毎日新聞が大きく取り上げた吉村昭

11月13日に、吉村昭研究会の桑原文明会長から「先日(10月31日)、毎日新聞の記者さんから私のところに取材に来ました。吉村先生に関する各種資料を数時間調査され、私も質問に答えて協力しました。その記事が、明後日(11・15日)水曜日の夕刊(毎日新聞)に掲載される予定です。」とのメールが届いた。

そういうわけで、11月15日付「毎日新聞」の夕刊を苦労して購入したところ、時の展望台欄で「吉村昭の転換点『戦艦武蔵』/積み上げた史実 小説に昇華」という見出しで、大きく報じていた。そこで少々長めになるが、全文紹介する。

徹底的に史実を掘り起こす手法で「記録文学」を確立した吉村昭(1927~2006年)。純文学志向から、まったくの新境地を切り開く転換点となったのが、66年発表の小説『戦艦武蔵』だった。証言や資料を基にした同作は今年も重版されている。ノンフィクションと小説の境を越える特異な文学が生まれたのはなぜか。吉村が作品に込めた思いを探った。

 

戦艦武蔵」は『新潮』に400枚超の長編として一挙掲載された。同年に少年の集団自殺を描いた短編「星への旅」が太宰治賞を受賞したばかりの文壇の新人としては異例の扱いだったが、世界一の巨艦の極秘の建造から沈没までを克明に追い、戦争を遂行する人間の愚かさを描いた同作は脚光を浴び、作家の方向性を決めた。

東京・日暮里で生まれた吉村は、肺結核の手術を経て、学習院大に23歳で入学。小説を本格的に書き始めた。文芸部の後輩でともに作家を目指した津村節子さん(95)と結婚。働きながら同人誌に発表し、59~62年には計4度、芥川賞に候補入りするも落選。その後、仕事が激務で、一時は創作意欲が薄れていた。

転機が訪れたのは、そんなさなかの65年だった。芥川賞を受賞した津村さんの後押しで退職を決意し、再びペンを握った。出世作「星への旅」とともに、この頃書いたのが三菱重工系のPR誌に寄稿した「戦艦武蔵取材日記」。知人から持ち込まれた、極秘の戦艦武蔵の建造日誌を基にしたルポ風のこの連載が、新潮社の編集幹部の目に留まり、小説化を強く勧められた。

「武蔵を小説にすることは嫌がっていた」。吉村の長男司さん(68)は後に母からそう聞かされたという。吉村はそれまで純文学路線を貫き、現実の事件を基にした実話録の依頼を断ったこともある。「文学とは芸術であり、人を描くもの」というこだわりで、武蔵の小説化を何度も断ったという。

司さんも父の純文学にほれ込んだ一人だった。好きな作品の一つが「少女架刑」。死んだ少女の一人称視点でつづった鮮烈な描写こそ「純文学の頂点」と信じていた。それだけに史実を連ねた『戦艦武蔵』が出版されると「人でなく、戦艦を書いて、何が小説なのか」と抗議した。誰よりも子どもに理解されることを喜んでいた吉村は、落ち込んだ表情を見せたという。

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自身の文学観にそぐわない題材に、なぜ取り組んだのか。司さんは「男は一家のあるじであり、家族を養うものだという責任感が強い人だったから」と回想する。妻が芥川賞作家で、自身も文学賞を手にしたとはいえ、生活は楽ではなかった。〈1年間は妻の世話になるが、これでダメだったら筆を折る覚悟〉。後に親族に宛てた吉村の手紙の文言から背水の陣で挑んでいた当時の思いを改めて知った。「武蔵が反響を呼んだことで、純文学だけでは駄目だと現実を突きつけられた。求められている使命に気づいた。最初は『一家を食べさせるための記録文学』だったのかもしれません」

「戦争とは何か」という問いも吉村を突き動かしたという。旧制中学卒業と同時に終戦を迎えた吉村はその間、姉や祖母を亡くし、兄も戦死した。終戦後は「軍部が起こした戦争に国民はひきずられた」という戦争批判論が広がったが、共感できなかった。執筆の経緯をたどる『戦艦武蔵ノート』にはこう記されている。〈「武蔵」という物体を描くことは、その周囲にむらがり集まった男たちを描くことにほかならないし、それはまた戦争という熱っぽい異常な時期を解き明かす一つの糸口になりはしないか〉

司さんは、書斎に山積みにされた武蔵の膨大な資料を覚えているといい、「父にとって武蔵は、国民が戦争に突き進んだ熱狂的エネルギーの象徴に映った。武蔵を介し、人の本質を書いた。いずれ戦争を描いていたと思います」。

戦艦武蔵』は今年春に増刷された文庫版の82刷で訂正が加えられた箇所があった。発表以来57年ぶりだ。きっかけは愛読者らで作る「吉村昭研究会」の桑原文明会長(73)の指摘。史実にこだわった吉村は間違いを指摘されれば、次版で訂正しており、死後17年を経ても、読者との交流が続いていることに司さんは驚かされたという。

桑原さんは会報の発行や、吉村関連イベントを開く傍ら、20年に千葉県袖ケ浦市の自宅に私設の「吉村昭文学資料館」を開設。50年以上収集する約3000点の資料を公開している。国会図書館でも見られない貴重な資料に、司さんは「クレージー」と感嘆したほどだ。

桑原さんによると、吉村が残した小説は371作。戦史・歴史小説が注目されがちだが、短編の純文学作品も書き続けてきた。純文学で培った技法が作品全体に見られるといい、魅力をこう指摘する。練りに練られていて、言葉に無駄がなく、事実を連ねていながら、散文詩を読むような美しさがある。吉村文学が重厚なのは、短編小説のように疑縮された純度の高い文が連なっている面もあるのでしょう」

「事実こそ小説。事実が人を感動させる」と語っていた吉村は、演出のための創作は挟まず、史実と向き合いながら、芸術としての小説に昇華させようと試みた。だからこそ史実がありありとよみがえり、今も読者の心をつかむのだろう。【稲垣衆史】 

それにしても、「毎日新聞」の夕刊を購入するのは大変である。なぜなら、都内の大きな駅はいら知らず、首都圏の中小の駅やコンビニでは、大手商業新聞の夕刊は販売されていない。だから、吾輩はどうしても入手したいということで、直接地元の「毎日新聞売店」に赴いた。

午後3時半に販売店に赴くと、同店1階には電灯は付いていたものの、呼びかけても誰も出てこない。仕方がないので室内の奥まで行き、呼んだが一向に返事がない。引き返して、入口付近の机の上に置かれている夕刊のページをめくると、4面の下に大きく「吉村昭」関連の記事が掲載されていた。嬉しくなるとともに、このまま帰宅するわけにはいかないと考え、寒いので室内で待つことにした。午後5時半頃には誰か帰ってくるであろうと覚悟していたところ、午後4時15分頃に軽ワゴン車が店前に止まったので、店前に出て要件を述べると相手は「新聞業界は経営が厳しいので、人がいないのです。今後は、お金を机の上に置いて、新聞を持ち帰って下さい」というではないか。

吾輩は"新聞大好き人間″であるので、購読している朝日や読売の販売店に行くことがあるが、平日なら必ず誰か人がいる。しかし、毎日新聞の販売店では人を見かけ事がないのだ。考えてみると、朝日新聞の発行部数は今年3月で376万部、毎日新聞は182万部と全盛期から半減し、ブロック紙北海道新聞は9月末で夕刊を休止するなど、新聞業界の経営が厳しいことは知っている。ところが、最近の新聞に「米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)の7~9月期決算で、デジタル契約は21万人増の941万人、紙の新聞購読者は2万人減の67万人で、総契約者が1千万人を超えた」との報道があった。そういうことを知ると、日本でも新聞販売店が少なくなり、近いうちにデジタル化に変わるのかと考えてしまう。

※翌日、桑原会長に「毎日新聞の記事に補足する部分があればメールを下さい」とお願いしたところ、次のような文章が送られてきた。

ー〈毎日新聞「時の展望台」から」〉

毎日新聞の夕刊、「時の展望台」欄に、吉村昭氏が取り上げられた。学生時代から、出世作である「戦艦武蔵」までを、過不足なく要領よく取りまとめている(稲垣衆史・記者)

初期の吉村氏は、骨や死を執拗に描く純文学作家であった。例えばご長男・吉村司氏の好きな短編小説「少女架刑」は、ある貧乏な少女の死から物語が始まる。吉村氏は物語の展開に大いに悩み、執筆に行き詰まっていた。その時、夫人の同じ作家である津村節子氏から、死んだ少女を主人公にしたらどうか、との提案があった。すると、するすると筆が伸び、あの作品が出来上がった。あるいは、夫婦二人の合作と言えるのかもしれない。

「知人から持ち込まれた、極秘の戦艦武蔵建造日誌を基にしたルポ風のこの連載が、新潮社の編集幹部の目に留まり、小説化を強く勧められた」

「新潮社の編集幹部」とは、天皇とまで言われた齋藤十一氏である。齋藤氏はもう既に昭和33年に、吉村氏を認め、週刊新潮に短編小説「密会」を書かせている。その後の吉村氏の4度の芥川賞候補作品を全部読んでいる。齋藤氏は、この男なら書ける!と見切ったのである。

齋藤氏は大勢の社員を抱える新潮社の重役であり、売り上げが限定される純文学も必要だが、ヒット作も欲しい。そこで吉村氏に大衆性(戦記小説)を求めた。吉村氏にしても同じであった。純文学では飯は食えないのは判っていた。だが妻子は養わねばならない。

こうして両者の思惑が合致して出来上がったのが「戦艦武蔵」であった。ところが話は反転した。戦記物を依頼した齋藤氏が受け取ったのは「戦艦武蔵」という純文学であった。吉村氏にしても同じであった。気が進まぬまま書き始めた戦記物は、書き上げてみたら「戦史小説」という新しいジャンルであった。

この新聞記事の題名「積み上げた史実 小説に昇華」とは、良く練り上げられた適切な表題である。ー