地政学上の重要性を増すポーランド

吾輩は、1989年の冷戦終結後の20年ほど前頃から、将来的にロシアを牽制する国家は、地政学的な理由からドイツよりもポーランドであると、親しい友人に話してきた。そうした認識であったので、6月3日付「朝日新聞」の書評で取り上げた新刊書「鉄のカーテンをこじあけろーNATO拡大に奔走した米・ポーランドのスパイたち」(著者=元米紙ワシントン・ポスト外国特派員ジョン・ポンフレット〈1959年生まれ〉、発行所=朝日新聞出版)に注目したので、まずは書評から紹介する。

〈秘密を明かす元共産主義者たち〉

昨年来のロシアによるウクライナ侵攻に伴い、冷戦後のNATO拡大の経緯に改めて注目が集まっている。本書は、そこに情報機関の活動という角度から新たな光を当てている。

時は1990年10月。クウェートに侵攻したイラクからCIA支局長を含む6人のアメリカ人が陸路でトルコへ脱出した。手引きをしたのは、同盟国のイギリスやドイツではなく、ポーランドの情報部員だった。この奇妙なエピソードの背景を探るべく、本書はスパイたちの証言を収集する。

その起点は、冷戦末期にあった。ポーランドの情報機関の中で、ソ連と西ドイツが頭越しにドイツ統一を進めて国境を画定するのを防ぐべく、ソ連の勢力圏を脱してアメリカに接近する動きが生じる。共産主義体制が倒れて「連帯」が政権を握ると、CIAの支援が始まり、湾岸戦争でのイラクからの脱出劇に至った。

この意外な形で始まったスパイたちの対米協力が、ポーランドNATO加盟の伏線となる。アメリ同時多発テロ以後のアルカイダとの戦いでもCIAとの連携は続き、捕虜尋問のための収容所も建設された。

だが、この貢献は報われない。やがてポーランド政界で右派が台頭すると、情報機関の元共産主義者たちは追放されてしまい、それをCIAも傍観した。

そんなポーランドのスパイたちに、本書は同情的だ。アメリカとの同盟は「カバとの結婚」であり、どれほど相手に尽くしても、その巨体の無責任な動きに振り回されてしまう。この比喩は、同じく対米関係に翻弄されがちな日本に住む読者にも納得できるだろう。

その意味で、巻末の解説が指摘するように、スパイたちの証言には政治的な動機もある。それでも、秘密を生活の糧とする者たちが、これほど饒舌に自らの活動を語ったことに驚かずにはいられない。本書は、公式の記録に残らない歴史を発掘するジャーナリズムの醍醐味を実感できる一冊だ。

この書評では、「情報機関の元共産主義者たちは追放されてしまい」と書かれているが、それは2006年7月の選挙でヤロスワフ・カチンスキという名のタカ派の政治家が新首相に就任した後のことで、それまでは元共産主義者が情報機関で大活躍していたのだ。なぜ、と考える上で色々な事例で説明したいが、本書巻末の神奈川大学教授・吉留公太の「解説」文(計18ページ)が詳しいので、それで説明する。

〈なぜ、ポーランドの情報機関は対米協力を進めたのか〉

本書の理解を深めるため、「過去の清算」のほかにもニ点論じておきたい。一つは、ポーランド情報機関による対米協力の実相であり、もう一つは、NATO拡大の経緯である。

ここでは対米協力の実相について考えてみよう。読者の中には、ポーランド情報機関がNATO加盟の道を拓くことを動機として活躍し、アメリカがその実績を認めてポーランドNATO加盟が実現したとの印象を抱いた方もいるだろう。しかし、ポーランド情報機関による対米協力とNATO加盟との結びつきは直接的なものではない。そもそも本書によれば、ポーランドと同時にNATO加盟国となったハンガリーチェコの情報機関とCIAとの連携は深まらなかったのである(92頁、129頁)。

それでは、ポーランドの情報機関は何を動機にして対米協力を始めたのであろうか。本書によれば次の三つの動機があった。一つ目は、現状のポーランド国境を西ドイツに確認させる。二つ目は、情報機関の職務を維持するという組織防衛である。三つ目は、非合法時代の「連帯」がCIAに支援を受けたことによるしがらみである。

それぞれの動機について、本書が紹介している具体的な作戦を通じて確認してみよう。

一つ目の動機は「統一作戦」を起案した経緯によく示されている。第一局(※ポーランドの対外諜報部門、通称SB)のデルラトカが1988年に「統一作戦」を構想した目的は、西ドイツとソ連に水面下でドイツ統一を取引させないことにあった。西ドイツが対ソ経済支援と引き換えに東西ドイツ統一を実現すれば、西ドイツにポーランド国境を確認させる国際的な機会を失うからであった。統一したドイツはいずれ国境問題を蒸し返すであろし、そうなればポーランドは安全をソ連に依存せざるをえなくなると恐れたのである(78頁)。

つまり「統一作戦」の動機は国境問題にあった。NATOやECへの加盟、アメリカへの接近を語ることは、独ソ接近を妨害する手段として構想されたにすぎない。これらの手段を通じて達成すべき目標は西ドイツにポーランド国境を認めさせることである。

ポーランド国境問題を少し調整しておこう。ポーランド第二次世界大戦中にナチ・ドイツとソ連に分割された。終戦後もソ連は戦中に分割した旧ポーランド領の大半を返還せず、代わりに旧ドイツ帝国東部領土の多くを新たなポーランド領とした。これによりいわゆる「オーデル・ナイセ線」がポーランド西部国境となった(72〜74頁、104頁)。

ドイツは戦勝四カ国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)の占領を経て東西に分裂した。このうち東ドイツは、ポーランド西部国境を両国の国境として受け入れた。西ドイツは、1970年にポーランドと国交を結んだ際のワルシャワ条約で「オーデル・ナイセ線」を「ポーランド人民共和国の西部国境」として確認した(74頁)。

しかしポーランドは安心していなかった。西ドイツは、ナチが本格的に対外侵略する前の旧ドイツ帝国の後継国家と自らを位置づけており、その領土ーー東西ドイツと旧東部領土を含むーーの「再統一」を目指すことを建前にしていたからである。言い換えれば、ドイツを「再統一」する際には国境を交渉し直すべきという立場を捨てていなかったのである。

国境問題に関する西ドイツのかたくなな姿勢の背景には、第二次世界大戦末期から終戦後にかけて旧ドイツ帝国東部領土を含む東欧各地から膨大な数のドイツ人が追放され、そのうち約800万人が西側のドイツ占領地域(後の西ドイツ)に逃れ着いたという事情があった。これらの被追放民は、西ドイツの保守政党であるキリスト教民主同盟・社会同盟(CDU/CSU)に一定の影響を持った。デルラトカが「統一作戦」を構想したときの西ドイツの首相はCDU/CSUのヘルムート・コールであった。

第一局の責任者になったヤシクが「統一作戦」の実行を認めたのは、1989年11月にベルリンの壁が崩壊した直後であった。東ドイツは衰弱しており、その後ろ盾であったソ連も西側からの経済支援を欲していた。デルラトカの恐れた状況に一歩近づいたのだ。

その後、1990年2月に東西ドイツと戦勝四カ国は「2+4」(ツー・プラス・フォー)枠組みを発足させ、ドイツ統一問題を協議することになった。ポーランドは、西ドイツがポーランド西部国境の不動性を確認するようにアメリカの圧力を頼みつつ、イギリス、フランス、ソ連にはドイツ統一を牽制する材料としてポーランド西部国境問題を売り込んだ。

1990年3月にマゾヴィエツキ首相が訪米した際、ソ連在住のユダヤ系市民を移送する「橋作戦」を実行する意思をアメリカに伝達した。このときマゾヴィエツキがアメリカに求めたこともポーランド国境問題に関する協力であった(103頁)。結果的に、ポーランドドイツ国境を議題とした際の「2+4」外相会議への参加を認められた。西ドイツも現状のポーランド西部国境が最終的なものと確認して、旧ドイツ帝国東部領土に対する主張を放棄した。この結論を1990年秋に獲得するまで、ポーランド政府は総力を挙げて粘り強い外交を展開していたのである。

ニつ目の動機である組織防衛の論理は、本書の以下の部分によく示されている。

1990年1月のワルシャワでは、第一局がハンガリーの出来事を警告と受け止めていた。そこから引き出せる結論は一つだけだった。すなわち、ポーランド情報機関の最上層部はCIAの協力要請に応じるべきであり、でないと厄介に事態に巻き込まれる(93頁)。

ハンガリーの出来事」とは、対米協力に慎重な内務省高官が失脚した経緯を指す。「厄介な事態」とは、ポーランドでも情報機関に対する粛清が起こることを意味している。

本書の紹介するさまざま作戦についても、ポーランド情報機関の動きは必ずしもNATO加盟という動機と結びついていない。NATO加盟を追求せよという政府中枢の指令に情報機関が従ったのではなく、情報機関の判断で作戦を決断しているからである。

ポーランドの西側接近をほのめかす「統一作戦」やイラクでの「友好的なサダム」作戦の準備が、その具体例である(81頁、162頁)。機動緊急対応作戦グループ(GROM)が旧ユーゴスラビア紛争の戦犯を捕縛する「小さな花作戦」を実行した際も、GROMのキタ少佐は「ワルシャワの指揮官にはいっさい報告しなかった」という(241頁)。このように、文民統制を軽視しかねない組織文化がポーランド情報機関に継承されているのである。文化の継承は組織防衛にある程度成功した証である。

三つ目の動機であるアメリカとのしがらみは、1990年10月に米兵をイラクから救出した「友好的なサダム」作戦を決断した理由に明らかである。

「連帯」出身のミルチャノフスキ国家保護(擁護)庁(UOP)長官は、この作戦を決断した理由を次の三点にまとめている。(一)ポーランド国内での情報機関に対する粛清を止められる功績を必要としていた。(ニ)「連帯」は旧体制期にCIAから支援を受けており(CIAの作戦コードネームQRHELPFUL)、ミルチャノフスキ曰く「彼らには借りがある」状態であった。(三)UOPとCIAの連携を深化させたかった。

右記の(ニ)について、CIAは「連帯」を支援していただけでなく、その適役であった旧体制期の情報機関にも浸透してソ連のスパイの情報まで把握していたという(131頁)。CIAは「連帯」出身の新政府幹部に対しても、旧体制から留任した情報機関職員に対しても優位に立っていたのである。それゆえCIAは、UOPの教育だけではなく運営方針にすら口を出すことができた。たとえば、ミルチャノフスキがUOP長官に就いた当初、旧体制関係者への報復を考えていたという。しかし、CIAのポーランド通ジョン・パレヴィッチは「やんわりと圧力をかけて」、ミルチャノフスキを「正しい方向に導いた」という(133頁)。しかも「友好的なサダム」作戦の準備開始は、CIAの依頼を受けたその日のうちに、ミルチャノフスキ長官が内相や首相に相談せずな認めたのである(162頁)。

どうりでポーランドナショナリストは情報機関に冷たいはずである。彼らは、かつてポーランドを併合したドイツやロシア(ソ連)とつながる国内勢力を警戒するだけでなく、アメリカ、EU、NATOに同化しかねない勢力にも猜疑心を抱いているのだ。

長々と書いた割には理解不能な部分があるかもしれないが、完全に理解するためには本書を読んで貰うしかない。

ポーランドでは、1980年にグダニスクの造船所労働者のストライキが、反政府の労働組合「連帯」に発展し、最終的には89年の東欧革命となって共産主義政府を打倒した。そして30年の年月を経て、昨年2月24日のロシアによるウクライナ侵略で、まさにポーランドが避難民を何百万人と受け入れたり、西側の軍事物資を届ける主要ルートを担ったりと「民主主義陣営」の最前線になり、ポーランドの動向がウクライナ戦争の戦況に大きな影響を与えている。つまり、早くも地政学的な背景から重要なプレーヤーとして、ポーランドの地位が増してきている。

一方、目を東アジアに向けると中露を中心とする近代国家に成りきれない「権威主義陣営」と、欧米諸国と日本などの「民主主義陣営」との対立がますます尖鋭化してきた。特に日本は、中露及び北朝鮮と隣接していることから安全保障の厳しさが増し、「民主主義陣営」のリーダーの一員として責任を果たすため、遅蒔きながら北大西洋条約機構(NATO)目標の国内総生産(GDP)比2%の防衛費(ポーランド3・90%、英国2・07%、フランス1・90%、ドイツ1・57%)と同じ高みを目指すことになった。今後の日本を取り巻く国際情勢は、ウクライナ戦争の行方と同時に、「台湾有事は日本の有事である」と言われる中で、いかに中国共産党の野望を押さえるか、そして我々の覚悟に掛かっているとも言える。