3月3日のネットを見ると、毎日新聞が次のような記事を配信していた。
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〈戦後開拓者の苦闘「残したい」 札幌の元教員が自費出版〉
太平洋戦争終結間際の1945年7月以降、国は空襲の被災者や海外からの引き揚げ者を農業に従事させ、全国各地の開拓を推し進めた。こうした「戦後開拓」について、札幌市手稲区の元教員、菊地慶一さん(88)が自身の体験や道内入植者の苦闘をつづった本を自費出版した。菊地さんは「戦争の末に原野で過酷な体験をし、志半ばで開拓した土地を離れた人々の歴史を残したかった」と話している。
同月、北海道釧路市内で暮らしていた菊地さん一家は空襲に見舞われた。当時、尋常高等科1年(現在の中学1年)。両親に連れられ、姉、妹3人と共に大雪山系北方の白滝村(現・遠軽町)に疎開した。
すみかは、隙間から雪が入り込む粗末な掘っ立て小屋。水道もガスもない。荒れた山に畑を作り長い冬をしのいだ。11月、結核だった姉は亡くなった。
翌年、「緊急開拓要員」として土地が割り当てられた。ただ、クマザサと低木が生い茂り、石が転がる谷間の傾斜地。結核で体の弱い父、母と共に作業するが、クマザサの根は深く開墾は進まない。それでもソバや豆をまき、わずかながら収穫し、なんとか開墾した。
しかし約5年後、開墾の成否を判定する「成功検査」は不合格。離農の通告を受けた。「血たんを吐きながら開いた土地が一坪も手に入らないまま、父の開拓は終わった。せめて自分の土地になれば報われた」
当時、多くの入植者が甘い誘い文句を信じ入植したとされる。「将来土地をもらえる」「農具や種も無料」「生活費や食糧も配給する」ーー。政府は、土地の調査や住宅確保などに「最低3年かかる」と難色を示した道の意向を押し切り、入植を進めた。住宅も整わない極寒の荒れ地に戦災者を放り込むずさんな事業は、後に「人間放牧」「棄民政策」と批判された。
菊地さんは中学卒業後、開拓地を離れ代用教員となり、網走管内を中心に小学校や高校などで教壇に立った。流氷や北海道空襲などの郷土史を本に残す傍ら、戦後開拓の調査も進めてきた。
調査では開拓に失敗し、離農した人々に会うことにこだわった。大阪市にまで足を延ばしたこともある。「苦難の末に土地から追い出されることへの怒りがある。彼らの思いはどこに行ったのか、たどってきた」
今回、こうした記録を「黄色い川ー北海道戦後開拓・離農農民誌」にまとめ自費出版した。タイトルは開拓時代に見たヤチブキ(エゾノリュウキンカ)の花の色にちなむ。川のように筋となって咲いていた光景が浮かぶ。
ある日、大阪からの入植者がヤチブキを大量に荒縄で縛り、持ち帰る姿を見た。若いヤチブキは食料になるが、持ち帰ったのは花が咲き、とても食べられない代物。それほど困窮していたのだろう。明治時代に開拓に携わった人々から「よそ者扱い」された戦後の入植者たちの苦闘の象徴が、ヤチブキの「川」という。
戦後開拓により、開かれた土地のほとんどは廃村になったり、原野に戻ったり、機械化・大規模農業化した農場の一部になったりした。明治期の開拓が時に脚光を浴びる一方で、戦後開拓が語られることは少ない。「戦後開拓の発端は戦争。弱者に優しい施政者がいれば、開拓地に入植者を根付かせることもできただろう。国は戦後のさまざまな問題を置き去りにしてきた」
本は271ページ、1400円
※戦後開拓
太平洋戦争(1941〜41年)末期から終戦直後にかけ、都市空襲の戦災者らを農業に従事させることで開拓を試みた政府施策。各都道府県は食糧事情の逼迫などから農業経験を問わず募集した。道内では49年までに2万7000世帯が開拓地に入った。山林や原野など耕作条件の厳しい土地を割り当てられたため生活は困窮を極め、同年ごろには4割が離農した。
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吾輩は高校1年時、白滝村(人口のピークは昭和33年の4955人)に住んでいたので、さっそく本を取り寄せるために著者と連絡を取った。本を読むと、著者一家が入植した場所は、白滝駅から南西方向に10㌔以上離れた「九線沢」という所で、吾輩は一度も行ったことがない山深い所であった。それを知ったので、読み進むうちにあれこれ想像して、可哀想な感情が湧き出してきた。だから、吾輩が「遠軽高校を卒業したのですか」と尋ねると、著者(昭和7年生まれ、網走市に在住44年間)は「いやいや、通信教育で勉強した」という返答であった。
ところで、確か2〜3年前か、NHKEテレが、東京の世田谷区民が北海道江別市に入植した番組(約1時間)を放映したので、吾輩は北海道の「戦後開拓」に関しては多少の知識はあった。その世田谷区民の開拓物語りが、本書で詳細に記されているので紹介する。
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〈6 東京部落〉
緊急開拓による集団入植者は全国各県からであるが、なかでも東京、大阪が大半を占め道内開拓地に多くの東京部落、大阪部落をつくり出した。戦後開拓の第1陣は、昭和20年7月東京からやって来た249世帯、1139名であった。7月6日午後2時半、国鉄上野駅に近い東京都下谷区桜ヶ丘国民学校で“拓北農兵隊壮行会"が盛大に行われた。この時激励のことばを述べたのは都知事と警視総監と開拓協会理事長の3人。開拓協会理事長が本道出身の代議士黒沢酉蔵であったことは既に述べたが、警視総監が後年の北海道知事町村金五であったこと、そして戦後開拓収束計画を実施する立場に立ったということは、如何なる皮肉であり因縁であったのか。
「上野駅を“拓北農兵隊を送る歌"で送られる帰農者たちが、各隊に別かれて行進していく姿は「たいていは国民服に戦闘帽、腰に救急袋や防空頭巾をぶら下げ、ゲートルを巻いていますが、靴は軍靴もあればズック靴もあり、代用の鮫皮もあれば擬革紙ありゴム長もある。ひどいのになるとはだしに八ッ割り、もっとおちるとわらじばきのものもいました。荷物はみんな似たり寄ったりです。鍋、釜、バケツ、リュックサック、風呂敷包み、密柑箱、七輪、乳母車、鍬、鎌。…」(開高健、ロビンソンの末裔)が誇張でなく、戦渦の巷から流れていく難民の群であった。
黒沢酉蔵はこの時、1団につき添って北海道に帰り、東京世田谷からの帰農者と野幌駅に下車し、駅前の休憩所で「子孫のために忍んでくれ」と挨拶をした。「どうか元気を出して下さい。頑張って下さい。御相談があれば何時でも私のところへお出かけ下さい」と言ったが、後年「東京の大空襲は苛烈をきわめて、死者、負傷者は勿論のこと、家と職を失い、食糧にこと欠く戦災者の数は、日ごとその数を増し、まさに生き地獄の感がありました。かといって救済するにも方法がなく、拱手傍観、いたずらに時を過ごすのみであったのであります。当時代議士であった老生は、この窮情をみるにしのびず、この戦災者を救う道は、北海道に移す以外にないという決意を固め」と述べている。
また「いまから考えて……時期が時期ですから拙速主義もある程度止むを得ない点があり、机上プランで混乱するところがあったとしてもいたし方がなかった」と言い「考えてみると、あれでよかったのだ」と述べている。
本当にあれでよかったのか。戦災者を放置するわけにはいかないとしたクリスチャンの黒沢の熱意が、政府をして集団帰農計画を実行させたのだが、黒沢はその後の開拓者の御相談をどう受け、どのように処理したのであろうか。
昭和57年2月2日、黒沢酉蔵は96歳の天寿を全うした。「だれよりも北海道を愛し、一番道産子らしい人だった」とその死は悼まれ、どの新聞も大きく報じたが、注意してこれに眼を通して見ると、酪農の父と言われる輝しい経歴、功績の中にどこを探しても「戦災者帰農事業」の中心人物であることにふれていなかったのである。
私は愕然とした。各紙が意図的にそれを省いたと邪推しなければ、どうしても解けない謎と言ってもよかった。それとも北海道開発審議会長を戦後16年間勤め、道開拓功労者として表彰された実力者黒沢酉蔵の生涯にとって、開拓協会理事長の肩書は、とるに足らない一点に過ぎなかったか。棄民政策と酷評され「うまいことばかり言ってだまされた。政府は約束を一つも守らなかった」と今も言う開拓者に酪農の父は生前どのように応えていたのだろう。
江別市角山地区、ここに今も「世田ヶ谷」というバス停留所がある。黒沢酉蔵に「子孫のためにしのんでくれ」と言われた入植者たちが作った世田ヶ谷部落は今もある。ここに入植したもの32戸、そのうち現地に家を建てたのは14戸で、実際に入植したのが12戸であったが、昭和51年の記録では7戸しかいない。
当時は、札幌に近いとは言え、満足な道もなく原野のど真中の泥炭地、そこに元俳優、大学教授、巡査、美術家、音楽家などの都会のインテリが投げ込まれた。丸太の掘っ立てで、土間に草を敷いた住まいは三角小屋と呼ばれていた。窓もない家は昼でも暗く、屋根に穴をあけガラスのかわりに、妻君が看護婦時代に大事にとっておいたガーゼを張りつけて明りをとったという。
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今までのおさらいをすると、「戦後開拓」とは戦争末期の7月、東京、大阪などの戦災者を北海道集団帰農者として募集し「拓北農兵隊」と名付けて移住させたのが発端である。これを敗戦とともに緊急開拓として引きついだのが、国家の大事業「戦後開拓」であった。それにしても戦後、北海道で棄民、人間放牧とまで言われた人々がいたとは、悲しい歴史である。それも、吾輩の少年時代に過ごした街近くにも、このような地域があったとは、今更ながら勉強不足を痛感する次第である。