過激派の内ゲバ犠牲者数は113人

筆者は、以前から過激派の内ゲバで亡くなった人数に関心があった。そんな中、古本屋で「検証 内ゲバ〔PART2]」(発行=2003年1月31日、著書=いいだもも、藏田計成ほか、発行=社会批評社)という本を見つけ購入した。先ずは、内ゲバの犠牲者数を解説した文章から紹介する。

(1)党派内・分派闘争

①ブント内分派闘争(69年)……1名

中核派内ゲバルト(69年)……1名

京浜安保共闘内粛清(70年)……2名

連合赤軍内粛清(71〜72年)……12名

革労協(社青同解放派)内分派闘争(80〜90年代)……9名

(2)党派間・党派闘争

①民青による対革マル派の死亡者(71年)……1名

②マル青同の襲撃による死亡者(75年)……1名

中核派による対革マル派の死亡者(70〜90年代)……48名

革労協派による対革マル派の死亡者(70〜90年代)……23名

革マル派による対中核派、対革労協派の死亡者(70〜80年代)……15名

計113名(『検証 内ゲバPART1』小西誠論文)

この数字が意味する特徴点や問題点を要約しょう。

革共同中核派革共同革マル派内ゲバによる犠牲者が際立っていること。

革マル派革労協派の内ゲバがそれに続いていること。

革労協派内部の内ゲバでも多くの犠牲者を出していること。

連合赤軍の場合は、指導部による組織内粛清であること。

連合赤軍を含めた上記四党派以外の他の新左翼諸党派は、数字でみる限り「肉体的抹殺」を前提とした内ゲバを基本的には回避していること。但し、すぐ後で述べるようにその思想的政治的な内ゲバ体質はすべて同根・同質であること。

内ゲバによる重軽傷者延べ数は、上の数字を数十倍、数百倍の規模で上回るだろうということ。

新左翼諸党派の内ゲバが全面化した時期は、60年代後期から開始された「70年安保・沖縄・全共闘運動」とその後の「三里塚闘争」の激闘の中で、階級闘争史上未曽有の街頭武装闘争の高揚期を背景としていたこと。しかし、中核派革マル派内ゲバは70年代初期〜90年代前期にかけて、また、革労協派対革マル派内ゲバは70年代前期〜90年代前期にかけて、実に20〜30年の超長期にわたる死闘として展開されたこと。

やはり、百人以上の活動家が、尊い命を失っていた。以前、過激派関係の本を読んだ際、「犠牲者数は105人」という数字を見た記憶があるが、正確な数字を把握出来ないでいた。それが「総計113人」ということがわかった。

昔、公安機関の知人が「内ゲバの現場写真を見たことがあるが、それは酷いものだ。確実に殺すために、頭を集中的に襲っているので、脳みそや目の玉が飛び出し、それは悲惨なものだ」と説明した。また、内ゲバで重傷を負った活動家については、「暑い夏場に、内ゲバで重傷を負った活動家の自宅を訪ねたことがある。母親が出てきたが、本人は寝たきりの状態で、玄関口から布団が見えた。あの暑さの中で、つつきりで看病していることを考えると、母親が気の毒になった」と話してくれた。

いつも疑問に思うのは、何故に二十世紀になって、多数の人たちが「マルクス・レーニン主義」という“カルト"に引き寄せられたのかということである。筆者から見れば、旧ソ連、中国、北朝鮮の政治や経済を勉強すれば、共産主義体制が理想の国家でないことは理解できたハズだ。例えば、共産党一党独裁、唯一前衛党という考え方、そして政敵を「スパイ」「敵の手先」として粛清する人権無視の政治体制をだ。ところが、田舎者で多少利口ぶっている人や、想像力が欠如している人が、引き寄せられたようだ。

最後に、著書の結合として「内ゲバ廃絶のための私たちの提案」が掲載されているので紹介したい。

内ゲバが激しかった70年代から、すでに30年余が経過しつつある。その間に、おびただしい血が流された。死んだ人たち、傷ついた人たち、「廃人」となった人たち、心身「障害者」となった人たち、自殺した人たち。その数は、ある種の「戦争」ともいえる数である。

内ゲバは、これら人々の未来を断ち、その時間を、言葉を、日常を奪い、その心と身体を壊してしまった。のみならず、内ゲバはその家族、その地域の人間関係を同じように奪い、壊してしまった。

それは、新左翼の全党派を巻き込んでいたばかりか、日本共産党をも含む日本の左翼運動を覆ってきた「悪業」ともいうべき問題である。その意味で内ゲバは、人間の解放をめざすはずの左翼運動のモラルの崩壊であり、その思想的破綻と退廃・荒廃のあらわれである。この結果、民衆の中に、左翼への絶望と離反を生み、これを忌避する心を育て、今日にいたる左翼運動・社会運動の崩壊的危機の主体的要因となってきた。

見事な説明、分析である。それにしても、多数の尊い命が失われてしまった。合掌!