陸上競技ファンなら知っておきたい事

東京五輪代表選考会を兼ねた陸上の日本選手権が始まったが、その前に陸上競技ファンにとって、非常に勉強になる新刊本「日本陸上界の真実ー日本スポーツ界の重鎮が正直に書き遺す。」(著者=元日本陸上競技連盟専務理事・帖佐寛章〈1930年6月7日生まれ〉、2020年12月25日第1版第1刷発行)を書店で発見した。著者の帖佐氏は、順天堂大学陸上部を長らく指導して、日本学生対抗選手権では男子総合初優勝から16連勝という快挙を達成し、箱根駅伝では強豪校に育てた。そして育てた選手の中には、男子五千㍍で世界的に活躍して、エリザベス女王から2度も直接表彰を受けた澤木啓祐(1943年12月生まれ)もいる。

また、日本陸上競技連盟の役員として、強化委員長を8年、専務理事を16年務めた。その間に、1979年に世界初の公認女子単独マラソンである東京国際女子マラソンを立ち上げ、さらに女子長距離の選手強化のために都道府県対抗女子駅伝を創設するなど、男女の長距離種目の強化に務めた日本陸上競技連盟の重鎮である。

そういうことで、取り上げたい話題は多々あるが、紙幅の関係から2つのテーマに絞った。

〜新国立競技場にはトラックを残し、頻繁に陸上大会を行え〜

2014年5月に56年の歴史に幕を下ろした国立競技場。直前の13、14年にゴールデングランプリが行われた。最高峰の大会である世界選手権が開催されたのは、私が運営本部長を務めた1991年の第3回大会が最後だった。

東京オリンピックパラリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場は、五輪が終われば神宮外苑軟式野球場につくった仮設の補助競技場(サブトラック)は撤去される。そうなると第1種競技場から第2種以下になり、日本陸連の規則上、国際大会はもちろん、日本選手権も開催することができない。それどころか、陸上競技自体が行えなくなるかもしれない。

新国立競技場の維持管理費は年間約24億円もかかるという。収益性を考え、球技専用スタジアムに改修されることが17年11月に閣議決定されているからだ。ここにきて、「陸上トラックを残すべきだ」との声が多くなり、国が方針を転換する可能性も出てきたが、どうなるかはわからない。

すでに1964年の東京五輪の会場はない。今回のオリンピックを開催するメインスタジアムからも陸上トラックが消えて、何が「レガシー」だ。オリンピックの会場で陸上大会ができないなんてバカな話はない。この国はカネの話ばかりで、スポーツ文化というものを理解していない。カネ、カネというのなら、そもそも国立競技場を建て替える必要があったのか。日本陸連の尾縣貢専務理事に会った時、「陸上トラックは残して小、中、高生の全国大会などを頻繁に行うべきだ。国際大会についてはルールを変えれはいい。国立競技場は第2種とか第3種ではなく、特例で特種競技場にすればいいんだ」といったら、彼もうなずいていた。オリンピックの舞台で走ったり、跳んだり、投げたりすれば、皆感動するはずだ。

国際大会に関しては補助競技場の問題がある。堅苦しく考えることはない。外国にはサブトラックがなくても国際大会を開催している例がある。たとえば、金栗四三三島弥彦両氏が日本人で初めて参加した1912年のストックホルム五輪の会場だ。メイン競技場では、67年から国際大会の「DNガラン」が行われている。ここにはサブトラックがなく、選手は競技場外の森の小道やバックストレートで調整する。それでも中・長距離では世界記録が頻繁に出ている。

52年のオスロ(ノルウェー)冬季五輪の会場になったビスレット競技場では、65年からビスレットゲームズ(オスロ国際)が行われている。順大の教え子で今は指導者になっている臼井淳一(日本選手権走り幅跳びで8度の優勝)が2019年、初めて現地を訪れたので印象を聞いたら、サブグランドがなく、バックスタンドの下に調整用のコースが2、3あるだけで驚いていた。私が1966年にいった時には何もなく、世界の一流選手が競技場の玄関に向かう車道でウォームアップしていた。この競技場も「DNガラン」の会場と同様に、トラックコースの一番外側の横がスタンドになっている。選手の息遣いや筋肉の動きまでわかるので陸上ファンには人気だ。

2021年に延期された東京五輪は、トラック、フィールド、ロードで計48種目が行われる。補助競技場がなければ五輪や世界陸上以外の大会では実施種目を絞る手もある。陸上選手や関係者は新国立競技場にトラックを残すため、是非とも声をあげてほしい。

さらに茶話(そういえば…)として、陸上競技場の歴史などについて次のように書いている。

ー「日本陸上競技連盟70年史」によれば、競技場認定規定は1929年の甲種、乙種から始まり、34年から丙種が加わった。37年より第1種、2種、3種となる。終戦後第4種、66年に第5種(2007年廃止)が制定された。

日本選手権や国際大会を開催できる第1種競技場として認定されるには、陸連の規則上1周400メートル、8レーンの全天候舗装の補助競技場(サブトラック、公認第3種登録相当)を併設することが義務づけられている。旧国立競技場の敷地内にサブトラックをつくれなかったことで、58年3月の開場直後に行われたアジア競技大会の時は、東京体育館敷地内に1周200メートル(5コース)のトラックを新設。その後、代々木公園陸上競技場(第3種公認=全天候型400メートルトラック、8コース)も補助競技場として第1種とした。91年の世界選手権では、64年、2021年東京五輪と同じく、神宮外苑内の軟式野球場に仮設のサブトラックをつくった。青木(半治)会長の時代に、競技場を認定する施設用器具委員会から、「国立は補助競技場がないので第1種から外します」といわれたことがある。その時青木さんは「国立の競技場ですよ。第3種にしたら国は怒りますよ。そのまま第1種にしておいた方がいいのではないですか」といって、そのまま今日まできた経緯がある。

過去の夏季五輪開催地では、補助競技場まで残しているところは少なくない。ざっとあげても1932、84年のロサンゼルス、60年ローマ、68年メキシコ、88年ソウル、2008年北京、12年ロンドンなどがそうだ。ー

吾輩も、新国立競技場の行く末が心配になり、2019年7月4日に題名「新国立競技場は陸上トラックを残す、万々歳!」という文章を作成した。ところが帖佐氏の文面を読むと、未だに新国立競技場の活用方法が決まっていないという。なんといったらよいのか、悲しい現実を突きつけられた感じだ。

引き続き、帖佐氏や順天堂大学陸上部、そして澤木選手にとっても非常に重要であった、今に続く高校長距離選手に対するスカウト合戦についてである。

〜「高嶺の花」に挑む〜

転機が訪れたのはスーパースターとの出会いだった。

1961年春、小田原(神奈川)で高校の有望選手を集めた合宿が行われ、陸連強化コーチの私も参加した。そこに、前年のインターハイ、国体で1500メートル、5000メートルの2冠を取った澤木啓祐(大阪府立春日丘高)がいた。スピードがあり、さすがにいい走りをしている。喉から手が出るほどほしい選手だが、無名の順大には高嶺の花だ。

合宿が終わってどのくらい経った頃だろうか。親友の長野元泰から手紙がきた。

「澤木が帖佐の指導を受けたいといっている。誘ってみろ」

夢かと思い、目をこすってその手紙を何度読み返したことか。長野は香川県高瀬高、東京教育大陸上部の同期生で、大学4年時には円盤投げで日本選手権に優勝している。卒業後は大阪で教師になり、澤木の在籍する春日丘高校陸上部顧問の高塚泰次郎先生と知り合い、馬があった。長野は後に大阪陸協理事長になり、大阪国際女子マラソンなどの成功に尽力した。

「澤木の練習日記に、帖佐さんの指導を受けたいと書いてあったぞ」

長野は高塚先生からそう聞いたそうだ。

ほどなくして、澤木のいる大阪詣がはじまった。大学、OBからの経済的支援はまったくない。選手勧誘の資金は、スポーツ紙の連載や原稿料、テレビ解説などで得た収入を貯めておいたものを充てた。

東京、大阪間は7時間30分の長旅。新幹線はまだない時代だ。特急「つばめ」でも6時間30分。宿は和歌山の姉のところや長野が住んでいた2DKの県営住宅、吹田市の高塚先生宅にもお世話になった。

当時の澤木は家庭教師について、自力で早大合格を狙っていた。裕福な家庭だった。

「どこの大学へいくにしても、授業料免除の特待生にはなりません」

そんなことを申し出る親ははじめてだった。

毎回特急に乗車するわけではないが、往復の電車賃は安くはない。1度大阪へいったら澤木の両親に会わずして帰京できない。現地入りしてから澤木の自宅へ電話をすると、元早大コーチの中村清さん(当時東急監督)や中大の西内文夫監督が訪問していることもある。そんな時は大阪に2、3泊しなければならない。翌日の講義を大西(暁志=陸上部コーチ)君に頼んで、改めて澤木家にいった。

伝統のある有名大学との争奪戦は難航を極めた。無名の順天堂大学に引っ張るのは容易ではない。澤木と両親、学校の説得は何度も暗礁に乗りあげた。澤木の父親は左党でパチンコが好きと聞いたのでおつき合いしたこともある。

大阪の滞在が長くなった時は、難波高島屋の左側にあった季節労働者がよく使う簡易宿泊所にも泊まった。障子の破れた個室で1泊300円ぐらいだった。

澤木の両親に何度会っても話は進展しない。

「長野、ここまで返事を延ばされたらたまったもんじゃないぞ。もう手をひきたい」

「ずっと頑張ってきたんだ。我慢だ。我慢しろ」

心が折れそうな時、長野の激励が支えになった。

結局、大阪には16回も通った。もちろんすべて自費だ。

私の熱意が通じたのか、1月に入り、澤木の順大志望の確信を得た。奇跡が起きたのだ。陸上界に衝撃が走り、全国の有望選手が相次いで順大入りを志願した。「無名の新興大学」に追い風が吹きはじめた。

(中略)

澤木の入学前年までは、順大は箱根駅伝で2桁順位が続いていた。1963年の第39回大会は澤木ら5人の1年生を抜擢し5位に躍進。翌年からも5位、3位と上位に食い込み、優勝が夢ではないところまできた。

奇しくも監督就任10年目。澤木が4年で迎えた1966年の第42回大会で順大は総合優勝を果たす。11時間20分1秒。当時として驚異的な記録だった。

澤木選手(当時・順天堂教員)のレースで一番覚えているのは、1967年に東京で開催された「第5回ユニバーシアード」の一万㍍で、米国の有力選手を強烈なラストスパートで引き離して劇的な優勝を遂げた場面である。それくらい、澤木選手のラストスパートは素晴らしく、課題はどこまで有力選手に付いていけるかであった。

また、順大駅伝部の監督時代に関しては、宇都宮市内に居住していた1995年ころ、栃木県立陸上競技場で見かけたことがある。それは当地で「関東高校陸上競技選手権大会」が開催(6月)されたので、北関東と南関東の五千㍍のレースを観戦するために、薄暗くなった競技場に赴いた時である。その際には、最終種目ということからか、直接グランドに入ることができ、ゴール付近に行くと、箱根駅伝に出場している大学の監督など関係者が多数集まっていた。レースが始まると、澤木監督を始め関係者は、レースを見ながら熱心にメモを取っていたので、吾輩は「この時期から有力な選手を見極めるために、箱根駅伝の関係者は地方まで出掛けて勧誘しているのか」と考え、この時はレース展開のほかに各監督の動きにも注視したものだ。

そういえば、澤木夫人は北海道湧別町の出身者と記憶しているが、間違っていたらゴメンナサイ!