松山千春と中島みゆき

6月12日午後8時30分から2時間、NHKBSプレミアムで放映された「伝説のコンサート 松山千春」(1999年12月放送の再放送)を観て堪能した。千春に関しては、以前から歌声以外の素行で“悪い話し"を聞くので、それなりに関心を持っていた。さらに松山千春(昭和30年12月生、足寄高校)と、同じ十勝管内の高校を卒業した中島みゆき(昭和27年2月生、帯広柏葉高校)は、若い時分から北海道出身の歌手、そして同じ時代、同じような環境で高校生活を送っていたので、なおさら関心を持ってきた。

番組の中で千春は、最初に人前で歌ったことを振り返り、「高校1年の6月か7月、文化祭のステージで2・3年生が歌い終わった後、司会者が『1年生で歌う人、いますか』と聞かれ、周りの同級生から『お前しか歌う奴はいない』という声に押されて、初めてステージに上がった。歌い始めると、どういうわけか、会場の電灯が消えたが、最後まで歌い続けた。歌い終わると、暗闇の中から拍手が沸き起こった時、歌の魅力と歌の力を感じた」と述べていた。

当時の高校生は、今に続くフォークソングに感化された生徒が多かった。それは、千春と同じように、親からギターを買ってもらい、自分でフォークソングの楽曲を作る生徒が多かったということだ。また、当時は「グループ・サウンズ」が全盛期であったので、非行につながるというエレキギターも器用に演奏する生徒もいたのだ。

例えば、もう半世紀前のことであるので細かいことは忘れたが、我が遠軽高校の体育館で生徒によるエレキギターの演奏を聴いたことがある。その時は、学校祭の時(7月)か、秋の全校生徒が集まった時かは忘れたが、男子生徒4〜5人が体育館のステージに上がり、エレキギター数台とドラムスを含めて見事に演奏(約20分)を行った。エレキブームという時代背景があったものの、その中の一人は体格が大きな柔道部員であったので、なおさら驚いたのだ。

当時、全校生徒の半数が鉄道やバス通学であったので、エレキギターを演奏するのは、遠軽町の街中の生徒たちであった。それは街中の生徒の家庭は裕福であったし、時間的に余裕もあったので、必然的に街中の生徒になった。

ついでに、もう一つの思い出話しをするが、それは男子生徒全員の一律「丸刈り」のことだ。当然のことに男子生徒の中には、丸刈りになることを嫌う者がいた。吾輩的には、既に中学1年の夏に、母親から「暑苦しいから、坊主頭にしては」と言われ、思い切り丸刈りにしていたので、どうでも良い問題ではあった。

ということで、2年生修了の時(3月末)、校長が全校生徒の前で「学校に要望することがありますか」と問いかけた。これに対して、周りの男子生徒(特にラグビー部員)が、生徒会役員を務めていた吾輩に対して「丸刈りのことを言ってくれ。お前しか、言う奴はいない」という声に押されて立ち上がった。校長に「丸刈りを嫌がっている生徒がいるので、多少髪を伸ばして五分刈りとか、スポーツ刈りにしてほしい」と発言したところ、校長が逆に「今の意見に賛成の人は、どのくらいいますか。手を挙げて下さい」と言った。それに対して、2割程度の生徒しか手を挙げないので、本当にガッカリしたことを覚えている。それでも、卒業までにスポーツ刈りまで緩んだことを考えると、当時の校長は開明的な人物であったのかもしれない。

中島みゆきについては、生のコンサートを観たことはないが、昨年秋に映画館で15年前のコンサートを観た時には、改めて中島みゆきの歌声の素晴らしさに感動した。中島の楽曲については以前、音楽評論家が「中島みゆきの音楽は一種の『軍歌』である」と書いていたが、確かに中島の音楽は、元気が出る楽曲が多いので、まんざら間違いではないと感じている。

そういうことで当時、音楽好きの高校生は、ギターを抱えて、フォークソングの楽曲を作ることが一つのブームになっていた。だから、千春と中島が北海道出身者として、長年フォークソングの二大スターとして活躍する姿を見ると、多くの音楽好きの若者の中から“才能と運"でのし上がってきたと考えている。それくらい、我々の世代には、音楽に親しむ生徒が多かったのだ。

以上の話しを、東北地方ナンバーワンの進学校を卒業した友人に尋ねると、「我々の学校には文化祭はなかった」という回答であった。道理で、高校時代のテレビ番組について全く知らないので、勉強に勤しんでいたようだが、そういう高校生活も一方であったのだ。

いずれにしても、1970年前後の田舎高校の雰囲気を伝えるために書いたが、どれだけの人が理解してくれたやら。どうですか、今より音楽に夢中になった生徒が多かったと思いませんか。それを理解してもらえれば、長々と書いた意味があります。