表面的な友好事業の日露姉妹都市交流

3月12日付け「朝日新聞」(夕刊)に、見出し「ロシアと交流 悩む姉妹都市ウクライナ大使館、一時『断然』を」という記事が掲載された。その前文記事には、

ーロシアのウクライナ侵攻を受け、在日ウクライナ大使館がツイッターで、ロシア国内の都市と姉妹都市関係を結ぶ日本の自治体に関係の断然を呼びかけた。呼びかけられた自治体の一部から困惑の声も上がる。同大使館はその後「行き過ぎだったかも」と投稿した。ー

というもので、ロシア側と姉妹都市関係にある北海道石狩市、東京都、広島市山口県長門市、札幌市などの対応が紹介されていた。

そこで、吾輩は昔「日中姉妹都市」の業務を行った経験から、日露姉妹都市提携の現状を知りたくなり、ネットで調べると締結数は48組だった。それを1958年の舞鶴市ーナホトカ市の締結以後を年別にみると、61年1組、65年1組、66年2組、67年2組、69年1組、70年1組、72年4組、75年1組、76年1組、79年2組、82年1組、90年2組、91年8組、92年9組、93年1組、94年2組、97年1組、98年2組、01年2組、10年1組、17年1組、18年1組、19年1組だった。また、日本の姉妹都市(自治体)提携数をみると、北海道19(道、札幌市、函館市2、小樽市旭川市釧路市北見市留萌市稚内市3、紋別市名寄市根室市石狩市天塩町、東川町、猿払村)、石川県5(県、金沢市七尾市能美市小松市)、山形県(山形市酒田市村山市)・新潟県(新潟市3、加茂市)各4、秋田県(県、秋田市)・京都府(府、舞鶴市)・大阪府(府、大阪市)・兵庫県(県、洲本市)各2、青森県(県)・東京都(都)・富山県(県)・福井県(敦賀市)・鳥取県(県)・島根県(県)・広島県(広島市)・山口県(長門市)各1の順に多い。

一方のロシア側は、サハリン州(提携自治体)16、沿海地方11、イルクーツク州5、ハバロフスク地方4、ブリヤート共和国2、ノボシビルスク州・サハ共和国ユダヤ自治州・モスクワ市・レニングラード州ボルゴグラード州・クラスノダール地方各1の順に多い。

以上の日露姉妹都市提携を分析すると、1990年までのソ連時代に締結したのが18組で、ソ連崩壊時の91・92年には急増して17組だった。また、提携している都市を見ると、日本側は北海道と日本海沿岸部、ロシア側はサハリンと極東が断然多いことが解る。さらに、日本との姉妹都市提携数が米国458組、中国379組に比べると、日米間の約10分の1、日中間の8分1という少なさが日露間の特徴点と言える。

それでは、そもそも日露姉妹都市提携は、どのような背景から締結されてきたのか。ある官庁が1985年8月に作成した資料から考えてみたい。

〈日ソ姉妹都市活動をめぐるソ連側態度の推移〉

日ソ間の姉妹都市活動は、日ソ国交回復(昭31)2年後の昭和33年に舞鶴市がナホトカ市にソ連抑留者帰還業務の円滑化を図るとの人道的立場から提携を申し入れたのが始めである。しかし、この時期、ソ連は国交が回復したとはいえ、戦後における東西冷戦構造が定着する中で、サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約の締結等西側の一員としての立場を明確にした我が国に対し、反米勢力を結集して日米離間を図り、日本の中立化を実現するとの戦略で臨み、日共をはじめ左翼勢力との連帯を重視する反面、我が国自治体との姉妹都市提携などには冷淡であった。このことは、舞鶴、ナホトカ両市の提携成立に3年の歳月が費いやされたことからもうかがわれる。

ソ連姉妹都市提携に積極姿勢を示すようになったのは40年代に入ってからであり、ソ連側のアプローチによって40年2組、41、42年各1組、43年2組と提携成立が続いた。こうしたソ連姉妹都市提携に対する積極姿勢は、36年と39年の2度にわたるミコヤン第1副首相(当時)の来日に象徴されるソ連の新たな対日政策の展開によってもたらされたものであった。ミコヤン第1副首相は、2度にわたる来日で、ソ連の平和共存政策とソ連市場の有望性を精力的に宣伝するとともに、我が国政・財界とシベリア共同開発問題について懇談を重ねるなどしたが、当時、ソ連は、それまでのイデオロギーに基づく対日強硬姿勢から経済協力問題を軸とする対日宥和政策に転換、それに伴いアプローチの対象も左翼勢力から政・財界、更にマスコミ、自治体などを重点志向するようになった。

このため、ソ連姉妹都市提携に対する狙いも国家体制の相違からくる対ソ不信感の除去及び、地方レベルでの経済交流の拡大など日ソ経済協力促進の基盤整備を図ることに置かれた。例えば、この時期の姉妹都市協定文の多くにはソ連側のイニシャチブによって、「日ソ間の経済、文化交流の促進に協力する」(新潟・ハバロフスク)、「両市の姉妹都市提携が両国の経済・文化交流の発展、友好を促進することを確信する」(金沢・イルクーツク)などと日ソ友好関係の強化や経済協力関係の促進を共通の努力目標とすることがうたわれた。また、交流を通じソ連側は、貿易の拡大を訴えたメッセージを手交したり(舞鶴)、経済交流拡大の必要性を盛り込んだ共同声明の発表を呼びかける(新潟、横浜)などの働きかけを行い、更に経済分野で重要な地位を占める関西地方都市への姉妹都市提携の呼びかけを積極化した。

その後日ソ間では、サプライヤーズローンベースによるシベリア共同開発プロジェクトの実施(3件、昭43〜46)、バンクローンの対ソ供与決定(昭48)など経済関係の深まりがみられ、また、政治関係でも、北方領土の帰属問題を解決するための日ソ平和条約締結交渉の開始について合意(昭47)されたりしたが、国際的には、ベトナム和平(昭48)に前後してソ連の軍事増強路線に対する警戒心が米国等西側諸国に強まり、極東地域においては、ニクソン米国大統領の訪中(昭47)、日中国交正常化(昭47)などソ連の軍事政策を意識した動きが強まった。一方、我が国と国交回復した中国も1980年代に達成すべき任務として「反ソ反覇権統一戦線」の構築を掲げ、我が国を場としてソ連脅威論の展開、北方領土返還要求運動の高揚などを働きかけるようになった。

こうした状況下で、ソ連の日ソ姉妹都市に対する狙いは、自治体の対中傾斜や北方領土返還要求運動をけん制することに置かれ、提携対象も、北方領土返還要求運動の盛んな北海道と親中国色の濃い関西地方の諸都市に志向された。このため、46年から51年にかけて北海道で4組、関西地方で2組の提携が成立したが(この間の全提携数は8組)、この時期の姉妹都市協定文には「日ソ平和条約の締結を図るよう努力する」(稚内・ネベリスク)との一項が挿入されるなどした。これは、ソ連側として北方領土問題を棚上げした形での平和条約締結促進運動の推進を日本側に期待したものであり、交流を通じて、北方領土返還要求運動の反ソ性を指摘しつつ、その形がい化を意図した働きかけが執ように繰り返された。また、関西地方では、例えばキエフ市と姉妹都市提携した京都市に対し、49年10月に中国・西安市代表団が京都を訪問することになったことを捉え、その直前にキエフ市親善使節団を受け入れ、盛大な歓迎行事を催すよう要請するな

ど、中国を意識した働きかけが行われた。

昭和54年12月のソ連軍によるアフガニスタン侵攻は、ソ連の軍事戦略、軍事増強路線の実態、危険性を強く印象付け、我が国など西側諸国の対ソ経済制裁措置、平和戦略の発動を促す結果となるとともに、ソ連に対する警戒心を著しく高めたが、それに伴い、ソ連姉妹都市提携・交流に対する狙いも我が国国民間の対ソ警戒心、ソ連脅威論の払拭に重点が置かれるようになり、北方領土問題など日本国民を刺激するような問題への言及を意識的に避けつつ、ソ連の対日友好・平和姿勢を強調し、友好・文化・スポーツ交流の拡大に努めてきている。

以上の文章を読むと、いかにロシア側の対日宥和政策や中ソ対立などの政治的な思惑で日ソ姉妹都市提携が実現し、現在の日露姉妹都市提携に繋がっているかが良く解る。そのため、主な交流事業費は両市代表団の親善訪問、両市青少年・文化交流、展覧会の相互開催などの支出になっている。つまり、市民などが心底から望んでの姉妹都市提携ではないので、低調な交流事業iになっていることを考えると、在日ウクライナ大使館のツイッターを契機に、もう一度日露姉妹都市提携を見直すチャンスなのかもしれない。

以上のような実態であるためか、19年6月29日のプーチン大統領訪日の際に決めたという「日露地域・姉妹都市交流年」(日露地域交流年)が、20~21年をコロナ禍の影響で1年延期して、昨年11月から今年末まで開催される。今年1月29日の開会式(札幌コンベンションセンター)では、林芳正外相のビデオメッセージやロシア・経済発展相のメッセージが代読されたが、まことに“ピントはずれ"の催しになってしまった。誰だ、裏から仕掛けている政治家は…。

すなわち、ロシアは第二次世界大戦末期に、日ソ中立条約を一方的に破棄し、北海道占領をもくろんで南樺太と千島列島を不法占領し、現在に至っていることをロシア側は完全に無視しているが、我々は今、歴史の大きな転換点に立っていることを自覚するべきである。つまり、多くの日本人は“ロシアはろくでなし国家"であることを理解しているが、今後は多数のウクライナ国民の死をもって、国際的に我が国の立場を支持する国々が増えることが予想される。それを考えると、今後“絶好の北方領土奪還の好機"が訪れると予想でき、その時には絶対にそのチャンスを逃がさない覚悟が重要であるのだ。