「産経新聞」の柴田記者が忘れられない

最近、新刊「産経新聞朝日新聞」(著者=元産経新聞論説委員長・吉田信行)を通読したが、重要な視点は朝日と産経の根本的な立ち位置の違いがある。その背景には、朝日は護憲なので、現憲法を守るための原稿以外に書きようがなく、一方の産経は70年以上も前に素人に作らせたGHQ製の憲法を、そのまま放っておけないという立場である。そのため、朝日は「弱い日本」でも構わない、産経は「強い日本」を目指しているので、自ずと報道内容に違いが出るという。

だが、吾輩が注目したのは、いまだに忘れられない「産経新聞」の中国専門家だった外信部記者・柴田穂(1930〜93年)のことだ。そこで、まずは本書で柴田記者の中国に対する報道姿勢が記されているので紹介する。

ー31年間の産経いじめー

今でこそ「親台湾」として知られる産経新聞にも紆余曲折の時代があったことに驚かれた方もいるかと思います。一方で対岸の中国政府、中国共産党との関係は、長く苦しい闘いの連続でした。その歴史の中で、最も誇るべき人物を挙げるとするなら、とりも直さず柴田穂であることに異存はないと思います。

柴田とは、作家の曽野綾子が「鄧おじさん」と名付けたように、鄧小平に似て小太りで中国語を話す、それでいて中国共産党のあり方に鋭い批判の目を向け続けたジャーナリストで、論説委員長としても私の大先輩でありました。

1930年東京都生まれ。東京外国語大学の中国語科卒業後、産経新聞社に入社し、ソウル特派員や北京支局長を務めました。中国の文化大革命については、朝日など他の新聞とは異なる批判的な報道を担い、1967年9月、中華人民共和国を追放となりました。

その後も、中国や北朝鮮に対して、批判的な観点から記事を書き続け、論説委員論説委員長に就任しました。79年には『毛沢東の悲劇』シリーズ、84年には『金日成の野望』を出版し、日本のマスコミや出版社が取り上げない中、北朝鮮の人権抑圧の問題や、在日朝鮮人の帰還問題などを追及し続けたのです。

北京の共産党政府は、そして何より東京の朝日新聞も、この柴田にはさぞかし手を焼いたことだろうと思います。

北京も朝日も、文革は権力闘争ではなく、積極的な意義ある闘争だ、と言い張ったのに対して、柴田は「毛沢東による劉少奇ら党内実権派打倒の政治闘争だ」と見破っていました。ナンバー2だった林彪の失脚についても、朝日は最後まで「党内序列に変化はない」と生存説にこだわったのに対し、柴田はいち早く「失脚は確定的だ」と書き、やがて逃亡中の飛行機事故で林彪が墜落死していた事実が実証されるという具合でした。

文革報道をめぐって産経が追放された67年9月、柴田は二代目の北京支局長でした。朝日以外の日本の報道各社も次々と追放の憂き目にあいましたが、産経だけは北京政府からの様々な要求の受け入れを拒否。そのために、続々と北京に復帰する他社を尻目に98年までの実に31年間、北京に支局を置けないままとなりました。それでも中国報道をめぐっては他の手段を使いつつ、時にはスクープを交えて地道に続けたのです。

これは自画自賛と思われるかも知れませんが、驚くべきことと言わねばならないでしょう。日本人の国民性としては、ちょっとしたことぐらいなら、「長い物には巻かれてもいいか」という安易さや打算の心が宿っているかもしれません。しかし、日常生活なら多少許されることはあっても、支局再開のために日本の他の報道機関が受け入れた北京側の条件は、決して「ちょっとしたこと」ではなかったのです。

産経を除く他社は68年に修正された日中記者交換協定を踏まえ、自らを束縛する対日「政治三条件」を受け入れたのでした。その条件とは報道の自由をギリギリと縛り付けるものでした。

1、中国を敵視してはならない

1、二つの中国をつくる陰謀に加わらない

1、日中正常化を妨げない

それだけではありません。中国の意に反する報道はしない、という言論の自殺行為に等しい約束を受け入れた上、各社が持っていた台湾の台北支局の閉鎖まで受け入れて北京に復帰したのでした。

産経だけが拒否したのです。その後、東京に戻った柴田は連載記事を書き続け、追放された実情をあからさまにしました。柴田はいわゆるプロの中国ウオッチヤーとして、東京で人民日報などの公開情報を丹念に拾い上げて分析を続けました。香港、台湾、ワシントンなどの情報機関からの示唆や、中国専門家との情報交換もあったのでしょうが、基本的には中国内部で発行される資料を基に中国報道を続けたのです。毛沢東の後継者と位置付けられていた林彪の異変を北京にいる現地特派員より早くキャッチできたのはそうした手法の成果でした。

それにしても31年間に及ぶ中国共産党政府のいじめーー産経側から言えば我慢の期間はギネスものでしょう。柴田は北京追放後20年にして脳溢血に倒れ、再起不能のうちに亡くなりました。が、5年後の98年に中国通の編集局長(東京)、住田良能が交渉のため北京と台北を往復しつつ、拠点の再開に漕ぎ着けたのでした。

中国報道では、あまりにも有名な柴田記者であるので、いつか同人のことを書きたいと思っていた。というのも、昔NHKテレビに出演して、他の出演者からやりこめられ“孤立無援の状況"に陥ったことが、いまだに忘れられないからだ。

時は吾輩が学生時代の1970年代初め、現在でも毎週日曜日午前9時からNHK総合では「政治討論」番組が放映されているが、当時も同じ番組が存在した。その時のテーマは、文革林彪問題であったので、出演者は外務省高官と中国問題専門家、そして柴田記者など4人ほどであった。高官や学者は、それなりの高級な背広姿であったが、柴田記者は冴えない顔で、冴えない服装であったことを覚えている。

論点は、本書の中で紹介されているので省略するが、冴えない柴田記者が、他の出演者と違う見解を述べるので、他者からやりこめられるのだ。まさに“孤立奮闘"で、可哀想な感じを受けたことが、もう半世紀前の出来事であるにも関わらず、今でも忘れられない場面になっている。

ところが、年月が経ってくると、吾輩の中国に対する理解が深まり、あの時の論点は“柴田記者の方が正しかった"のではないか、という感情が湧き出てきた。つまり、見るからに賢そうな高官や学者先生の方が、間違った見解を堂々と述べていたことが明らかになった。あれ以来、肩書きや見栄映えで、人の意見を判断してはならないという見方に至った。それくらい思い出深い出来事であった。