャクという、「民主派」として名高い市長がいた。レニングラード大学法学部教授で、自由化の波に乗って人気論客となり、市長に就任した。市の名前を変えたのも、彼の貢献だ。プーチンの就職口は、簡単に見つかった。

サプチャクは15歳年下のプーチンを重用し、やがて副市長に抜擢した。これも表向きの話だ。実際にはどちらもカネが大好きで、私腹を肥やすことでも共謀関係にあったようだ。サプチャクは後に、国有財産横領で捜査対象となって、フランスに亡命した。

本稿が扱う92年初頭。プーチンには重大な疑惑が持ち上がっていた。彼の仕事は、ドイツから食肉を緊急輸入することだ。ところが、いつまで待っても市民の食卓には何も届かない。プーチン指揮下の食料調達機関の関係者が、注文を出したふりをして、ごっそりと公金横領をしていたのだ。

民主活動家のガリーナ・スタロボイトワらは、市職員らの犯罪を暴こうとした。市議会議員のマリナ・サリエは、担当のプーチンに目を付けて、調査を進めた。

だが、この時はサプチャク市長が盾になった。彼自身も横領に加わっていたからだ。プーチンは後年、「本当は何があったのか?」という取材に、「当時は大混乱の時代だった。悪徳企業は、証拠を残さず跡かたなく消えてしまった」という趣旨の回答をしている。

この返答は、彼らしくない。プーチンが本気に怒れば、真犯人をとことん追い詰めただろう。ソ連崩壊の直後から、元スパイは、一般市民が夢想もできない犯罪の世界に踏み込んでいた。

汚職を調べた人が次々と消えた〉

さて同じ頃、米国に現れたエリツィン大統領は、別のペテンを披露した。ブッシュ大統領と並んで「冷戦時代は終わった」と、アピールしたのだ。

9カ月後に再選を控えたブッシュには、「冷戦を終わらせた男」という勲章が付いた。米露の宣言は、一枚の紙に収まる。

筆者は、この年の大統領選の取材で、米国内を歩き回っていた。旅先でニュースを見て、感概にふけった覚えがある。米国はこの首脳会談の直前に、6億4500万ドルの支援を約束した。当時の円換算で800億円ほどだった。

口約束と一枚の紙で、新生ロシアは西側から次々と巨額のカネを引き出していった。新生ロシアが、ギャング映画でも描けないような犯罪天国になっているなどとは、米政府はまるで考えていなかった。

支援の多くはひも付きで、ロシアは受け取ったカネで、支援国の農産品を買う仕組みだ。厳密な監査は行われなかった。支援マネーに多数の悪党が群がった。

90年代の半ば以降、プーチン周辺を調べた人々に次々と異変が起こった。スタロボイトワは98年11月、サンクトペテルブルグの自宅前で射殺された。この時、プーチンKGB後継組織の連邦保安庁(FSB)長官だった。

サリエは2000年、プーチンが大統領に就任した直後、忽然と姿を消した。ごく親しい人々には、「あの男(プーチン)が権力を握った以上、消えるしかない」と語ったという。バルト海近くの寒村で、12年に死去した。

冷戦は1992年には、終わらなかった。ブッシュを破ったビル・クリントン大統領は、「G7」(主要7カ国)にロシアを加えた「G8」の枠組みを98年に作ったが、これは間もなく形骸化した。今のプーチン政権は、自由民主主義のふりさえしていない。

プーチンと東西冷戦〉

○1952年10月…プーチンレニングラードに生まれる

○1985年…KGBスパイとして東ドイツに赴任

○1990年…故郷レニングラードに戻り、市の幹部職員に

○1991年8月…クーデター事件。プーチンは「KGBを辞任」

○同年12月…ソ連消滅。プーチンは食肉輸入業務を担当

○1992年2月…エリツィン、ブッシュ両大統領「冷戦終結」宣言

○同年冬…ロシアの食料不足深刻。プーチンに不正の疑惑

○1996年6月…プーチン、大統領府で勤務開始。中央政界に

○1999年8月9日…プーチン、第一副首相。16日、首相に就任

○同年12月31日…エリツィン辞任に伴い大統領代行に就任

以上の内容は、以前から知られているが、詳細については忘れていた。プーチンの本質を理解するためには、是非とも知っておくべき知識と思う。

ところで、以前に読んだ本「プーチンの実像ー証言で暴く『皇帝』の素顔」(著者=朝日新聞国際報道部〈駒木明義、吉田美智子、梅原季哉〉、2015年10月30日第1刷発行)によると、プーチンがまだサンクトペテルブルグ第一副市長時代に、米国の元国務長官キッシンジャー(1923~)に会っている。その際、プーチンが「実は情報機関で仕事をしていました」と打ち明けると、キッシンジャーは「きちんとした人間は誰でも情報機関から始めるものだ。私もそうだ」と語り、二人は意気投合したという。

この話は余録として、本筋はキッシンジャーが「私は、ソ連が東欧からあまり急いで出て行くべきではないと考えていた。正直言って、私はなぜゴルバチョフがあんなことをしたのか今もって理解できないんだ」と言った。

それに対して、プーチンキッシンジャーの言葉を紹介した後、こう語った。

「私は、彼からそんな言葉を聞こうとは思ってもみなかった。私が当時彼に言ったことを、ここでも言おう。キッシンジャーは正しかった。もしもあんなに慌てて(東欧から)出て行かなかったならば、私たちは多くの問題を避けることがてきたのだ」

こうした思想的背景を知ると、04年にモスクワに近いバルト3国のNATO加盟で東方へ拡大したことを捉えて、プーチンは05年4月の連邦議会で「ソ連の崩壊は20世紀の世界における最大の地政学的惨事だ」という有名な演説したことは理解できる。そして、その現実を変えて「旧ソ連圏をもう一度支配する」ことを一貫して目指してきたことが、現在の好戦的なウクライナ危機を招いたのだ。

要するに、プーチンは東西冷戦終結後の国際秩序を受け入れられず、とりわけNATОの「東方拡大」を問題視し、冷戦終結当時のゴルバチョフエリツィンの対外政策に不満を持っていた。これを米国の大国際政治学者・キッシンジャーが指摘したのだから、ますます自分の思考に自信を持った。その意味では、キッシンジャーは余計なことを言ったものだ。

さて、ウクライナ情勢が緊迫する中で本日、プーチン大統領を最上級の来賓に据えて、北京冬季五輪の開会式が行われる。だが、93年に国連総会で初めて「五輪休戦決議」が採択されたにも関わらず、ロシアは08年8月7日の北京五輪開会式の日に軍部隊がジョージアへ侵略(5日間戦争)し、さらに14年3月のソチ冬季五輪では閉幕式4日後に、ウクライナ領のクリミア半島を武力で併合した。そこで国連は、昨年12月に中国やロシアなど173カ国が共同提案国となって、再び「五輪休戦決議」を採択したが、過去の歴史を知ると、ロシアのウクライナ侵略は北京冬季五輪の閉会式の翌日(2月21日)という報道は無視できず、気の落ち着かない北京冬季五輪になってしまった。