横田めぐみさんの父・滋氏の死去を受けて

北朝鮮に拉致(1977年11月)された横田めぐみさん(当時13歳)の父で、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(97年結成)の前代表・横田滋氏が、6月5日に死去(87歳)した。その死去を受けて、購読の朝日・読売・産経各紙を読んだが、6月7日付「産経新聞」の元同紙記者・阿部雅美の寄稿文に涙が出たのと、日本人拉致報道の記録にもなると考えて、この文章を紹介することにした。

ーめぐみさん、お父さんは精魂尽くしましたー

新潟の町から忽然と消えた13歳の愛娘捜しは、手がかりなく20年目を迎えていた。1997年(平成9)年1月21日。定年退職後、自適の日々を送る滋さんに電話の相手は告げた。

「お宅のお嬢さんが北朝鮮で生きているという情報が入りました」

北朝鮮、拉致ーそんなことがあるのだろうか。にわかには信じ難かった。頭が混乱したと妻、早紀江さんも述懐している。同様の情報を得た記者(私)は横田家を訪ねた。真偽定かではなかったが、闇に差した一条の光に、その夜の滋さんは積年の思いが堰を切ったように饒舌だった。

「一日として忘れたことはありません」

黄ばんだ新潟日報紙、人捜しの手配書をテーブルに広げ、現場周辺の地図を描きながら、直前まで少女失踪の事実さえ知らなかった私に「あの日」を分刻みで再現した。

「記事になるんですか」。そう問われた。裏付け取材次第だった。私には古傷があった。遡ること17年ー新米記者だった1980(昭和55)年に北朝鮮による男女4組の拉致疑惑・拉致未遂事件を大々的に初報したが、産経の荒唐無稽な虚報、捏造として葬られた。以来、この非道な犯罪は事実上、日本社会に存在しなかった。そこへ今度は、まさかの女子中学生。情報確認に慎重を期し、紙面掲載した。

《20年前、13歳少女拉致 北朝鮮亡命工作員証言 新潟の失踪事件と酷似》(97年2月3日付朝刊1面)

少女Aではなく、横田めぐみ、と実名で報じた。名前公表による影響を危惧した家族の中で滋さんだけが実名派だった。危険なことはあるかもしれないが、本名を公開して世論に訴えるほうがいいー後に聞いた言葉に救われた。

程なく被害者家族会の代表に就いた滋さんを間近に見てきた。街頭署名活動、全国1400カ所への講演行脚、被害者家族の結束を図りながらのメディア対応…。めぐみさんの「死亡」宣告、孫の出現、被害者5人の帰国と続いた激変の中、人前で父親の心情を吐露することの少なかった滋さんがもらした一言が忘れられない。

「なんで助けてくれないの、といつもめぐみに責められているような気がしましてね」

小泉訪朝の2002(平成14)年9月17日、北朝鮮側の説明をうのみにした政府から「死亡」を告げられた滋さんは記者会見の席で言葉を詰まらせた。代わった早紀江さんは「めぐみは濃厚な足跡を残した」と気丈に話したが、滋さんの足跡もまた、濃く、厚かった。

最後の入院直前の一昨年春、ご自宅で久しぶりにお会いした。2時間余、早紀江さんの傍らで一語も発しなかったが、目には力が宿り、すがすがしい笑みさえ見せた。満足いく結果が得られなかった無念さはあるが、親にできることは全てやり尽くした、そんな充足感ゆえではないだろうか。重い荷を背負って妻と実直に歩んだ過酷な、そして見事な生涯だった。天国に召された今、改めてそう思う。

めぐみさんに伝えたい。お父さんは、あなたと拉致被害者全員を助けようと身を削り精魂尽くしました。お母さん、弟の拓也さん、哲也さんが遺志を継いでくれますよ。

合掌

産経新聞記者・阿部氏は、日本人拉致事件を巡る報道では、あまりにも有名な人です。そして、日本人拉致事件に関して、日本側の報道姿勢を巡る歴史を把握する意味では、阿部氏の寄稿内容は非常に重要である。

それでは、他の大手新聞は、この日本人拉致問題をどのように報道したのか。はっきり言って、何も報道してこなかった。なぜなら、左翼思想(反米親ソ)にかぶれた記者、想像力に欠けた記者、北朝鮮招請で訪朝した記者、朝鮮総連の接待(工作活動の一環)を受けた記者、等々の記者が多かったから、冷戦期に共産主義諸国の一員である「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)の“国家犯罪"を想像できなかった。その意味では、彼らも北朝鮮朝鮮総連と同じとは言わないが、何らかの責任はある。

というのは、吾輩は80年に阿部氏の記事を読んで、何ら北朝鮮の“国家犯罪"を疑わなかった。その理由としては、北朝鮮情報や朝鮮総連員の動きを見ていると、「このくらいのことはやっておかしくない」と感じていたからだ。だから、以前にも記したが、吾輩は約25年前に朝日新聞記者が「日本人の拉致があるハズがない。北朝鮮にどんな利益があるのですか」という発言に対して反論した。その記者は、どのような経歴の記者であるかは忘れたが、当時の朝日新聞記者の意識や考え方、そして朝日新聞社全体の雰囲気を感じたから反論したのだ。

最後は、今でも忘れられない滋氏との対話だ。もう7〜8年前か、都内で開かれた北朝鮮問題の講演会(参加者約50人)に参加した際、ある知人と会場で落ち合う予定であったので、滝上町の友人が送ってくれたジャガイモ約50個を持参して会場に向かった。ところが、知人が急用で不参加になったので、会場を去る際に一人で参加していた滋氏に持参したジャガイモを手渡したという次第である。滋氏は、その後開かれた講演会でも見掛け、ただ黙って聴くだけであったが、少しでも北朝鮮情勢を把握したいという気持ちが伝わり、何ともいえない気分になったことを覚えている。

それを思い出すと、吾輩も合掌です。